『笛物語』

音楽、フルート、奏法の気付き
    そして
  日々の出来事など

フルート奏者・白川真理

異質力の系譜 岩城正夫 関根秀樹 師弟対談とワークショップ

2023-04-30 20:07:43 | 音楽・フルート
ためになって、かつ楽しい。
そんなイベントでした。
会場は関根先生の御尽力や甲野先生のツィートのお陰もあって、ほぼ満席。
中には遠く広島からお越しの方(お父さんとお嬢さん)も。
年齢も幅広く5歳から92歳(岩城先生)。

岩城先生も益々お元気そうで、本当に良かったです。

まずは岩城先生の火起こしから。
もうじき93歳とは思えぬ身軽なご様子で、あっという間に煙が上がる。





関根先生との対談での、「熟練」のお話が最も心に残りました。



またすぐに乗れる自転車、竹馬の練習方法も。

沢山の興味深い資料も配布され、連休中にじっくり読むのが楽しみです。

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そして対談終了後は江平の笛で「江平」と「水月」。

4月9日の稲毛でのコンサートが終わってからは、レッスンの時以外は、ずっと江平の笛を吹いていました。

絶対音感というほどではないけれど、指と音程感覚は密接に結びついているので、それをフルートとは全く違う江平の笛モードにするのが一番大変だった。

それ以外も全て、とにかく共通しているのは息を使う、という点だけといってもいい。

何もかもが違う。

その上、前回の岩城先生の会でチョロっと吹いた時も、先日の音楽家講座でも大きな震えが出てきてしまい、本当にこんなことは初めてで、「ああ、これがフォーカルジストニアの症状なのだなあ・・まだ軽症だけれど、なんとかしないとなあ・・」と結構深刻ではありました。

最初は着物でとも思っていたけれど、甲野先生から「まあ、心配であれば、最後はコレですね!」と頭に巻く鎖紐を付けていただいた折の心身の整った状態は中々よく、それを使いたかったので、ウクライナワンピースにしました。腹紐と胸紐も仕込む。
四方襷は何故か江平の笛との相性が今一なのでなし。多分息が強くなりすぎるのかもしれません。足は下駄。
頭の紐が悪目立ちしないように、ターバンをその上から被る。

アクセサリーも、より響きを増幅してくれる重さのある貴金属系に。
竹笛だから、と最初は琥珀やパールの軽い物にしたのだけれど、それよりも比重の重い金やプラチナ、翡翠、ダイヤなどの方が、音にコクが生れて遠鳴りする、というのも面白い発見でした。

速くから会場入りし、部屋の四隅に気を通し、妙な歩き方などもし、リハは3回。

その後中庭に出て、池のほとりで。
ここで生まれた曲なのだなあ、としみじみと感謝の気持ちで演奏。
江平の笛はやはり屋外の笛だと思う。
風に乗って聞こえて来る木々のざわめきや、小鳥の囀り、泳ぐ魚が描く波紋などがみな、出す音に繋がり一体化できる心地が。
江平の笛もより上機嫌になったかな、と。

もしかしたら、これが屋内で吹いている時の最も大きな違和感だったのかもしれません。
屋内での演奏でも、この自然の中で吹く印象を忘れないようにしないと、と感じました。

たっぷりと時間もかけ、事前に出来ること全てやり、準備しました。

そうそう。
到着早々、岩城先生もお越しになっていたので、関根先生がお抹茶を振舞ってくださいました。
なんでも京都のとあるお茶屋さんが、誰でもすぐにとても美味しく抹茶が淹れられる方法を編み出した、とのことでその実践。
関根先生曰く、
「茶道はあれだけ作法や形式が説かれているけれど、どうすればより美味しく淹れられるかの研究は全くなされていない!!」

確かにそうかもしれません。

・・これに似たことは色々多々あるんだろうな・・・

3人共立ったままで、もちろんお作法なんてものもなく、関根先生がチャチャっとたててくださった御抹茶は、泡立ち具合が絶妙で、色も瑞々しく口当たりがとても滑らかな素晴らしいものでした。

この御抹茶でかなり気持ちも落ち着いたのかも。

本番は、最初はやはり緊張したものの、前回の様に音が出ない、息が足りないということもなく、口元の震えもなく、無事、務めを果たすことができました。

過分な感想も沢山いただき、ほっと一息。

とはいえ、これが今回のお話の「熟練の技」か?と問われるとそうじゃない。
次回、また機会があれば、その折には「熟練」「熟成」の技をお聞かせできれば、と思います。出来れば屋外が良いなあ・・

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後半は庭に出て、竹筒を地面に打ち付けて鳴らす楽器と江平の笛でセッションしたり、焚火でマシュマロ(焦がしちゃいましたが)を炙って食べたり、と学園祭に紛れ込んだような楽しい時間を過ごしました。






学生さん達が提供していたカレーも、コーヒーも美味しかった!

