SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

1708 会津行3 蒲生三代

会津若松の基礎を作った蒲生氏郷と二代・秀行、三代・忠郷の墓所を紹介
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市役所の近く興徳寺にあるのが
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蒲生氏郷の墓
秀吉より会津を賜った蒲生氏郷はこの地に七層の天守と城下町を造ったが、
文禄4年(1595年)伏見の屋敷にて40歳で病死。わずか5年の会津城主時代だった。
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次は薬師公園・館薬師堂に隣接した所にある
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蒲生秀行の墓
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立派な木造の覆屋です
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蒲生秀行は父・氏郷の跡を継ぎ会津若松城主になりましたが、程なくして宇都宮へ減封となります。
しかし秀行に代わって会津若松城主となった上杉景勝が関ヶ原の戦いの後米沢へ減封となり、秀行は会津へ復帰。慶長17年(1612)30歳の若さで死去
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覆屋の内部の五輪塔
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最後は高巌寺の裏にある
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蒲生忠郷の墓
秀行の死後、わずか10歳で会津60万石を継いだ蒲生忠郷。
寛永4年(1627)26歳の若さで死去。嫡子は無く本来断絶のところ母が徳川家康の娘であった為に弟の忠知が家督を相続。だが伊予松山へ転封となった。
この忠知も寛永11年(1634)31歳で死去し後継が無かった為、今度こそ蒲生家は断絶した。

こうして見ていくと蒲生家は揃いも揃って若くして亡くなっています。もう少し長く生きていれば蒲生家も江戸時代を生き残れたのかもしれません。
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