明治天皇に侍講(じこう)として仕えた元田永孚は文政元(一八一八)年生まれの
熊本藩士で、明治四年から二十四年まで明治天皇に帝王学をご進講した。
元田はすぐれた人格と学問見識を有し、明治天皇の師傅(しふ)として、
あるいは政治の最高顧問として最も信頼された明治の隠れた偉人であった。
西郷隆盛を別にして元田ほど深いご信任を得た人物はほとんどいない。
元田がご進講したことは、日本国体の尊厳、君徳(くんとく)の根本、忠孝仁義の倫理、
国家民族の治乱(ちらん)盛衰(せいすい)の理(ことわり)と歴史などであった。
国家を治める根本は祭祀(さいし)、道徳、教化にあり、何よりも大切なものは
人君・国家指導者の姿勢、心得であるとし、君主の基本姿勢として、
神々、先祖及び国民に対して敬畏(けいい)、謹慎、謙譲、慈愛の心をもち、
常に内省して徳性、心術(しんじゅつ)を磨(みが)くことを繰返しご進講した。
明治天皇はその教えを生涯 身を以(もっ)て実践された。天皇と元田の関係は
真に君臣(くんしん)水魚(すいぎょ)の交(まじ)わりであった。
明治天皇は政府から重要問題の奏聞(そうもん)があるごとに先ず元田の考えを聞かれた。
元老(げんろう)筆頭の伊藤博文(いとうひろぶみ)は至尊(しそん)(天皇)の背後に
必ず至高顧問があると推察したところ、それは元田であった。
元田の働きは ほとんど表にでないが、重大なものとしては 教育勅語(きょういくちょくご)の
発布において、明治天皇の御心(みこころ)を体し、井上毅(いのうえこわし)と協力し合った
ことである。
副島種臣(そえじま たねおみ)は 元田を明治第一の君臣とし、
「 君徳(くんとく)の大を成すに与(あずか)って最も力ある先生なればなり 」 と
たたえた。
岡 田 幹 彦 著
『 日本の誇り103人 ― 元気のでる歴史人物講座 ― 』 ( 190 ~ 191頁 ) 光明思想社
熊本藩士で、明治四年から二十四年まで明治天皇に帝王学をご進講した。
元田はすぐれた人格と学問見識を有し、明治天皇の師傅(しふ)として、
あるいは政治の最高顧問として最も信頼された明治の隠れた偉人であった。
西郷隆盛を別にして元田ほど深いご信任を得た人物はほとんどいない。
元田がご進講したことは、日本国体の尊厳、君徳(くんとく)の根本、忠孝仁義の倫理、
国家民族の治乱(ちらん)盛衰(せいすい)の理(ことわり)と歴史などであった。
国家を治める根本は祭祀(さいし)、道徳、教化にあり、何よりも大切なものは
人君・国家指導者の姿勢、心得であるとし、君主の基本姿勢として、
神々、先祖及び国民に対して敬畏(けいい)、謹慎、謙譲、慈愛の心をもち、
常に内省して徳性、心術(しんじゅつ)を磨(みが)くことを繰返しご進講した。
明治天皇はその教えを生涯 身を以(もっ)て実践された。天皇と元田の関係は
真に君臣(くんしん)水魚(すいぎょ)の交(まじ)わりであった。
明治天皇は政府から重要問題の奏聞(そうもん)があるごとに先ず元田の考えを聞かれた。
元老(げんろう)筆頭の伊藤博文(いとうひろぶみ)は至尊(しそん)(天皇)の背後に
必ず至高顧問があると推察したところ、それは元田であった。
元田の働きは ほとんど表にでないが、重大なものとしては 教育勅語(きょういくちょくご)の
発布において、明治天皇の御心(みこころ)を体し、井上毅(いのうえこわし)と協力し合った
ことである。
副島種臣(そえじま たねおみ)は 元田を明治第一の君臣とし、
「 君徳(くんとく)の大を成すに与(あずか)って最も力ある先生なればなり 」 と
たたえた。
岡 田 幹 彦 著
『 日本の誇り103人 ― 元気のでる歴史人物講座 ― 』 ( 190 ~ 191頁 ) 光明思想社
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