僕は少しだけ狭い範囲で「先生」と呼ばれてたことがある
今から考えるとあれしきのことで恥ずかしいけれど・・
22歳のころ青年の家っていう名古屋にいくつかあった施設で短期の講座が開かれた
3カ月で終わってしまうようなミニ講座だった
自宅で仕事してた僕はこのままだと世間知らずになってしまうというちょっとした焦りから
そんな講座に時々通うようになった
16mmフィルム映写技師資格取得講座 とか初心者社交ダンス講座とか・・・
色々あったのだが いつも接してるそれらの講座の中に珍しく「フォークギター講座」なるものを発見した
中二でギターを買ってもらって時々自己流にでも弾いてれば多少は弾ける
でもいっぺん習ってみよう と思いそれを受講した
もともと初心者を対象にしていたものだから・・・ほとんど初心者。。
20人くらいの中で多分僕が一番弾けたわけだ
先生もそんなにうまくない
僕の方が弾けたくらい
もう一応オリジナルなんかも持ってたし・・
その講座は3ヶ月たって ちょっと なんだかなぁ・・って感じで終わった
終わったんだけど チョイ太ってて長い髪で ニヤっと白い歯を見せて笑う男に捕まった
「俺とサークル作ろうぜ」
僕は即答した
「いやだ」
ある程度ギターは弾けたけど人前で弾くのはごめんだ
そんな勇気ないし苦しい練習はしたくない と思ってたから
「おみゃーが一番弾ける 俺が発起人になるから手伝ってくれ」 「いや」と重ねて意思表示したけれども
こいつはひつこい
僕より一つ年上のクマって男だった 名前がクマじゃなくて風貌がクマ
結局やさしい僕は名実ともにこの男に捕まってしまったわけだ
初めはこの講座の残党数人でスタート
ここで僕は図らずも先生になる
といってもそう呼ばれてはいない まだ。。
クマがリーダーで僕ポップコーンがサブ
とにかく目立ちたがり屋の彼のアシスト しょうがなくやっていた
メンバーの中で二人から数人メンバーを組んで コンサートの目標を立ててスタート
コンサートと言ってもこの青年の家のプレイルームを借りて観客として友達を連れてくるという感じのものだ
サークルの中では次のコンサートまでの臨時バンドをいくつか組んだけど
固定のバンドにも入らされた
勿論クマバンドだ
なんだかんだといいながらいろんな人間を集めてきた
それはクマの政治力によるところも大きい
新聞に週に一回いろんなサークルのメンバー集めを手伝ってくれる欄があった
水曜日の市民版に一枠無料で載せてくれる
そこからまた人が集まってきた
それは僕の名前と電話番号が載ってたもんだから変わった依頼が来ることもあった
「私は60歳をとおに越えたおばあちゃんですがギターを習ってみたいんです 教えてもらうことはできますか?」
その頃はもうサークルなんてやりたくないって気持ちじゃなく
逆に広めたい気持だったしギターやりたいならおばあちゃんでもお爺ちゃんでも教えてあげたい
そんな気でいたから その電話はむしろうれしかったことを覚えてる
「僕たちサークルでやってますんで・・来られますか?」
「うちで教えてもらうわけにはいきませんか?」
「わかりました じゃおじゃまします」
住所を聞いてそこへ着いたら そこは寮だった
ある病院の敷地内にある看護学生たちの寮で そのおばあちゃんはそこの寮母さんだった
舎監さんと呼ばれる鬼寮母さん
学生たちから恐れられていたそのばあちゃんは僕には手のひらを返したようにやさしい物言いをする
一応彼女に教え始めたけれど 本心は学生たちの部活の指導者を探していたのかもしれない
3か月ほどすると「学生たちに教えてくださいますか?」
僕はその目がねに適った形だった
それから新婚の一年を除いて10年間 僕は「先生」と柄にもない呼び方をされ続けた
長い前置きだったけど 今日の主役はこの舎監さんだ
この人は普段はこの寮に住んで大大大好きなものにその情熱を傾けていた
五木ひろし
ファンクラブに入りどういう伝手か彼が名古屋で公演をするときには 自分のマンションを提供してたらしい
市内にマンションを持ってそこはめったに使うことなく寮で生活
その頃の彼女はお金に不自由って感じを全く見せない裕福な人だったようだ
僕にもなんだかんだよくしてくれた
年配の女性が若い男の子をかわいがる
そんな図式も僕の心の片隅にはあったけど とにかく大事にされていた
それは僕が結婚してからも続く
彼女には 一人息子がいてこの人が怪しい
