☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

祈りがきかれないと言う人に 5

2015-05-07 22:33:11 | 今日の光明法語

【 罪悪意識による自己処罰その他 】


かくて高級霊の人類光明化運動に協力すると言う誓いを立てても、尚、病気が治らないとか、
不幸が去らないとか言う場合には、高級霊が、信者の「 過去の業の波動 」を破摧して下さっても、
あとから、あとからと、自分の心で不幸を起していることもあり得るのである。


それは、罪の観念(罪悪意識)による自己破壊の潜在意識や、他を憎んだり恨んだりする攻撃精神が、
自分に撥ね返って来て、自分を毀傷することがあるからである。
或いは同情を求める心で自分を不幸に陥れていることもある。だから、祈りがきかれない場合には、
自己反省してみて、罪の観念によって自己処罰しようとしていないかをたしかめ、罪を自浄するよう、
実相を観ずる修行をすることが必要である。
( 「 若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念ぜよ。衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す。」
仏説観普賢菩薩行法経 )


そして又、自分を不幸の状態にして他から同情されたいとか、いたわられたいとか言う隠れたる感情が
ないかを自己反省してたしかめ、尚もそのような感情があるならば、毅然として独り立つところの
「 神の子 」の尊厳を自覚するように努めなければならない。


これも神想観中に「 独り立つところの神の子なる自分 」を念ずるがよい。
その次には、自己に他を憎んだり恨んだりする感情がないかをたしかめ、若しそのような感情が
あるならば、神想観して心を統一し、その精神統一状態に於いて、その憎んでいる相手を心に
思い浮べて、「 私はあなたを赦しました、私はあなたに感謝しています 」(『 私はこうして祈る 』
参照 )等の言葉を繰返し念じて、その憎みの感情を浄化してしまうことが必要である。
他を傷つけようとする憎みの感情は反転して自己を傷つけるからである。


自己を憎んでいる自己処罰の観念があるならば、「 私は自分を赦したのだ。自分はもう自分を
自己処罰しない 」と繰返し念じて自己処罰の観念を浄化し去ることが必要である。
パウロは「 我れみずからを審判かず 」と言っているのである。自己をあまり審判きすぎることも
不幸を持ち来す原因であり、祈りが成就しない原因にもなるのである。


〈 了 〉




祈りがきかれないと言う人に 4

2015-05-07 22:24:10 | 今日の光明法語

【 唯一最高の宇宙の大神は病気を癒すか 】

宗教家の多くは高級霊と言うような言葉や治病霊媒と言う言葉を使わないで、
その宗教の本尊たる「 唯一最高の宇宙の大神のお蔭 」と言うような表現を用いる。


しかし本当を言えば、宇宙本源の大神は、イエスが「 天にまします父は善人にも悪人にも同じように
太陽を照らし、雨のうるおいを与えたまう 」と言ったように、公平無私で、心の持方が善であろうと
悪であろうと、その恵みの多少に影響するものでないのである。


従って祈った者にだけ“ 病気を治してあげる ”と言うような依怙贔屓(えこひいき)なことはない。
本当を言えば金光教祖が「 信心しないでもお蔭はやってある 」と喝破していられるように、
本源の神は、“ 実相に於いて ”既に十全の恵みを与えていられるのであって、
吾らは“ 実相に於いては ”既に完全無欠なのである。


換言すれば「 始めから治っている 」のである。だから、祈りによって、改善されるのは
現象の不完全さに就いてである。その現象の不完全さは「 本源の実相の神 」がつくり出す訳ではなく、
吾々自身の「 心 」のあらわすところであるから、その心の波長を改善すれば、現象界の不完全は
消えるのである。


しかし今いくら自分が改心し悔改めても、過去に蓄積したところの自分のつくった「 心の波動 」
( 仏教で謂う業(ごう)に当る )が、テープ・レコーダーのテープに私達の声が残っているように、
残っている限りは、依然として悪い現象があらわれて来るし、因襲の久しき自分の現在の心の状態を
一変しようと思っても中々困難な時があるのであるから、「 過去につくった心の業 」や「 因襲 」を、
聖霊又は高級霊によるもっと強力な霊波によって他力的に破摧して貰うよう願うために、
“ 祈り ”が必要となるのである。


これは“ 相手 ”があることであるから、“ 相手 ”たる聖霊又は高級霊の御意に召す心境になることが
必要なのである。( 「 聖霊 」と謂うのは、宇宙の本源神が現象界に働きかけるために現象的にあらわ
れた化身・化仏と解してよい。)


それには、やはり、その高級霊が今 大いに運動しているところの人類光明化運動に、自己も亦献身す
ると言う覚悟を高級霊に表明することが必要なのである。
これが即ち天理教の「 わが身忘れて日の寄進 」の心境であり、「 この病気が治ったら教会をひらかして
頂きます 」の誓いの披瀝となるのである。



祈りがきかれないと言う人に 3

2015-05-07 22:16:02 | 今日の光明法語

【祈りのきかれない場合の心境はどんなものか】


“ 健康になりたい ”とか、富裕な豊かな生活を送りたいとか言うのは必ずしも悪いことでは
ないのである。それは人間の自然的感情であって、心の持方に間違いがある訳ではない。

