観普賢菩薩行法 - 伝統
2016/02/28 (Sun) 04:29:37
*『詳説神想観』(P133~138)より
「無量義経」「法華経」「観普賢菩薩行法経」を称して法華の三部経と言います。
釋迦如来が今まで四十年間説いて来た教えはすべて方便の教えで本当のことを説かなかった。
今こそ本当の事を説くぞ、その本当の真理とは、人間は如来のいのちがここに生きている、
無限のいのちそのものであるという事である、とこう説いてあるのが「法華経」でありまして、
それならこの真理を如何にして実現することが出来るかという事が書いてあるのが
「観普賢菩薩行法経」であります。
そしてそれには「大乗の経典を読み、昼夜六時に普賢菩薩を観ぜよ」
という事が書いてあるのであります。
よくお寺などで見ますが、六本の牙のある白い象がおり、
その鞍に蓮華(れんげ)の花のついた宝座(ほうざ)があり、そこに普賢菩薩が坐っておられる。
象というのは「大きい」という事で無限大をあらわし、
白い象の「白い」というのはちょうど太陽光線のようにどんな色もついていず、
どんな色もそこに含んでいる。
あらゆるものが一つにあって、実際はありながらあらゆる相(すがた)が現れていない。
それで、「白い象」というのは無限に大きくして、
一切のものがその中にある虚空(こくう)――全宇宙をあらわす。
六本の牙というものは、仏教で言われている六つの神通力(じんつうりき)を言う。
六神通(ろくじんずう)というのは
天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)(他の心を知る神力)・
宿命通(しゅくみょうつう)(この男は前世において何に生れており何の因縁によって今こういうすがたに生れて
こういう経験を受けているのである――というような事が分る)
・神足通(じんそくつう)(空中歩行する、歩かないでも釈迦牟尼仏は「華厳経」の説法をなさったとき
座を立たずして夜摩天という天人のいる世界に昇って行かれたとあるが、ここに居りながら
何処かに姿を現わす通力)・漏尽通(ろじんつう)(漏というのは煩悩の事、煩悩の尽きて無くなる事)
を言う。
そこでこの観では普賢菩薩は虚空に充ち満ち無色透明で相が無い、しかも一切の相を内に
蔵している虚空に跨って、一つ一つの花片(はなびら)が如意宝珠(にょいほうじゅ)である
ところの蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(すわ)って合掌のうちに如意宝珠を持って
精神統一をしているわけなんです。
そして合掌のうちに如意宝珠があるだけでなく全身四百兆一つ一つの細胞が物質の肉体ではなく
如意宝珠そのもので、光明燦然たる光を放っている。
その全身四百兆の如意宝珠の一つ一つに三千の普賢菩薩が六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)上に乗って
合掌していらっしゃる、そして光明燦然(こうみょうさんぜん)と光を放(はな)っている。
そしてその光を放っている普賢菩薩の身体(からだ)の一つ一つの細胞がまた如意宝珠であって、
その中にまた三千の御仏が坐っておられる、その仏の細胞が如意宝珠で、その如意宝珠にまたまた
三千の普賢菩薩が坐っておられて、それがまた無限に続くのですから素晴らしいですね。
これを華厳の重現無礙(じゅうげんむげ)と言うのです。
子供のオモチャによくあるでしょう。
ちょっと大きい箱を買ってやると、その箱の蓋を開けると小さい箱がその中に入っている、
その蓋を開けるとまた小さい箱がある。その蓋を開けるとまた小さい箱があると
いうようにいくらでも箱が入っておる。
そのように吾々の身体(からだ)の細胞一つ一つが如意宝珠で、
その如意宝珠は蓋を開けないでも そこに三千の普賢菩薩が坐っておられる。
その普賢菩薩一人一人の全細胞がまたまた三千の普賢菩薩に満たされ光明燦然(きょうみょうさんぜん)として輝いておる――こう観ずると「人間は肉体ではない」という事が分るのです。
すばらしい神想観であります。
舞鶴にその人が部屋にいると異臭ぷんぷんするというようなひどい《わきが》の
お嬢さんがおられて、舞鶴の長村(おさむら)婦美子講師に相談された。
人間はそんな臭い匂いのするような肉体にあらず、物質にあらず、それはウソである。
その《ほんもの》でないウソを《ほんもの》であると思っているのが迷いである。
《ほんもの》は何であるかというと、人間は仏のいのちであり、普賢菩薩そのものである。
普賢菩薩を前に述べたお寺にあるような、そういう恰好をした仏で、
釈迦牟尼如来が説法された時代に観世音菩薩などと一緒に出現して説法を聴かれた、
そういう菩薩であるというのは顕教的な、表れている表面的の解釈でありますが、
密教的(密教というのは、お経の表面の意味の奥にかくされた秘密の意義を解する教えの意)
に言うと自分自身が普賢菩薩そのものであるというわけです。
すなわち「普賢」というのは「普(あまね)く賢い」――どこにもかしこにも
充ち満ちている智慧そのものである。その智慧によって一切のものができている。
宇宙のありとしあらゆるものはみんな法則によって支配されている。
それが人間智慧によって解明できるということは、
一切のものが智慧によってできているからである。
それで、人間の身体は肉身にあらず、智慧身である。
それを観ずるのが観普賢菩薩行法です。
真言密教では、普賢菩薩を描いた掛軸を目の前一間位のところに掛けて置いて、
それを《じっと》見詰めて精神統一して、その像がずっと自分の方へ入ってきて、
自分自身が普賢菩薩であるというすがたを観ずるのであります。
さてこの観普賢菩薩行法をやんなさいと長村婦美子さんがお嬢さんにすすめ、
長村さんとお嬢さんが向い合って神想観をしたところ、終るとたちまち