今どこにいるのかわからない
前は東南アジアのどこかに住んでた とか
そんな話を聞くようになってからおかしくなったのか おかしくなったからそんな話を聞くようになったのか
今はもう覚えていない
ある日僕らの家庭に一通の手紙が届く
それはもう寮というもの自体が役割を終えて10年間の僕の役割も
舎監としての彼女の役割をも終えた後の話
「すみませんが5万円貸していただけないでしょうか」
こちらの生活をもたたみ その居を旅行で訪れて気に入った八丈島に移したその地からのもの
時々息子に無心されている
そういう言葉を聞くようになってから少しずつその生活様式が変わってきたようにも思っていたけど
僕に頼むとは余程困った状態だったのでしょう
ただしこれは僕にというわけじゃなく 僕ら夫婦に ということになってしまったのは少し彼女の計算違いだったのかもしれない
その場では都合付けて書いてある口座に送ったけど・・
多分僕だけならそんなに早く次の行動を起こすこともなかっただろう
3ヶ月くらいで妻が返還の催促を僕にし始めた
隣で何回も言われれば いくらのんびりしてる僕でもそのままにできない
手紙を書いた
僕たちにとっても決して余裕のあるお金じゃないと
気の毒なことだとは思ったけど、八丈の住所に送った
たぶん無理に無理を重ねて お金を作ったのだろう
それから1カ月くらいで送り返してきた
あれから一度も声を聞かない
僕がまだ30代の後半のころの話・・・
もし、お金を貸さなかったら そういう状況に彼女がなかったら
多分まだいまでも声を聞くことができてるだろう
いや・・冷静に計算すると40くらい年上だったから今どこかで生活しているということもないかもしれない
それにしても消息くらいは分かってただろうに
世話になった ことは間違いない
その人の一度の要請に応えて・・応えたがゆえに離れてしまう
僕よりもきっと寂しかったに違いない
彼女は日頃 息子に対して負い目がある という言葉をこぼしていた
たぶんそれが寂しい老後をもっと寂しくさせたに違いない
僕は彼女を先生と呼び 彼女は僕を先生と呼んだ
目を閉じると・・・・・ やさしい笑顔しか浮かんでこない
せんせい
僕は生きるよ
今から考えるとあれしきのことで恥ずかしいけれど・・
22歳のころ青年の家っていう名古屋にいくつかあった施設で短期の講座が開かれた
3カ月で終わってしまうようなミニ講座だった
自宅で仕事してた僕はこのままだと世間知らずになってしまうというちょっとした焦りから
そんな講座に時々通うようになった
16mmフィルム映写技師資格取得講座 とか初心者社交ダンス講座とか・・・
色々あったのだが いつも接してるそれらの講座の中に珍しく「フォークギター講座」なるものを発見した
中二でギターを買ってもらって時々自己流にでも弾いてれば多少は弾ける
でもいっぺん習ってみよう と思いそれを受講した
もともと初心者を対象にしていたものだから・・・ほとんど初心者。。
20人くらいの中で多分僕が一番弾けたわけだ
先生もそんなにうまくない
僕の方が弾けたくらい
もう一応オリジナルなんかも持ってたし・・
その講座は3ヶ月たって ちょっと なんだかなぁ・・って感じで終わった
終わったんだけど チョイ太ってて長い髪で ニヤっと白い歯を見せて笑う男に捕まった
「俺とサークル作ろうぜ」
僕は即答した
「いやだ」
ある程度ギターは弾けたけど人前で弾くのはごめんだ
そんな勇気ないし苦しい練習はしたくない と思ってたから
「おみゃーが一番弾ける 俺が発起人になるから手伝ってくれ」 「いや」と重ねて意思表示したけれども
こいつはひつこい
僕より一つ年上のクマって男だった 名前がクマじゃなくて風貌がクマ
結局やさしい僕は名実ともにこの男に捕まってしまったわけだ
初めはこの講座の残党数人でスタート
ここで僕は図らずも先生になる
といってもそう呼ばれてはいない まだ。。
クマがリーダーで僕ポップコーンがサブ
とにかく目立ちたがり屋の彼のアシスト しょうがなくやっていた
メンバーの中で二人から数人メンバーを組んで コンサートの目標を立ててスタート
コンサートと言ってもこの青年の家のプレイルームを借りて観客として友達を連れてくるという感じのものだ
サークルの中では次のコンサートまでの臨時バンドをいくつか組んだけど
固定のバンドにも入らされた