あと、驚いたのは、「火起こし」に興味関心を、それも熱心に持っている人が、こんなに沢山いる、ということ。
まあ、岩城先生と関根先生の会なので、当然といえば当然なのですが、やはり驚きでした。


お世話役のIさん、Aさん、和光大学OBOGの皆様、参加された皆様、関根先生、岩城先生、ありがとうございました!

本当に良い経験をさせていただきました。そして楽しかったです!





指孔と指

2023-04-28 22:10:45 | 気付き
その後、口元が安定するお作法的構え方も工夫し、より鳴ってきた江平の笛。

更に、本日、アっと驚くというか、呆れてしまう気付きがありました。

それは押さえていない時の指の取り扱い。

フルートでは、指はなるべく常にキィの側というのが基本中の基本。

そういう風にしていないと、速いパッセージなど不可能でしょう、ということで。

音大時代、とある先輩は、フルートに何かしら工夫して実際に糸を張り、それに指が触れないように練習した、と伝え聞いたことがある。

実際プロ奏者のみならず、結構やり込んだアマチュアでも、指がバタついている人は居ない。

それくらい、指の動きに関してはフルートに親しむ者はみんな修行している訳で。

なので、江平の笛でも、普通に指が指孔の側という状態で吹いていた。

でも、ふと、指孔の上で指を揺らして、音程を揺らす技、というのを試していて、ハタと気付いた。

指が穴に近いとピッチが微妙に下がり、音色は暗くなるのだな、ということに。
ピッチに関しては吹き方で微調整しながら吹いていた。

気付いてみれば、そんなの物理的に当たり前じゃないか、と思うけれど、なんせ半世紀フルートを吹いていたので、指を穴から離す時に高く上げるなどということはしたことがない。というか、してはいけないと身体の感覚に刷り込まれている。

これを取っ払って、指が天上を指し示すくらいに、パっと上げて吹く様にしたところ、より音の通りも響きも良くなり、音程もラクで、ようやく江平の笛を吹いて、楽しいなあ、という気持になれたのでした。

それに気づいたのだけれど、指孔から指が遠くても、それほど指運びに不自由するということはない。むしろ、その都度指がリセットされリフレッシュされるので、機嫌よく吹ける。

指を指孔から遠ざけた後の音は、ちょっとマスクを外した後の感じに似ている。
これも、ずっと抱えていた違和感の原因の一つだったのだろう。

90分程練習した後、夫が「ピピ知らない?何処にも居ないんだけど・・」と入ってきた。

「え?2階にも居ないの?」と心配になったのだけれど、なんと、笛を吹いていたリビングのソファーの裏、窓際で日光浴しつつウトウトとしていたのでした。

ピピはシビアな猫で(猫は皆シビアか・・)フルートを組み立てだすと「チェッ!」と舌打ちするかのような表情で憮然として部屋を出て行くのが常。

江平の笛の時も同様で、手にしただけで逃げ出していた。

その上、60分くらいするとやってきて「もうやめてくださいよ~~」と足元にスリスリして妨害する。

猫ハラスメント、「ネコハラ」という奴です。

それが今日は逃げ出さず、ずっと同じ部屋に。
それも90分。

たまたまかもしれませんが、こんなことは初めてだったので、とても嬉しい。





2023-04-25 23:57:02 | 気付き

能・『芭蕉』の解説を昨日聞いてから、ずっと江平の笛のことを考えていた。

草木ですら成仏するのを欲しているのだから、増してや楽器となると・・

思えば今更ながら「江平の笛」には気の毒なことをしてきたと思う。

元々、フルート以外の笛にさしたる関心もなかったところに、関根秀樹先生から何故か贈られて、その後、やはり関根先生が、この笛が活躍する場を沢山用意してくださり、あれよあれよと巻き込まれて、という経緯だったこともある。

もちろん、この竹笛で多くの方が喜んでくださるのは嬉しかったし、珍しさもあって、数年は吹いたけれど、やはり、よりロットの響きの追求が面白くなってくると、竹笛まで吹く時間と意欲はどんどんとなくなって行った。