けれども、もっと根本的に言うと、その健康をその人が何の目的のために求めるか、
又その富をその人が何の目的のために求めるかと言うことになると、其処に多少の問題が
でて来るのである。自分の快適のために‘のみ’自分の安楽のために‘のみ’健康を求め、
富を求めるならば、それは単なる利己主義であるのである。


そのような利己主義の満足のためのみになら、人類救済運動に専心協力している霊界グループの
諸霊たちが、協力してくれるかどうかと言うことが問題であるのである。
天理教などでは神によって病気が治される条件として「 わが身わすれて“日(ひ)の寄進(きしん)”」と
言う標語があって、自分の身の病気を治して貰おうなどと言う“わが身”の利益をわすれて、
神のため 他(ひと)のために 日々に自分自身を、“寄進”し“奉仕”することによって
お蔭が得られるとしているのである。


また瀕死の病人に「 自分のものは一つもありませぬ。みんな神様のものです 」と“心定め”をさせたり、
「 この病気が治ったら必ず人助けのために教会をひらかせて頂きます 」と神に誓わせたりすることに
よって、時には起死回生の奇蹟が起ることがあるのは、“心の持方”が祈りの成就に影響することを
物語るのである。


その心の持方が、治病に興味をもっている霊界グループの或る霊魂に共感を惹起し、
その霊魂の霊能によって病気が治ると言うことが起るのである。
このことは高級霊がその霊波によって人間の運動に修正を加えることの一部分であって、
治病だけではなく、色々の面の運命の修正もまた行われる。
これを信仰方面の言葉では「 お蔭を得る 」と言うように表現されるのである。



祈りがきかれないと言う人に 2

2015-05-07 22:00:21 | 今日の光明法語

【 高級霊界よりのグループ活動としての教団 】


もっとも大きな教団的組織になる可能性のある宗教では一柱の‘ 祭神 ’とか、一柱の‘ 眷族神 ’とか、
一人の教祖の‘ 司配霊 ’とか言うような数少い霊魂だけ働いているのではなく、
高級霊界からの人類救済運動として、それに共鳴する無数の霊魂のグループが霊界からその運動に
参加して協同運動をしている。


その協同運動に参加している霊魂の中には治病能力にすぐれたる霊魂もあるし、
話術指導にすぐれたる霊魂もあるし、悟りに於いてすぐれたる霊魂もあり、
予言や透視能力にすぐれたる霊魂もあり、それらの霊魂が自分の波長と能力とに共鳴する人間を
選んでその人間の守護霊として其の宗教の教師又は布教者に配属せられる。


それは霊界からの人類光明化運動であるけれども、その運動の現実界に於ける統帥の中心は、
教祖又は教主であるから 教祖または教主が、その信者に教師としての資格を与えると、
霊界のグループからも、その資格者に適当な霊能をもっている霊魂が配属せられる。


そしてその教役者の伝道中にも不思議な奇蹟が伴ったりするようになるのである。
イエスの没後に、使徒行伝に録されているような色々の奇蹟が、その弟子たちに起ったのも
そのためである。これは肉体人間であるところの弟子其人だけの能力ではなく、
キリスト教其のものが、高級霊界からのグループ運動であるところの人類救済運動であるから、
各々の弟子達に憑いて、あのような瞠目すべき奇蹟が起ったのである。


しかし教えが幾世代を重ねて、今日に到ると教祖イエスの教えが其の後の誤解釈や
布教者の堕落によって、その運動を護持する「霊界グループ」から見放され、
霊界からの協力運動や援助がなくなってしまったので、現存の教会キリスト教では様式や形骸だけが
残って却っ奇蹟がなくなったのであり、聖書を新たに解釈してイエス時代の原始キリスト教に
引きもどそうとしている新しきキリスト教であるクリスチャン・サイエンスや、
リリジャス・サイエンスやメンタル・サイエンスや、ユニティ・スクールなどでは
却って奇蹟的な治病が往々あらわれているのは、霊界のグループの共鳴を得ているからなのである。


日本に於いても、仏典や聖書の新しき解釈を与えつつある色々の新興宗教が、無数に奇蹟的な霊験を
あらわしつつあるのは、それらの経典聖書の新しき解釈が、現世の唯物論的ジャーナリズムから、
色々の歪曲的な批判を受けながらも、却って霊界の人類救済グループからの共鳴と協力とを得つつある
からだと言い得るのである。この点は注目されて好いことである。


そこで仮りに治病を目的に祈る場合には、実際にその神社なり、宗教なりに於いて治病的な奇蹟が
起りつつあるか否かを観察することによって、その神社の祭神又は眷族神、又はその宗教の運動に
参加している霊界のグループに「 治病に興味をもつ霊魂 」が参加しているか否かを知ることが
必要である。


そして実際に、そう言う奇蹟的治病が行われていることが「 発表された体験談又は治験例 」によって
明かとなっているのに、自分の病気だけが治らない場合には、「 何故自分は癒されないか 」と、
反転して、自己省察にかえることが必要である。
他の人々が治っているのに、自分だけ治っていないのは、何か自分の心の持ち方に間違があるのだと
言わなければならない。そこに其人が如何なる気持で祈ったか、何を祈ったかと言うことが問題になる
のである。