勿論クマバンドだ
なんだかんだといいながらいろんな人間を集めてきた
それはクマの政治力によるところも大きい
新聞に週に一回いろんなサークルのメンバー集めを手伝ってくれる欄があった
水曜日の市民版に一枠無料で載せてくれる
そこからまた人が集まってきた
それは僕の名前と電話番号が載ってたもんだから変わった依頼が来ることもあった
「私は60歳をとおに越えたおばあちゃんですがギターを習ってみたいんです 教えてもらうことはできますか?」
その頃はもうサークルなんてやりたくないって気持ちじゃなく
逆に広めたい気持だったしギターやりたいならおばあちゃんでもお爺ちゃんでも教えてあげたい
そんな気でいたから その電話はむしろうれしかったことを覚えてる
「僕たちサークルでやってますんで・・来られますか?」
「うちで教えてもらうわけにはいきませんか?」
「わかりました じゃおじゃまします」
住所を聞いてそこへ着いたら そこは寮だった
ある病院の敷地内にある看護学生たちの寮で そのおばあちゃんはそこの寮母さんだった
舎監さんと呼ばれる鬼寮母さん
学生たちから恐れられていたそのばあちゃんは僕には手のひらを返したようにやさしい物言いをする
一応彼女に教え始めたけれど 本心は学生たちの部活の指導者を探していたのかもしれない
3か月ほどすると「学生たちに教えてくださいますか?」
僕はその目がねに適った形だった
それから新婚の一年を除いて10年間 僕は「先生」と柄にもない呼び方をされ続けた
長い前置きだったけど 今日の主役はこの舎監さんだ
この人は普段はこの寮に住んで大大大好きなものにその情熱を傾けていた
五木ひろし
ファンクラブに入りどういう伝手か彼が名古屋で公演をするときには 自分のマンションを提供してたらしい
市内にマンションを持ってそこはめったに使うことなく寮で生活
その頃の彼女はお金に不自由って感じを全く見せない裕福な人だったようだ
僕にもなんだかんだよくしてくれた
年配の女性が若い男の子をかわいがる
そんな図式も僕の心の片隅にはあったけど とにかく大事にされていた
それは僕が結婚してからも続く
彼女には 一人息子がいてこの人が怪しい
今どこにいるのかわからない
前は東南アジアのどこかに住んでた とか
そんな話を聞くようになってからおかしくなったのか おかしくなったからそんな話を聞くようになったのか
今はもう覚えていない
ある日僕らの家庭に一通の手紙が届く
それはもう寮というもの自体が役割を終えて10年間の僕の役割も
舎監としての彼女の役割をも終えた後の話
「すみませんが5万円貸していただけないでしょうか」
こちらの生活をもたたみ その居を旅行で訪れて気に入った八丈島に移したその地からのもの
時々息子に無心されている
そういう言葉を聞くようになってから少しずつその生活様式が変わってきたようにも思っていたけど
僕に頼むとは余程困った状態だったのでしょう
ただしこれは僕にというわけじゃなく 僕ら夫婦に ということになってしまったのは少し彼女の計算違いだったのかもしれない
その場では都合付けて書いてある口座に送ったけど・・
多分僕だけならそんなに早く次の行動を起こすこともなかっただろう
3ヶ月くらいで妻が返還の催促を僕にし始めた
隣で何回も言われれば いくらのんびりしてる僕でもそのままにできない
手紙を書いた
僕たちにとっても決して余裕のあるお金じゃないと
気の毒なことだとは思ったけど、八丈の住所に送った
たぶん無理に無理を重ねて お金を作ったのだろう
それから1カ月くらいで送り返してきた
あれから一度も声を聞かない
僕がまだ30代の後半のころの話・・・
もし、お金を貸さなかったら そういう状況に彼女がなかったら
多分まだいまでも声を聞くことができてるだろう
いや・・冷静に計算すると40くらい年上だったから今どこかで生活しているということもないかもしれない
それにしても消息くらいは分かってただろうに
世話になった ことは間違いない
その人の一度の要請に応えて・・応えたがゆえに離れてしまう
僕よりもきっと寂しかったに違いない
彼女は日頃 息子に対して負い目がある という言葉をこぼしていた
たぶんそれが寂しい老後をもっと寂しくさせたに違いない
僕は彼女を先生と呼び 彼女は僕を先生と呼んだ
目を閉じると・・・・・ やさしい笑顔しか浮かんでこない
せんせい
僕は生きるよ