・シャープー4 『中興の祖』佐伯旭(さえきあきら)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/c96c2265e2ad0cdaca015d4db4006cd7
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経営権を掌握した 佐伯旭
徳次は佐伯の商才を買っていました。 徳次は1947年、佐伯が29歳のときに取締役に引き上げ、1954年に常務、4年後の1958年に41歳の若さで専務に昇格させました。
佐伯は徳次にとって最も信頼できる腹心だったのです。 実は二人の関係が大きく変化する出来事がありました。 1950年の経営危機です。
1949年の初めから、連合国軍総司令部(GHQ)はインフレ対策として緊縮財政措置(ドッジ・ライン)を実施しました。
これでラジオが売れなくなり、給料は遅配、手元資金は底をつきました。
会社の資金繰りが急速に悪化し、追い込まれた徳次は資金捻出のために株を売却し、会社を清算する覚悟を固めました。
それを察知した佐伯が労働組合と銀行の間を奔走し、労組に200人強の自主退職を認め刺さました。 株を手放した徳次は会社にとって『創業者』として象徴的な存在となり、窮地を救った佐伯が実質的なトップになったのです。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需が、不況にあえぐ日本の産業界を救いました。 ラジオが売れ出し、業績は急回復しました。
1953年一月、シャープは白黒テレビの量産に日本のメーカーとして最初に着手しました。 徳次はラジオが普及し始めたばかりの1931年に、テレビの研究を始めていました。
これがやっと実を結んだのでした。 このときの白黒テレビ価格は、公務員の初任給が5400円だったのに対して、17万⑤000円。 まさに高嶺の花でした。
人々はプロ野球、大相撲、プロレスを観るために街頭テレビに群がりました。 1959年の皇太子陛下(現・上皇)と美智子妃のご成婚ブームもあって、テレビは爆発的に売れるようになりました。
白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が『三種の神器』ともてはやされ、テレビは一家に一台の時代を迎えることになります。
1960年7月、東芝が国産初のカラーテレビを発売し、カラ-テレビの時代に移っていきます。
1958年、佐伯は専務に就きます。 徳次から経営を任され、実質的な社長となりました。 佐伯を後継者にした理由について徳次は 「戦後の倒産の危機という地獄を共に見てきたこと」を挙げています。
そのころ、徳次は経営への興味を失いつつありました。 視察と称して、三か月も娘の住江を連れて、米欧を回っています。
1957年に妻の琴が亡くなったことで、経営と一段と距離を置くようになりました。 佐伯は専務就任と同時に実質的な『社長代行』となり、経営の実験を掌握しました。
しかし、徳次が健在なうちは決して社長の椅子を要求せず、12年の間、ナンバー2の座に甘んじ続けます。
「下男が主人を追い越したのでは、世間からも謀反のそしりを受けるだろう。 機が熟する前に事を起こせば、徳次を慕っている古株の役員や従業員を敵に回す」 佐伯はじっと時を待ちました。
佐伯は、したたかでもあり、とても優秀な人物だったのです。
(関連情報)
・シャープ-1 創業者 早川徳次
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/18208c4d7876b9fcd0464ca596bb5b13
・シャープ-2 シャープペンシルの発明https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/eef30031fbb6e4a3341eea462d24a044
・シャープー3 大阪に移転https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/04fceb8b99dcb258e2b1cb572df1eb04
・シャープー4 『中興の祖』佐伯旭(さえきあきら)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/c96c2265e2ad0cdaca015d4db4006cd7
・シャープー5 経営権を掌握した佐伯旭https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/5f2c43e6cb8a536dd142fe0d14bca760