思えば、甲野先生と出会わなかったら、これほど「構え方」に関して考えることはなかったのではないかと思う。
「姿勢」は考えても、その姿勢に至るまでの動線や手順、作法といったものは、もう皆、日常培ってしまった、その時点の自分にとっての「当たり前」であり「普通」なのだから。
改めて、出会えたことへの感謝、そして先生がご回復されたことの喜びなどをかみしめているところです。
まるでシンクロするかのように、私もずっと親不知抜歯の影響で不調が続いていて、フルートはあまり吹けない状況でした。
最近ようやく2時間くらいは吹けるようになり、回復を実感しているものの、まだ右顎、頬には微かな痛みもあり、首肩、右腕も、自分のものではないような、ちょっとやな感じではある。
でも、これらの痛みや不調は、鈍感だった感覚を多少はマシにしてくれる効用もありました。
なんとなくでやっても元気な時は無理が効いてしまうのでわからなかったことが多々あった、ということが判明。
掌の向きによる肩の変化もこのお陰での気付き。
先週のホール練習の折明確になった構え方によるその後の心身の状態の違いも大きかった。
そして、本日の変化は先生のメルマガに負うところが多い。
左手と右手の話。
そして構える折の足の運び方。
まるで「ネズミの嫁入り」みたいな話の展開なのだけれど、やはり「抜刀術」に戻ってくる。
ずっと右手に伴って右足を出していたのだけれど、左右の手の使い方の変化に伴って左足を後ろに引くようになりました。
これはもともと、2004年にやっていた抜刀術の応用でやっていたことなのだけれど、その後の腕の操作の変化に伴って右足を前に出す様になってもう10年以上、これでやってきていたもの。
それが、左右を協力させないやり方に伴い、左足腰は後ろに。つまり抜刀の折の身体を観音開きにする動きに。
左右の手は交差させておき、カテナリー曲線を描きつつ、左足腰を後ろに下げ、身体は観音開きに。
足は母指球、小指球、踵、指先を接地。
あとは目。楽譜は部屋や会場の壁に浮かんでいる感じで。
フルートを携えた状態から口元に持っていくまでの僅か数十センチの道のりをどうやって旅するか。
この構え方ひとつで、本当に「雲泥の差」が生れるということが、面白く、そして恐ろしい。
「姿勢」は考えても、その姿勢に至るまでの動線や手順、作法といったものは、もう皆、日常培ってしまった、その時点の自分にとっての「当たり前」であり「普通」なのだから。
改めて、出会えたことへの感謝、そして先生がご回復されたことの喜びなどをかみしめているところです。
まるでシンクロするかのように、私もずっと親不知抜歯の影響で不調が続いていて、フルートはあまり吹けない状況でした。
最近ようやく2時間くらいは吹けるようになり、回復を実感しているものの、まだ右顎、頬には微かな痛みもあり、首肩、右腕も、自分のものではないような、ちょっとやな感じではある。
でも、これらの痛みや不調は、鈍感だった感覚を多少はマシにしてくれる効用もありました。
なんとなくでやっても元気な時は無理が効いてしまうのでわからなかったことが多々あった、ということが判明。
掌の向きによる肩の変化もこのお陰での気付き。
先週のホール練習の折明確になった構え方によるその後の心身の状態の違いも大きかった。
そして、本日の変化は先生のメルマガに負うところが多い。
左手と右手の話。
そして構える折の足の運び方。
まるで「ネズミの嫁入り」みたいな話の展開なのだけれど、やはり「抜刀術」に戻ってくる。
ずっと右手に伴って右足を出していたのだけれど、左右の手の使い方の変化に伴って左足を後ろに引くようになりました。
これはもともと、2004年にやっていた抜刀術の応用でやっていたことなのだけれど、その後の腕の操作の変化に伴って右足を前に出す様になってもう10年以上、これでやってきていたもの。
それが、左右を協力させないやり方に伴い、左足腰は後ろに。つまり抜刀の折の身体を観音開きにする動きに。
左右の手は交差させておき、カテナリー曲線を描きつつ、左足腰を後ろに下げ、身体は観音開きに。
足は母指球、小指球、踵、指先を接地。
あとは目。楽譜は部屋や会場の壁に浮かんでいる感じで。
フルートを携えた状態から口元に持っていくまでの僅か数十センチの道のりをどうやって旅するか。
この構え方ひとつで、本当に「雲泥の差」が生れるということが、面白く、そして恐ろしい。