風の生まれる場所

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言葉へ置き換えていけたら・・・

エコカーブームの裏にある交通事故被害の業界タブー

2009年07月29日 04時41分11秒 | エッセイ、随筆、小説




今年の自殺者は最悪ペースでその数を伸ばし、
通年3万4千人規模だとの推定が新聞一面に掲載されている。

自分に刃を剥いたものが「自殺」だとしたら、
他者へのものは「殺人」として連日の報道からも妙な納得を覚える。
それはこの国が抱える病理、根底にある問題は同等であるからだ。

さて、ここで私が違和感を感じてしまったのは、
言うまでもなく、自殺者が交通事故死亡者数との比較によって、
増加、減少という判断をさなれている事実だ。

交通事故死亡者への無礼はともかくとして、
幸運にも一命を取り留めた方々の、その後の過酷な運命が用意されていることには
多くの方々はご存知ないだろう。

日本の場合、被害者に立証責任があるため、
交通事故を起こしたとしても加害者は立証という重責を負う必要はない。
しかも、立証は交通事故事件そのものから健康被害に至り、
受け入れてくれる病院や医師が簡単に探せる・・・とは現実は相違する。
交通事故被害者を露骨に嫌がる医療機関が存在することは稀ではない。
(病院名や医師名は書けませんが)
診断書の書き方、検査方法、画像の読み方などは医師の裁量次第で、
医療によって左右される被害者の未来という側面も浮き彫りになる。
診ようとするのか、そもそも診ようとしないのか、診れないのか、が鍵となる。
それを被害者である患者側が見抜かなければ自己を守る行為には繋がらない。

今秋で5年が経過する。
私が交通事故被害に遭い、仕事を失くし、
日々の生活ですら満足に送れなくなってからの時間経過だ。
しかも、いまだに交通事故被害における検査が継続している実情がある。
容赦なく、医師から、他交通事故処理関係者からの誹謗中傷を受けるのはざらだ。
が、私は不調を抱えているため、そうした言葉にいちいち反応してしまい、
(自分の意思とは関係ないからこそ病気であるとの認識)
その後、数週間において寝込むことは日常化してしまっている。
一度、心神耗弱状態に陥ると、死の危険が一気に増してくる。
いいや、音もなく近づいてくる。
間近に、べったりと。

被害者になって5年、この国でのタブーにようやく気付く余裕が生まれてきた。
交通事故事件に限らず、犯罪被害でも、他障害や病気でも、
メディアが取り上げるようには容易に、
語れない土壌がこの国の根底には存在している。

加害者が加入する損保会社本社が東京の高層ビル群の一角に位置している。
確か、私は別件で、近くにある大学病院へ一度だけ訪れた際に、
そのビルが私を追い込む会社であることを偶然に知った。

「あなたは自殺をするか、寝たきりになるのが運命でしょう」
ある雨の日の午後、
損保会社担当者と弁護士は、夏休みの予定が楽しみだと言わんばかりに
私へ死の宣告を、笑顔を交えて伝えてきたことを思い出す。
それが彼らの仕事だというなら、なんとおぞましく、悲しい内容なのだろう。
(すべての従事者がそうだとは思っておりません)

ビルを見上げると、空が、雲がみえる。
随分と高層なのだということを覗い知ると同時に、
なぜ・・・・・という疑問が浮上する。

なぜこんなに立派な自社ビルが建設できるのだろう。
その答えはこの業界のタブーが物語っている。
被害者になるのも、加害者になるのも酷だ。
個人はこの両者だけで、あとは交通事故に手馴れた専門家によって
右にも左にも、物事を大きな声で言った者勝ちのような世界が常識となっている。