『笛物語』

音楽、フルート、奏法の気付き
    そして
  日々の出来事など

フルート奏者・白川真理

第109回 音楽家講座 ~甲野善紀先生を迎えて~ in 鶴見 8月31日(火)

2021-09-02 11:07:58 | 音楽家講座・甲野善紀先生を迎えて
午後は雨の予報が出ていましたが、降られることなく開催できました。

最初に館長のTさんがご挨拶しにきてくださいました。

「このたびは、このようなことになってしまい、申し訳ございません。でも、この申し込み出来ない状況もそれほど、長く続くことはないと考えておりますので、どうぞご容赦ください。解除となった暁には、またどうぞよろしくお願いいたします。」

という趣旨のご挨拶。

デルタ株だけでなく、さらに新たな変異株も登場してきているこの状況下、公の施設としては、やむを得ない判断かと思います。

「こちらの管理の行き届いた会場だからこそ、毎回戦々恐々としつつも、開催することが出来ました。こちらこそ、今までありがとうございます。再開した折には、どうぞよろしくお願いいたします。」

とお礼を。

・・・・・・・

久々の2時間の講座はとても手ごたえがあり、充実したものとなりました。

今回は、ステージ上には先生と武術の技の受けを取る忍者のIくんのみ。

客席からの聴講となりましたが、それでも、目にも止まらぬ速さで繰り広げられる様々な技の凄さ、不思議さは伝わってきます。

「人は人の心を読む」

この能力を武術での対戦、そして演奏にも。

人はともすると、いつも、自分のことを実況中継してしまっている。

それが深い集中に入るのを邪魔しているので、それを失くすようにすることが大事。

ある集中した状態に入ることで、不思議な働きがもたらされる。

芸術家の仕事というのは、まさにその仕事によって、心理的な影響を人に与えること。

自身の心理的状態が相手に作用する。

深い集中に入れば、失敗するはずはない、あり得ない、という状態に。

そして、そういう中、人は基本「浮いている」。

「浮きがかかっている」ことが、最も重要。

その時のパフォーマンスは自分も観客の一人になったかのような状態。

命の危機を感じた時に発揮される不思議な力も同様。

また願立剣術物語の教えから、

自分でなるほど、と認識しているものは、本当の理ではなく、「私の理」。

「理」は在るものであって、納得するものではない。
「自分の理」がそこからの飛躍を妨げている。

如何にして、そこから飛躍できるか?
そのためには、身体が浮いていることが大事。

もちろん、いきなりという訳にはいかないし、まずは、身体を通しての自覚と自信がないと次には行けない。

しかし、さらにはその理論を越えないと次には行けない。

ではどうするか?
・・・・・・・

後半は個別指導。今回は受講生も3名と少なく、時間も1時間以上あったので、久しぶりに私も聴いていただくことになりました。

時短開催の時は、本当に慌ただしく、なるべく希望者全員に受講していただくために、
お一人5分、ということもあった・・

今回は10分~15分の受講となりました。

最初はフルート。
フルートを持つだけで、身体が痛くなるので、なんとかしたいとのこと。

久々に甲野先生がフルートのご指導をするのを拝見しましたが、基本は17年前の私へのものと変わらないものの、より腰、背中から繋げる様々な技が加わり、バージョンアップ。とても参考になりました。

持つ前の身体を変え、持ち方の手順を一工夫するだけで、本当に大きな変化が。
ビフォーアフターの余りの違いに改めて驚きました。

2番目のギターの方は、立って演奏している時のグルーブ感が腰かけて演奏するとなくなってしまい、おまけに、段々、身体が痛くなってくる。
スタジオの仕事などで、どうしても腰かけてやらなければいけない状況もあるので、なんとかしたい、とのこと。

「座ってはいるけれど、自分の中では立ってやっている」という心理的な分離をする。
高めの椅子から徐々に低くして、など、工夫してみる。

立つ、座るに囚われるのではなく、「自身の感覚を音に乗せる」ことを考える。
という前半のお話にも通じるご助言。

心理療法家のミルトン・エリクソンの逸話なども引いて、心理面からのアプローチを。

これは、おいそれとすぐに出来るものではないので、アフターはありませんでしたが、先生がこうしたご指導をされるのは、受講された方がそれが可能だ、と感じられていればこそ。