15,6年間、ずっとしまいこまれたまま、一度も息を通してもらえなかった笛。

もし江平の笛の精が現れたら、そりゃあ、もう芭蕉の精どころか、大変な恨みつらみと悲しみを切々と述べたことだろう。

昨年11月6日に岩城先生から、私の江平の笛の演奏を聴いたのがきっかけで、85歳からギターを始めたとうかがい、また江平の笛を聴きたいとリクエストいただき、慌てて、翌日江平の笛を取り出した。

幸い割れなどもなく、ちゃんと音も出た。
フルートの進展に伴って、竹笛もきっと以前より上達しているに違いない、という見込みがあっけなく外れ、酷いものだった。

まあ、以前は今よりも力みも多くがっちり固めて吹いてたしな、と気を取り直して取り組んできたけれど、やはり鳴りが悪く、ずっと違和感が。
なんだか違う、なんだか妙だ・・・という思いのまま5ヶ月が過ぎたけれど、その結果震えまででてきてしまい、これはもうフォーカルジストニア一歩手前、というかもうなってるかも?というくらいのブラックホールに。

そして、本日、改めて江平の笛に謝りながら絹の細い飾り紐の房で中を掃除し、指孔、謡口などもそっと祓ってやったりした。

そしてその時気付いたのは・・・

通常フルートの頭部間のてっぺんはキャップがついて塞がれている。

篠笛や能管、龍笛も、みなそれは同様に塞がれている。

でも、江平の笛の頭にはキャップがない。
節の上一寸程のところで切られた状態そのままだった。

そんなことすら、今頃認識したのか、というお粗末さ・・

そして、その頭の空間にも、絹の柔らかな房をそっと入れてはらったところ、本当にごく僅かではあったのだけれど、ホコリが・・・

もちろん、この埃のせいだけではないのだろうけれど、この後の江平の笛の音はようやく納得のいくものに。

本当に可哀そうなことをしたものです。

それにしても、15年近くもしまわれっぱなしだったのに、この埃以外は、なんともなっていない竹笛。

これは関根秀樹先生の技術の高さの証明でもある。

あとは、先週あたりからだけれど、構え方を大きく変えた。

以前吹いていた時は慣れ親しんだフルートの持ち方のままで竹笛を持っていて、それで別に不都合なことはなかったのだけれど、今回、あまりにヘタになってしまっていたので、篠笛の構え方を真似てみた。幸いなことに、沢山の参考例が動画にあがっている。

改めて感嘆したのは、手の形、指の向きや長さをそのままに使おうとしている日本の文化と発想。

フルートはまずキーシステムありきで、左手の親指も使わねばならず、そのため、色々と無理をさせている。そして、「全ての指を同じように丸めて」という発想。

これはバッハタッチなど、鍵盤楽器における手指の構えにも通じる。
短い親指と小指に揃えるために他の3本の指を丸めて使うというもの。
これはこれで、もちろん一種「手の内」となり、上手く使えれば身体と末端を繋げる役割もある。

それが篠笛の右手は「全て同じに丸めて」ではなくて人差し指と小指は指腹だけれど、中指、薬指は第一関節と第二関節の間。これは、自然に体側に降ろした時の手指の形状に近く力みのないものとなる。

更に左手の親指はキィを押さえる必要もないので、後ろ側に回す事もなく、斜め下から笛を支えるように伸ばし、人差し指、中指、薬指は軽く曲げられて指腹で。
この左手の形状も、指の長さに沿った無理させることのない、自然な形状だ。

フルートの時に使っていた手の内によるテンションは竹笛には強すぎたということもようやく気付いた次第。

野球のボールを投げるのとピンポン玉を投げるのでは、違うよね、という話。

大分、竹笛の軽さに対応できるように。

江平の笛の右手は人差し指と中指しかないので、小指ではなく、のばした薬指を支える指にすることに。左手はもともと小指はない。

とりあえず、今回はこれでやってみようと思う。


能そして現代音楽

2023-04-25 00:38:41 | 音楽・フルート

久々の千駄ヶ谷の国立能楽堂。とはいっても、本日は大講義室。

5月5日の本公演に先立ち開催された能楽師・加藤眞悟氏による特別事前講座にうかがいました。
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4月23日(日)午後2時~4時
国立能楽堂大講義室  
ゲスト:甲野善紀(古武術実践研究家)
参加費1,000円(当日、5月5日の本公演チケット購入者は500円)
 ①『芭蕉』のあらすじと見どころ
 ②『芭蕉』の能面と能装束
 ③舞は表現の頂点「序の舞」舞と無
 ④「舞の身体表現」対談&実技:甲野善紀&加藤眞悟
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加藤氏は哲学科で学ばれたとのことで、氏独自の深い洞察による世阿弥の能の解釈など、とても面白く、すぐに話に引き込まれました。

