名古屋市博物館
エピソードでたどる 書の散歩道
期間:2月28日(土)~4月5日(日)
森長可遺言状
尾藤知宣宛、天正十二年三月二十六日付。秀吉の家臣であった尾藤知宣に自分の死の後の遺品配分や家族の処遇を依頼する内容。この時期は秀吉と織田信雄・徳川家康連合との間で小牧・長久手の戦いが行なわれており森長可は秀吉方として戦っていた。この手紙が書かれる直前に羽黒の戦いで敗戦を喫していた長可は次ぎの戦に不退転の決意で挑む覚悟があり、この様な手紙を残したと思われる。実際この十日後に三河中入りを決行し討死している。
森長可は父と兄を早くに戦で亡くし、弟3人も本能寺の変で失っている。書状では末弟・千丸(後の忠政)に自分の跡を継がせるのは嫌がっており、2ヵ所も「いやにて候」と記されているのが印象的。
本阿弥光悦書状巻
1巻(20通のうち3通)前田利政宛。関ヶ原の戦いの後、所領を没収され京都嵯峨に隠棲していた前田利政宛の書状。「中風で不自由しています」「病気をお見舞いくださり」「寄る年波には勝てず」といった内容で、実際に字の乱れ等が見られ病に苦しむ光悦の姿がそこにあります。
連歌懐紙「第二 船」 近衛信尹等寄合書
百韻連歌を近衛信尹が記したもの。所々信尹以外の人物が記しているそう。
参加者は、発句を後陽成天皇、脇を信尹が、他には八条宮智仁・聖護院道澄・西洞院時慶・飛鳥井雅庸など。
松花堂昭乗起請文
竹腰正信宛、寛永十五年五月十日付。
寛永十五年(1638)の松花堂昭乗は前年瀧本坊住職を退き、江月宗玩とともに奈良吉野へ旅するなど悠々自適の生活をおくっていた。しかし尾張より善からぬ噂が聞こえてくる、それは昭乗が養福院清心なるものから古筆を騙し取ったとされるもので、昭乗は見せてもらった事も一行たりとも貰った事がないと否定し、このことが大納言様(尾張藩・徳川義直)に知れたら死んでも死にきれないと記している。
富士山図并和歌 烏丸光広筆
富士山と「黄葉集」より和歌「おのれのみ富士の根かくや~」を記している。光広は東行記でも富士山を描いており好んで描いていたようだ。
勝海舟所用 椅子
木・藤製。晩年の海舟が使用し、次女の疋田孝子に譲られた。 (写真のもの、掛軸も海舟筆)
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