3番目は小鼓。

左手と右手が違う動作をするのが難しいとのこと。

左手で紐を締め、右手は軽く打つのが、締める時に力を入れるので、それが右手にも力みを生んでしまい、上手くいかない、と。

ここでは具体的に、目の前で人差し指を立て時計周りにぐるぐるとまわす。
そして、その状態のまま手を向かい合わせに、というご指導。

また、左右を夫々、グーで上下に、パーで前後に動かしそれを瞬時に取り換える、というものも。

これらの動作は、実は分離している、というよりも連動していればこそ、というのはメウロコだった。

左右の別々の動きが繋がるフっとした統一感がもたらされることが大事。

ここでも「浮き」の重要さを。

そして
「命の危機を感じられるか否か」の違いも。

実際に納刀の所作をしながら解説してくださった。

真剣は少し触れただけでも、切れてしまい、よく怪我もした。
また、胴着を斬ってしまうこともしばしば。

なので、毎回一種「命がけ」になっているとのこと。

「でもまあ、小鼓を打つくらいでは、命の危機は感じられませんよね・・」

全てが繋がれば、左右の違う動きも必然性をもって、連動する・・

これまた、すぐに出来る様なことではないのでアフターはなし。


4番目は私。

オリジナルの拙作品「水月」をとても気に入ってくださって、すぐにピアノで演奏してみた、という受講生のお一人Yさんにせっかくなので、伴奏をお願いした。

最初は冒頭8小節だけ。
でも、久々にホールで、十数名の前で演奏したせいで、そして何より、甲野先生にお聴きいただく、ということで、かなりの邪念雑念が浮かび、実況中継どころではないほどのノイズが集中を妨げ、ダメダメに。

まあ、これも装丁範囲内ではあったのだけれど、我ながら驚いた。

私からのリクエストは「祓い太刀」。
これは心身が一種命の危機を感じて、本来の素直な状態に戻る効果があるのではないかと思う。

実際、そのアフターは、別人・というくらいの集中の中、演奏することが。
つまるところ、本当に心の問題が大きい。

「この楽曲は本当に大切にされると良いでしょう。一音聴くだけで、聴き手が滂沱の涙を流す楽曲、演奏になる可能性のある作品です。」

「一音聴くだけで、滂沱の涙」
これはまさしく、師・植村泰一先生の奏でるフルートだ。
それに憧れて、ずっとやっている。
本当に、なんと遠い距離なのだろうと、改めて思う。

「確かに、上手いですが、その先を。」とも。

「向上心というのは、もちろん必要なものだし、みな持っているものですが、それはともすると欲にも繋がり、次のステージへの飛躍の邪魔をしますね。」

と先生。

まさに、私の場合は、それが一番の枷である。

「これは中々難しい部分です。私も同様ですから。」
との言葉にびっくり。

「?先生でもそのようなことがおありなのですか?」

「・・まあ、ありますね。本当にこのあたりの飛躍ができれば、古の名人たちの技により近づけるのではないか、と。まあ以前に比べれば、大分近付いてはきたのですが、まだまだですね・・」

この言葉に勇気づけられました。

まあ、私がまだまだなのは、当然か、と。



今回改めて思ったのは、「命がけか否か」ということ。

火事場の馬鹿力にしても、真剣での納刀にしても、祓い太刀にしても、頭だけでなく、

身体が命の危機を感じて発動し、本来の自然な働きを導き出す、いや、本来以上の不思議

な力を発動させるのではないか、ということです。

深い集中をもたらすための「命がけ」。

より深く考える課題となりました。

・・・・・

次回は9月28日(火)18時45分~19時45分(開場18時15分・4000円)
これで、一旦、甲野善紀先生を迎えての音楽家講座は休会となります。

どうぞよろしくお願いいたします!

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写真は「栴檀の手」
今回も新たに撮ったのですが、ぶれてしまって失敗。
前回とおなじものですが、先生の栴檀の手の内。
身体を繋げるための手の内です。