その異臭ぷんぷんたる《わきが》が消えておったというような体験もあるのであります。
観じ方は次の如くであります。
最初普通の神想観をするのでありますが、
「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」
というこの心境が深まった続きとしまして念じて下さい。
『 吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の
身(しん)なり。
六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
如意宝珠なる蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、合掌の内に一大如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。
一々の如意宝珠に三千の御仏(みほとけ)坐し給う。各々(おのおの)六牙の白象に乗り、
花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。
※< 一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が
悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く
如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。>
一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。 』
これ※<>を繰返して下さい。
全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずるのでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、
細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。
普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。
繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものである
という実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一しやすい所の神想観であります。
これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に神想観をやめる直前に、
『 吾れ普く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢の身なり。
身量無量、色像無辺、音声無限にして虚空(こくう)に満ち、六神通(ろくじんずう)自在にして
無限智、無限愛、無限生命なり。
よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。 』
これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。
「身量無量(しんりょうむりょう)」というのは自分の身体の分量が無限であって、宇宙に拡がっている。
「色像無辺(しきぞうむへん)」というのは物質または霊体として現れている波の体が無辺であって限りがないという事。
「音声(おんじょう)無限」というと、自分の《いのち》のコトバの響きが無限であって虚空に充ち満ちている
と観ずるのであります。
《自分自身を普賢菩薩と観じよう》 - 伝統
2016/02/28 (Sun) 04:30:51
*『詳説神想観』(P138~139)より
病気にかかった場合、病気の姿を心に描いて、
それを治そうと考えては却って治らないのであります。
何故なら心で「病気」をつかむからです。
「病気なんて、そんなものは全然無い。神はそんなものを造らないから絶対無い」と、
病気を心から放ち去るのです。
そうして、自分はもう既に、普賢菩薩そのものであり、仏のいのち、神のいのちそのもので
あって光明燦然と輝いている自分だということを《じっと》精神を統一して観ずるのです。
大体、病気というものは「人間は肉体であり、滅ぶべきものである」という人類意識の
あらわれとして出てくるのですから、その人類意識から超出するために、物質でないところの
霊的存在である自分(普賢菩薩)を完全に心の眼で精神を統一して見つめるというわけです。
肉体は心の影にすぎないのであって、 「霊なる自分」だけがあるのですから、
その霊なる光明輝く自分を見つめるのです。
肉体と霊体と二つあるように神想観中に思うと、
「肉体は滅ぶべきもの」という人類意識に引っかかるからいけません。
「肉体なんて無いんだ」とハッキリと断ち切って、神想観をして、
「ここに坐しているのは、霊体そのもの、普賢菩薩そのものがここにこういう姿で現れているのだ」
とその完全な自身の姿だけを心の眼で見つめるのです。
常に観普賢菩薩行法を行なっているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、
如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。
黴菌といい、ヴィールスといい、いずれもこれは悪しき想念の具象化であるから
黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、
決して侵入することができないのである。
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2016/02/28 (Sun) 04:29:37
