長い間連載されていた話が終わるとき、
私は非常に不安定になる…。
いやだ、行かないで。
私をおいていかないで。
何故、こんなに虚しいの?
バッドエンドでも、ハッピーエンドでも、
胸の痛みは変わらない。
同じ気持ちが、うずくまる。
そして、また同じ出会いを求めて、
本を手にするんだけど。
違う。こんなんじゃない。
こんなはずじゃ、なかったのに。
また、終わってしまう。あなたとの日常が。
ダンナサマを看ていて、時々どうしようもなく、不安定になる。
何かをきっかけに、というなら心配はないのだけど、
理由もなく、不安定なとき。
心臓が戦慄くとき。
大声を上げたくなったり。
ダンナサマの頭を、鈍器で殴りたくなるのは…問題だ。
この心の震えが、どこからくる感情なのか、
きっと知らないでいたらいいんだろう。
でも、今日、ダンナサマのわがままに付き合っていたら、
思わず叫びそうになった。
「お母さんは、痛くても最期まで働かされたんだよ!
動けなくなるまで、働かされたんだ、アンタに!!」
人は記憶違いをしたり、
大事なことでも忘れたりするが、
ダンナサマは、母に関する都合の悪いことは全て忘れてしまっている。
「こんなになっても働かされるなんて、思ってもいなかった」と泣いた母と、
「仕事だけはするなと云ったのに」と後になって語った父。
「お母さんが痛がっている。今の先生は何も検査もしてくれない。
他の病院に移った方がいいよ。再発していたらどうするの」
という私に、ダンナサマは、
「医者に任せておけばいいんだ。子供は黙ってろ」としか云わない。
私は、母の写真を撮って、
写真を見ただけで、そのひとの病気が判るというひとのところへ行き、
絶望的なことを云われた。
「貴女のお母さんはもう手遅れの癌です。
すみません、どんな手を尽くしても治るものじゃない。
ちゃんと医者に診てもらって、苦痛を取り除いてあげたほうがいいです」
その話を父に話しても信じるわけがなかったし、
母が亡くなってから、どういう記憶違いか、
母の隣にいた末期癌のひとの家族が、
写真で末期だって云われたらしいが、そんなものに大金払って馬鹿みたいだ」
と、私に云ってきたのだ。
なにをどう聞けば、そういう勘違いをするのか判らない。
でも、ダンナサマというひとは、そういう類の勘違いをする人だった。
もしかしたら、都合のいいように記憶を封印してしまうひとなのかも知れない。
思い出すと辛いから、
自分の落ち度にいちいち落ち込んでいられないから、
記憶を変えてしまうのかな。
その隣りで、私は困惑するばかりだったが…。
困惑して、怒りを持続させる人間だ。
母を診たヤブ医者よりも、
母の声に耳を貸さない父を恨んだ。
恨んでいた。
ずっと、恨んでいたから、
忘れなきゃ、介護なんて、できやしないのだ。
なのに、今日は思い出してしまった。
胸の戦慄きが、怒りと哀しみによるものだと、
自分を、疑ってしまった。
この痛みは紛れもない、殺意であり、
母を失った哀しみ。
自分への憎しみ。
自分殺しは何度も試みたが、
ダンナサマには、手をあげたことはない。
違う。こんなんじゃない。
こんなはずじゃ、なかったのに。
大丈夫、これからも、続けられる。
でも、何故、苦しむだけなのに、思い出した?
身体の軸が弱くなってきたダンナサマが私の腕にもたれてくるとき、
ゾクリと突きあがってくる感情が、
その後の疲労感が、
あの過去からの怨恨だと知ると…
もう、私は。
私も、記憶の改ざんをしたい。
みんな、辛いこと、こうすればよかったとか、
こんなこともできたのにとか、
ダンナサマに怒りを向けるだけではなく、
自分ができたであろうことを、
いつまでもくよくよとせず、
きれいに忘れて、
美しい記憶だけ残して生きれば、
痛むこともないのに。
そうして、愚かに私は、
恐ろしいものを召喚するのだ。
自分をもっと痛みつけるために。