能は魂を鎮めるもの、と知識としては知っていたものの、縄文時代から続いてきた神道、そして中国から伝わった仏教の中で培われてきた『草木国土悉皆成仏』、そして都のそこらかしこで目の前で人が死ぬのが当たり前だった武家社会の時代における『祟り』や『六道輪廻』の話から解かれる解説に、より理解と共感を深めることができました。

特に世阿弥とその世阿弥の思想を受け継ぐ金春禅竹の作品は、鎮魂とはいっても、生きている人間が亡くなったもの達の魂をどうのこうのして、というのではなく、負けた側にも、その理があり、能の中でその精神性がツーツーツーっと上がっていき、悩みが晴れていく、という解説。

深く心に響くお話でした。

今回、予習として世阿弥の『風姿花伝』を読んでいったのですが、もう一度、改めて読み返さなくては・・と思いました。

面の取り扱い方、鏡の間、装束などの解説も興味深く拝聴。
そして5月5日の本公演で演じられる『芭蕉』の解説。
人ではなく、芭蕉の葉の精なのだから、まさに『草木国土悉皆成仏』。
本公演がさらに楽しみになりました。


そして後半は甲野先生との対談。

甲野先生は日本の武家政治が数百年続いたこと、禅、浄土真宗等のお話をされ、そして、剣道の話に。
そこから身体の使い方。「正しい基本」と言われていることの真偽を鵜呑みにするべきではない、というお話を。

また剣道を嗜んでいらしたという加藤氏と実際に竹刀を使っての立ち合いも。
最新の技に加藤氏も驚かれていました。

丹田をギュルギュルギュルっと感じることができる大和座りや、腕先を使っての方向転換のやり方、などに客席から感嘆の声が上がりました。

会場には音楽家講座に参加された皆様も多く、ご挨拶。

加藤氏と甲野先生にご挨拶して、退席。

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その後は上野文化会館会議室に。

ずっと本番と重なったりして参加出来なかった演奏表現学会の会合に久々に参加。

この日は、名ピアニスト・作曲家の野平一郎氏を迎えてのフランス現代音楽のレクチャー。

野平氏は、この文化会館の音楽監督であり、この春からは東京音楽大学の学長となられた。そのような、とてもお忙しい中の登壇。

メシアン、デュティユー、ブーレーズ、そして実際にパリで野平氏と交流のあった様々な現代の作曲家達とその作品の紹介。

トータル・セリエズム、スペクトル楽派、さらにはサチュラシオン(飽和)楽派・・

頭の中は???だらけとなったけれど、これらのフランス現代音楽の根本にある思想は、それまでの「人間中心の否定」だという。

そして、それに代わって、構造主義、フッサール、フーコー、レヴィナス、デリダ等の「哲学」がその基盤になっているとのこと。

ミュライユによるオーケストレーションのコンピュータソフトの作成、そしてコンピュータ支援作曲の話も、面白かった。

さらにこうした動きはとてつもない速さで今も加速しているのだろうな・・・


まさにサチュラシオンな一日でしたが、心地よい疲れ、というか全く疲れを感じないくらいの充実度でした。

14世紀の世阿弥の日本から一気に現代のフランスへ。
700年の時と場所の隔たり、そして全く異なる世界と思想。

正直、現代音楽は苦手。なんとかメシアン、ギリ、デュティユーでまでかなあ・・・

でも、それは、自分が常に音楽に対峙する時「人間=自分の感情中心」だったことに気付かされた。

聴き方、演奏する時の「構え」からして違っていたのだから、好きになれるはずはない。

池田清彦氏、そしてお弟子の西條剛央氏の唱えるところの『構造構成主義』的な構えになれれば、自身の苦手も変わっていけるのかもしれない。

ウクライナのシルベストロフが前衛から機能和声に回帰したように、本来の音楽はこちら側ではないか、という思いは依然としてあるけれど。

現代音楽は一体誰が必要としているのだろう?くらいに思っていたのだけれど。

これを機に、少しずつ聴いてみようかな・・


芭蕉の葉の精霊が現れるくらいなのだから、AIの精霊だって居るかもしれません。

『草木国土AI悉皆成仏』?


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写真は文化会館2階の精養軒で一息ついて。
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