ここに「 一切の現象 展開して 万物 成(な)る 」とある その 「 一切の現象 」 とは、
実相界(じっそうかい)の万(よろず)のもの という意味であります。
実相界の万(よろず)のものを 神さまは どういうふうにして お造りになったかといいますと
「 神の心の動き 」 によって造られた ・・・・・・
『 生命の實相 』 ( 頭注版 第21巻 経典篇 「 甘露の法雨 」 講義 22頁 )
谷 口 雅 春 先 生
真象(しんしょう)と偽象(ぎしょう)。 実相(じっそう)を観(かん)ずるという意味
すべてが 絶対者にまします神 又は 久遠(くおん)本仏(ほんぶつ) 如来(にょらい) より
発せられた 想念の展開である という根本真理に立戻(たちもど)って、も少し考えることにしよう。
これが 『 甘露の法雨 』 に示されたる 「 神の『 心 』 動き出(い)でて コトバとなれば
一切の現象 展開して 万物(ばんぶつ)成(な)る 」 という真理なのである。
しかし 爰(ここ)に注意しなければならないことは、 “ 現象 ” と ひとつかみに言ってしまう
けれども、その現象の中には、実は、 “ 神のコトバ ” の展開としての 「 真象(しんしょう) 」 と
“ 迷いの心 ” の展開としての 「 偽象(ぎしょう) 」 とがあることである。
『 ヨハネ伝 』 福音書の第一章の冒頭に 「 言(ことば)は 神なりき 」 と過去形で書かれて
いることに 注目しなければならないのである。
「 “ 言(ことば) ” 即(そく)神(かみ) 」 であるところの 実相世界に於いて
「 神の心動き出(い)でてコトバと、成(な)れば、一切皆善(いっさいかいぜん)の現象あらわれて
万物(ばんぶつ)成(な)る 」 のであり、それが実在界に於ける “ 実在の現象 ” 即ち “ 真象 ”
なのである。
わたしたちが 「 実相を観ずる 」 というのは、この実在界に於ける “ 実在の現象 “ たる
円満完全なる “ 真象 ” の相(すがた)を 観ずることなのである。
『 神 真理を告げ給う 』( 185頁 ~ 186頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
真象と偽象とに就いて
ところで この 「 現象 」 という用語について注意すべきことは、
生長の家では、一方に「 現象なし 」 という標語があるのであります。
病気をしておっても 「 現象なし 」 と言って それを心で否定します。
それなのに 「 神の心 動き いでてコトバとなれば 一切の現象 展開して 万物成る 」 と
書かれているのは、一体どういうわけであるかと疑問を起す人もあろうと思いますが、
「 現象 」 のうちには “ 真象 ” と “ 偽象 ” とがありまして、
“ 真象 ” とは実在の真の象 ( かたち ) が 現象化したものであります。
これは 円満完全であって どこにも欠陥がないのです。
それから “ 偽象 ” とは 偽 ( に ) せの象 ( かたち ) ですね 、
偽という字は “ 人( にん ) ” 扁 ( べん ) に “ 為す ” という字であります。
神様が お拵(こしら)えになりましたところの、神様の心 動き出でて コトバとなって
展開して居るところの現象界は 「 真象の世界 」 「 本当に実在する世界 」 であります。
これに反して、偽象の偽は 人扁に為すという字が書かれているように、
人間が 人為的に‘ わたくし ’ の計 ( はから ) い心によって、
神様の御心と違うことを 人間が心に想念して、それが象にあらわれたのが
即ち 偽象であります。
例えば、神様の御心の中には 病気は無いのに 人間が心の中に 「 病気あり 」 と
神の御心と反対のことを思って、病気を現象界にあらわしている如きが“ 偽象 ” であります。
「 現象無し 」 と一喝 ( いっかつ ) する場合は、 「 偽象 無し 」という意味であります。
「 本当に在る 」 ものは、 “ 真象 ” のみである。
“ 真象 ” は 即ち “ 實の相 ( すがた ) ” でありますから、實相であります。
実相世界に展開せる現象は 即ち “ 真象 ” であって、神のコトバ 即ち 理念 が展開して
実相世界の万象が 出来上ったのであります。
しかし神は “ 霊 ” であって “ 物質 ” ではないのでありますから、
神様の造り給うた 「 真象の世界 」 は 唯 “ 霊 ” によって出来て居るのであって、
物質によって出来て居るのではないのであります。
人間も神によって、造られた其の儘の 「 人間 」 ( 実相人間 ) は、決して肉体では
ないのであります。
物質の世界や肉体の人間として、吾々が感覚で見ているのは 吾々の五官で翻訳して
物質化して そのように見ているのです。
例えば ここに映画が写るとしますと、それは 「 時間・空間 」 という縦 横 厚み の
ひろがりのある所の映写幕 ( スクリーン ) が 「 心 」 によって造られ、
そのスクリーンに向うから光が来て 映画が映る。
ところが映写機から来るのは 光の波動が来るのであって、物質的な固定化した 「 形 」 では
ないのであります。それが 時間・空間 の 縦 横 厚み の映写幕 ( スクリーン ) に触れると、
それが翻訳されて、波動が空間的ひろがりある形として表現されるというわけであります。
物質界 又は 肉体の健全な姿は、実相世界の真象が 誤訳なく翻訳されて 完全な時間・空間面に
物質化して映出された訳でありまして、病気・不幸・災難の如きは、 「 人間の心 」 が
実相世界の真象が 時間空間の映写幕 ( スクリーン ) に うつされる途中で、
誤訳 ( 迷い ) が入って 歪んであらわれている結果であります。
新講 『 甘露の法雨 』 解釈 ( 100頁 ~ 101頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
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