*『詳説神想観』(P133~138)より
「無量義経」「法華経」「観普賢菩薩行法経」を称して法華の三部経と言います。
釋迦如来が今まで四十年間説いて来た教えはすべて方便の教えで本当のことを説かなかった。
今こそ本当の事を説くぞ、その本当の真理とは、人間は如来のいのちがここに生きている、
無限のいのちそのものであるという事である、とこう説いてあるのが「法華経」でありまして、
それならこの真理を如何にして実現することが出来るかという事が書いてあるのが
「観普賢菩薩行法経」であります。
そしてそれには「大乗の経典を読み、昼夜六時に普賢菩薩を観ぜよ」
という事が書いてあるのであります。
よくお寺などで見ますが、六本の牙のある白い象がおり、
その鞍に蓮華(れんげ)の花のついた宝座(ほうざ)があり、そこに普賢菩薩が坐っておられる。
象というのは「大きい」という事で無限大をあらわし、
白い象の「白い」というのはちょうど太陽光線のようにどんな色もついていず、
どんな色もそこに含んでいる。
あらゆるものが一つにあって、実際はありながらあらゆる相(すがた)が現れていない。
それで、「白い象」というのは無限に大きくして、
一切のものがその中にある虚空(こくう)――全宇宙をあらわす。
六本の牙というものは、仏教で言われている六つの神通力(じんつうりき)を言う。
六神通(ろくじんずう)というのは
天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)(他の心を知る神力)・
宿命通(しゅくみょうつう)(この男は前世において何に生れており何の因縁によって今こういうすがたに生れて
こういう経験を受けているのである――というような事が分る)
・神足通(じんそくつう)(空中歩行する、歩かないでも釈迦牟尼仏は「華厳経」の説法をなさったとき
座を立たずして夜摩天という天人のいる世界に昇って行かれたとあるが、ここに居りながら
何処かに姿を現わす通力)・漏尽通(ろじんつう)(漏というのは煩悩の事、煩悩の尽きて無くなる事)
を言う。
そこでこの観では普賢菩薩は虚空に充ち満ち無色透明で相が無い、しかも一切の相を内に
蔵している虚空に跨って、一つ一つの花片(はなびら)が如意宝珠(にょいほうじゅ)である
ところの蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(すわ)って合掌のうちに如意宝珠を持って
精神統一をしているわけなんです。
そして合掌のうちに如意宝珠があるだけでなく全身四百兆一つ一つの細胞が物質の肉体ではなく
如意宝珠そのもので、光明燦然たる光を放っている。
その全身四百兆の如意宝珠の一つ一つに三千の普賢菩薩が六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)上に乗って
合掌していらっしゃる、そして光明燦然(こうみょうさんぜん)と光を放(はな)っている。
そしてその光を放っている普賢菩薩の身体(からだ)の一つ一つの細胞がまた如意宝珠であって、
その中にまた三千の御仏が坐っておられる、その仏の細胞が如意宝珠で、その如意宝珠にまたまた
三千の普賢菩薩が坐っておられて、それがまた無限に続くのですから素晴らしいですね。
これを華厳の重現無礙(じゅうげんむげ)と言うのです。
子供のオモチャによくあるでしょう。
ちょっと大きい箱を買ってやると、その箱の蓋を開けると小さい箱がその中に入っている、
その蓋を開けるとまた小さい箱がある。その蓋を開けるとまた小さい箱があると
いうようにいくらでも箱が入っておる。
そのように吾々の身体(からだ)の細胞一つ一つが如意宝珠で、
その如意宝珠は蓋を開けないでも そこに三千の普賢菩薩が坐っておられる。
その普賢菩薩一人一人の全細胞がまたまた三千の普賢菩薩に満たされ光明燦然(きょうみょうさんぜん)として輝いておる――こう観ずると「人間は肉体ではない」という事が分るのです。
すばらしい神想観であります。
舞鶴にその人が部屋にいると異臭ぷんぷんするというようなひどい《わきが》の
お嬢さんがおられて、舞鶴の長村(おさむら)婦美子講師に相談された。
人間はそんな臭い匂いのするような肉体にあらず、物質にあらず、それはウソである。
その《ほんもの》でないウソを《ほんもの》であると思っているのが迷いである。
《ほんもの》は何であるかというと、人間は仏のいのちであり、普賢菩薩そのものである。
普賢菩薩を前に述べたお寺にあるような、そういう恰好をした仏で、
釈迦牟尼如来が説法された時代に観世音菩薩などと一緒に出現して説法を聴かれた、
そういう菩薩であるというのは顕教的な、表れている表面的の解釈でありますが、
密教的(密教というのは、お経の表面の意味の奥にかくされた秘密の意義を解する教えの意)
に言うと自分自身が普賢菩薩そのものであるというわけです。
すなわち「普賢」というのは「普(あまね)く賢い」――どこにもかしこにも
充ち満ちている智慧そのものである。その智慧によって一切のものができている。
宇宙のありとしあらゆるものはみんな法則によって支配されている。
それが人間智慧によって解明できるということは、
一切のものが智慧によってできているからである。
それで、人間の身体は肉身にあらず、智慧身である。
それを観ずるのが観普賢菩薩行法です。
真言密教では、普賢菩薩を描いた掛軸を目の前一間位のところに掛けて置いて、
それを《じっと》見詰めて精神統一して、その像がずっと自分の方へ入ってきて、
自分自身が普賢菩薩であるというすがたを観ずるのであります。
さてこの観普賢菩薩行法をやんなさいと長村婦美子さんがお嬢さんにすすめ、
長村さんとお嬢さんが向い合って神想観をしたところ、終るとたちまち
