【 神想観について 】
司 会 神想観をするにはやっぱり姿勢が正しいということが必要であると言われておりますが、
心さえ整えば寝ころんでいてもよいのではありませんか。
谷 口 姿勢のあり方は、神想観のときに説明していますし、『 生命の實相 』観行篇に
ありますから重ねて此処(ここ)では申しませんが、ちょっと位足が痛いからというのでごまかして
いるといかんのであります。
やっぱり体の姿勢というものが、「 心の姿勢 」というものに互いに影響を与えます。
ちょっと姿勢が違うとラジオセットでもバリコンというところ、ダイアルを廻すあの奥の方にあって
外からは見えんけれども、金属円盤が重ねてある装置がある。あれが、ちょっと位置が変わるだけで
波長が変わるんです。
それで神想観する時には本当に正しい姿勢をもって神想観するということが必要なわけです。
そして神想観してもある人は早く覚(さと)れるしある人は早く覚れない。これはその人の霊魂の
発達の程度だから、仕方がない。
人間の霊魂は、皆 神の霊魂が宿っているんだけれども、皆 出発の時期が違うんですから、
スタートが違うんですね。その人の魂の発達が遅れていると言って低級なという意味で遅れて
いるのではなくて、その霊魂が神から生み出された最初の出発時期が違うんです。
何遍でも生まれ更(かわ)って修行している霊魂もあれば、まだ回数少なくしかこの世に出て
いない霊魂もあるのです。そういう霊魂は他の人が早く覚れても、自分はまだ覚りが遅いというのは、
これは止むを得ないことなんですよ。
しかしこれは最後のギリギリの悟りだなどというものは、それはなかなか誰にも得られない。
最後の一番最高完全な悟りというものが得られないのは、この世界は 「 無限生長の世界 」と
説かれているのでもわかります。
無限生長ということは 幾(いく)ら生長してもまだまだ前途遼遠(ぜんとりょうえん)に生長すると
いう意味であります。
だから、若(も)し、「 もうわしは悟った。これで最後の悟りだ。自分は一番偉いんだ 」と
思ったならば それは一番偉いんではなくて、それは途中で天狗になったというわけであります。
だから悟りにもいろいろな段階があるわけですよ。だけども、ともかくこの自分の本性(ほんしょう)が
神であるということを、本を読んだり、話をきいたりして、知的にでもそれがうなずけるというのは、
既に神なる実相がそこまで現われて来ているからであります。
だからこそ、有神論に反感を覚(おぼ)えずに、
「 成程(なるほど)そうだ。神はある筈(はず)だ。自分のいのちは神から来ているんだ、理論的に
うなずける。」
と、こういう感じが起って来るのです。既に実相がそこまで現われているから、
それを肯定することが出来るのです。
ところが 「 そんな馬鹿なことがあるか。神なんて説くものは みな迷信だ 」 とそういう風に
感ずる人があるとすると、そういう人は まだ実相があらわれていないのです。
そういう人が随分たくさんあるのです。大学教授みたいな学者でも神の存在をみとめられないような人は
実相がまだそこまで現われていないからであります。だから霊的にいうと低いんだということに
なるわけです。
神の存在を知的に理解して分っても、それはある程度 実相が現われて悟っているという
わけなんだけれども、無論 最後の悟りの境地ではない。
そういう人がだんだん神想観もやり、本も読みやっているうちには 「 我(われ)は神の子である 」と
いう自覚を得てですね、本当に何というべきか、法悦というべきか、歓喜勇躍というような状態に
なるときが来るんです。
しかしそれでも、尚(なお)それが最後の境地というわけじゃないんです。
それは最後の境地じゃないんだけれども、そういう状態になって、感情的に、情感的に、
そういう自覚が得られるのは それは知的に把握したよりももう一段深く把握した一層高い心境で、
実相がその程度まで来たということであります。
そういう深い境地は中々文字や言葉ではあらわせぬ。それで禅宗などでは言詮不及(ごんせんふきゅう)
とか不立文字(ふりゅうもんじ)とか言って、文字や言葉では悟りというものを説くことが出来ない、
文字を立てることをしないと言って、音のない声を聞けという訳で 「 隻手(せきしゅ)の声を聞け 」
などとも言いますし 「 まあ坐れ。坐ったら分かるんだ 」 とも言う。
道元禅師も只管打坐(しかんだざ) ー ひたすら坐れと被仰(おっしゃ)いました。
つづく・・・
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