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1408 徳川美術館 天下統一

名古屋

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徳川美術館

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企画展示 「天下統一 ~信長から家康へ~」
期間:7月26日(土)~9月28日(日)

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唐物茶壺 銘 松花
大名物。緑黄色の茶壷で侘びた風情をしている。足利義政が所持し、その後は村田珠光や北向道陳に渡った。天正4年(1576)安土城完成の祝いに織田信長に「金花」と共に贈られ、翌天正5年12月に「初花」茶壷などと共に織田信忠に譲られた。以降は秀吉・家康・尾張藩初代徳川義直へと伝わる。
唐物茶壺 銘 金花 
大名物。壺の上3分の2は黄金色を呈し白い縦筋が全体に廻っている。松花より大ぶりで華やかな印象を受ける。
天正四年(1576)安土城完成の祝いに織田信長に贈られ後、秀吉・家康と渡った。家康から紀伊藩初代徳川頼宣へ与えられ、その後は伊予西条松平家に伝来した。
唐草文染付茶碗 銘 荒木
大名物。 薄い唐草文と細かい貫入が特徴的な茶碗。「荒木高麗」の名で知られるが中国南部の産とされる。
銘の荒木は荒木村重が所持した事から。
元は北向道陳が所持、その後は荒木村重(道薫)・利休・徳川家康・尾張藩主徳川義直と渡った。
荒木道薫は利休十哲にも上げられる茶人であり、信長家臣時代よりしきりと茶会を開いている。北向道陳は本姓「荒木」である事から2人が一族で顔見知りであったとも言われており、茶の手ほどきも最初は道陳が教えたのかもしれません。
道薫は荒木高麗以外にも寅申壷や兵庫壺に青磁蕪無花入・桃尻花入さらに牧谿の遠浦帰帆図等の茶道具を所持していたそうです。
竹茶杓 豊臣秀吉作
白竹、櫂先は丸撓で露は丸形。筒には「ひかし山こほう」即ち東山御坊とあり豊臣秀吉が創建した方広寺もしくは、その開山である古渓宗陳に贈られたと考えられている。尾張徳川家伝来。
徳川家康所用 熊毛植黒糸威具足
水牛角の脇立の兜。総体に熊の毛を植え、面頬は朱塗りで威圧感を与える。
尾張徳川家では名古屋城小天守内に特別な場所を設け安置していたそう。
片桐且元所用 平三角大身鎗 銘 兼上
室町時代の作。片桐且元が賤ヶ岳の戦いで使用したと伝わる。
片桐且元は賤ヶ岳七本槍のひとり、その戦功により三千石を秀吉より与えられた。
短刀 無銘 志津 名物 戸川志津
南北朝時代の志津三郎兼氏作。戸川逵安が所持したことから戸川志津と呼ばれる。後に前田利常が所持し徳川秀忠に献上。秀忠から紀州徳川頼宣さらに徳川家光から尾張徳川義直へ下賜された。
戸川逵安は宇喜多秀家の家臣であったがお家騒動により宇喜多家を離れた。その後徳川家康の家臣となり関ヶ原の戦いで戦功を挙げ(一説には島左近を討ち取ったとされる)備中庭瀬藩主となった。
織田信長書状 おね宛
織田信長より秀吉の正室おね(北政所・高台院)に宛てた手紙。女性宛の為かな文字主体であり署名も「のふ(信)」となっている。内容は最初に土産物の礼を述べ、おねに対し以前に会った時より美しくなった事、そのおねを藤吉郎(秀吉)が不満に思っている様だが言語道断である事、おね程の者は二度と求める事は難しいだろうから、そなたも今後は正室らしく重々しくふるまい、嫉妬などおこしてはならない。と記している。
最後にこの書状を藤吉郎にも見せよと言っており、おねに宛てているが実質的に秀吉に見せる事を前提としている。
文中秀吉の事を「はげねずみ」と呼んでいるのが珍しく、かなり特殊な書状と思われます。

織田信長書状(おね宛)は個人蔵で7年ぶりの特別出品だそうで、私ははじめて拝見しました。
他の出品物は何度か拝見したものが多いです。しかし同時期に北海道で特別展もありながら質量共にこれだけの展示が出来るのは流石と言ったところでしょうか。
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