その異臭ぷんぷんたる《わきが》が消えておったというような体験もあるのであります。
観じ方は次の如くであります。
最初普通の神想観をするのでありますが、
「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」
というこの心境が深まった続きとしまして念じて下さい。
『 吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の
身(しん)なり。
六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
如意宝珠なる蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、合掌の内に一大如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。
一々の如意宝珠に三千の御仏(みほとけ)坐し給う。各々(おのおの)六牙の白象に乗り、
花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。
※< 一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が
悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く
如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。>
一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。 』
これ※<>を繰返して下さい。
全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずるのでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、
細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。
普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。
繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものである
という実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一しやすい所の神想観であります。
これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に神想観をやめる直前に、
『 吾れ普く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢の身なり。
身量無量、色像無辺、音声無限にして虚空(こくう)に満ち、六神通(ろくじんずう)自在にして
無限智、無限愛、無限生命なり。
よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。 』
これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。
「身量無量(しんりょうむりょう)」というのは自分の身体の分量が無限であって、宇宙に拡がっている。
「色像無辺(しきぞうむへん)」というのは物質または霊体として現れている波の体が無辺であって限りがないという事。
「音声(おんじょう)無限」というと、自分の《いのち》のコトバの響きが無限であって虚空に充ち満ちている
と観ずるのであります。
《自分自身を普賢菩薩と観じよう》 - 伝統
2016/02/28 (Sun) 04:30:51
*『詳説神想観』(P138~139)より
病気にかかった場合、病気の姿を心に描いて、
それを治そうと考えては却って治らないのであります。
何故なら心で「病気」をつかむからです。
「病気なんて、そんなものは全然無い。神はそんなものを造らないから絶対無い」と、
病気を心から放ち去るのです。
そうして、自分はもう既に、普賢菩薩そのものであり、仏のいのち、神のいのちそのもので
あって光明燦然と輝いている自分だということを《じっと》精神を統一して観ずるのです。
大体、病気というものは「人間は肉体であり、滅ぶべきものである」という人類意識の
あらわれとして出てくるのですから、その人類意識から超出するために、物質でないところの
霊的存在である自分(普賢菩薩)を完全に心の眼で精神を統一して見つめるというわけです。
肉体は心の影にすぎないのであって、 「霊なる自分」だけがあるのですから、
その霊なる光明輝く自分を見つめるのです。
肉体と霊体と二つあるように神想観中に思うと、
「肉体は滅ぶべきもの」という人類意識に引っかかるからいけません。
「肉体なんて無いんだ」とハッキリと断ち切って、神想観をして、
「ここに坐しているのは、霊体そのもの、普賢菩薩そのものがここにこういう姿で現れているのだ」
とその完全な自身の姿だけを心の眼で見つめるのです。
常に観普賢菩薩行法を行なっているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、
如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。
黴菌といい、ヴィールスといい、いずれもこれは悪しき想念の具象化であるから
黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、
決して侵入することができないのである。
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