本稿は『 理想世界 』誌、昭和三十二年十月号に掲載された「 青年哲学講座 」で、
谷口雅春先生が神想観に関連した質問に答えたものです。
谷 口 雅 春 先 生
【 断食修行について 】
司 会 断食修行というものと、霊能の発達とか、悟りとかというものの関係を、
もう少し詳(くわし)くお教え下さいませんか。
谷 口 断食その他肉体を苦しめる修行が霊的方面の発達に寄与するというのは、
肉体の否定、物質の否定というものが、生活の上に実際に行われるから霊的覚(さと)りと
いうものが得られ易(やす)くなるのであります。
このことは実際の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の生活行蹟からみて、そういえるわけなんです。
肉欲をサンザ満足させながら霊能が発達するということはあり得ません。
今でも山へこもって断食をしたり、水行をしたり滝に打たれたりする人もあり、
それによって何らかの覚(さと)りに到達するというような人もあります。
私も断食したことがあるけれども、私は断食したから覚ったというわけでもないけれども、
ある覚りが得やすくなるということは事実です。
しかし皆さんに断食をせよというのではありません。生長の家は 「 苦行は悟りの因(たね)にあらず 」
というので、徒(いたず)らに肉体を苦しめるということが修行にいいのだとはいわれないんだが、
物質を否定する上からいうと、肉体というものを余り楽しませていると、
肉体的欲望という方へ心の天秤(てんびん)が重くおりて来て霊的比重の方が軽んぜられて来るという
ことになりますから、霊的悟りというものは得がたくなるのです。
更にもうひとつ断食修行の弊害というものは、断食すると肉体的精神が減衰するのと逆に、
霊的感受能力というものが過敏になります。
その結果、低級霊もいろいろかかって来ることになり、その場合に正しい指導者がいなかったり、
或(ある)いは修行者自身に正しい強力な守護神がいない場合には、迷ってる霊に だまされる事が
あるんです。
これは釈迦が悟りをひらく最後の直前に悪魔波旬(はじゅん)があらわれたり、
イエスが神の子の自覚を得る直前にサタンがあらわれたりしている。
それを釈迦やキリストはその悪霊の誘惑に負けないで、それが正しい神でないことを知って
「 去れ 」 と退(しりぞ)けているのです。
山に籠(こも)り断食などをしていると、山に浮浪(ふろう)しているような野天狗(のてんぐ)とか
いうようなつまらない種類の霊魂にひっかかったりして、其(そ)の結果、ちょっと位の第六感が
働いて霊眼がひらいて霊の姿や霊界の一部が見えたり、
或いは天言通(てんげんつう)を得たとか言って、「 神様の言葉 」を自分でしゃべるとかというような
境地になる人もあります。
けれども、それは霊的感受力が鋭敏になった結果、一種の霊媒状態になったのであって、
自分の実相が神であるという 実相の神性を覚ったという状態ではないから、
その霊の示すところにだまされて脱線する危険性が非常にあるのであります。
ですから、山へこもって断食水行をするとかいうようなことはしない方がいいのであります。
神は普遍者でありますから、山へ行く必要はない。
悟るためには やっぱり神想観をするのが一番いいのであります。
夜 神想観をする時にはむしろ電灯をとぼしておく方が良いのであります。
それは明るくして神想観をする方が、迷っている霊の霊波というものは
( つまり波長の弱い霊波というものは )光線によってその霊的波動が粉砕されるのは、
恰度(ちょうど)、中波のラジオ波が昼間の太陽の光線で破砕されて遠距離通信が出来ないのと
同じ道理であります。
ところが暗いところで神想観すれば、弱い霊的波動でも粉砕されないから、
低級の霊でも吾々に働きかけることが出来、神想観が純粋に出来ない場合、
低い霊が吾々を欺(あざむ)いて、神様めかしく吾々に働きかけることがあるのです。
低い階級の霊の波動を光に粉砕せしめて人間に働きかけにくい様にするために、
暗がりの中で神想観をするよりも、明るい昼間 又は 夜なら電灯をとぼして神想観をする方がよいので
あります。
つづく・・・
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