文部科学省は認知症など脳に関わる病気の克服に向け、2024年度から新たな大型研究プロジェクトを始める方針だ。
高品質な脳画像データベースや動物の実験技術といった日本の強みを生かしながら、産学連携を強化して、革新的な診断や治療の実用化を目指す。
文科省は6年間の「脳神経科学統合プログラム」を立ち上げるため、24年度予算の概算要求に93億円を盛り込んだ。
脳科学研究を担ってきた2つの大型プロジェクトが23年度に終了するのに合わせ、医療応用や産学連携に力点を置いた新たな計画を始める。
人の脳は1000億ともいわれる膨大な数の神経細胞が集まった複雑な組織だ。言語を操り、思考する脳の高度な機能は人の大きな特徴といえる。
脳研究は人間の本質に迫るだけでなく、医療応用にもつながる。
アルツハイマー病に代表される認知症、手足の震えなどの運動障害が起こるパーキンソン病といった神経疾患、うつ病などの精神疾患は脳の神経細胞や神経回路の病気だ。診断や治療の技術革新には脳神経科学の研究が欠かせない。
政府が6月にまとめた経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)や、新しい資本主義の実行計画の改訂版でも、認知症治療の研究推進や脳科学の新しい国家プロジェクト創設を盛り込んだ。
新プロジェクトは日本がこれまでの研究で培った強みを生かす。
その一つは、脳の構造がマウスなどより人に近い小型サル「コモンマーモセット」を使った研究だ。これまでの実験成果の一部は精神・神経疾患の診断や治療などに役立てられつつある。
マーモセットは体長20〜25センチメートルと小型で飼育しやすく、成熟年齢が2歳程度、寿命が12〜15年と他の実験用サルよりも成長が早い。
脳の発達や老化の研究もしやすいことから、脳神経科学の実験動物として世界的にも注目されている。
理化学研究所の岡野栄之チームリーダー(慶応義塾大学教授)らはマーモセットの遺伝子を改変し、パーキンソン病や神経発達障害の難病「レット症候群」を再現した。
パーキンソン病の再現モデルでは発症前に変化する脳活動を見つけた。岡野氏は「人でも発症前の目印や将来の重症度を予測する指標になる可能性がある」と期待する。
京都大学の高橋良輔教授は「各国が脳科学の研究を進める中、人の脳の前段階としてマーモセットで神経回路の解明に取り組んだのは日本の独自性だ」と話す。
そのうえで「研究はおおむね順調に進んできたが、マーモセットから人へつなぐ研究を強化し、より臨床に役立つ形で発展させるべきだ」と指摘する。
次期計画で新たに掲げる重点課題の一つが「デジタル脳」の開発だ。
数理科学などとの融合研究として、デジタル空間上に人の神経回路を再現することを目指す。健康な人の脳だけでなく、脳が病気になる様子も再現し、病気の進行の予測などに役立てる構想だ。
これまでの日本の研究でも脳の機能を理解し、デジタル上での再現を見据えたデータ蓄積を進めてきた。理研の下郡智美チームリーダーらはマーモセットの脳内で働く遺伝子の網羅的なデータベースを作った。
約2万種類の遺伝子について脳内の各部位で働くパターンを詳細に調べ、3次元の立体地図にまとめた。
東京大学の笠井清登教授らは数十の研究機関と連携し、磁気共鳴画像装置(MRI)で撮影した人の脳の画像データベースを構築している。
統合失調症の患者で脳の特定部位の変化が見られることなどを突き止めた。統一した手法で撮影したMRI画像を集めて、高品質なデータベースを実現しているという。
次期計画では、脳研究で得た知見を本格的な医療応用につなげるために、患者の診療を手がける臨床分野の研究者や製薬企業、検査装置メーカーなどとの連携を強化する。
中核となる研究拠点を公募し、基礎と臨床、産学連携のハブ機能を持たせる。これまでの研究で中核的な役割を担った理研の脳神経科学研究センターが、病院機能を持つ研究機関と連携する形が有力候補の一つとなる。
脳科学は世界的に競争が激しい分野だ。米国は14年から「ブレイン・イニシアチブ」の予算措置を始め、26年までに計50億ドル(約7400億円)以上の規模を見込む。
欧州は23年までの10カ年計画に約6億ユーロ(約970億円)を投じた。中国は21年からの5カ年計画に50億元(約1000億円)の予算を計上するという。
日本が次期計画で技術やデータなどの強みを生かして独自性を目指すことは重要だが、規模の追求は難しい。海外との連携や分担を進める体制も欠かせない。
世界で患者増加に懸念 基礎研究の蓄積重要に
高齢化などを背景に脳に関わる精神・神経疾患の患者は世界的な増加が懸念される。
特に認知症は大きな課題だ。2030年に国内の認知症患者数は830万人、介護や医療などの社会的コストは約21兆円に上るとの予測もある。世界保健機関(WHO)は世界の患者数が30年に7800万人、50年に1億3900万人と予測する。
エーザイと米バイオジェンが開発した新しい仕組みのアルツハイマー病治療薬「レカネマブ」の登場という前向きな成果も生まれているが、効果は軽症患者の進行を緩やかにするものだ。
治療対象の患者を簡便に見つけるための早期診断の技術、症状を回復させる根本的な治療などさらなる研究開発が重要となる。
運動障害が起きるパーキンソン病の患者数も増えている。国内の患者数は推定20万人程度で、難病の中では特に多い。世界の患者数は40年に1400万人に達するとの予測もある。
高齢化の進展でまれな病気だったパーキンソン病が「パンデミック」状態になると指摘されている。医療や介護などの制度を整備しつつ、脳科学の基礎研究で生まれた知見を生かした技術の開発が重要になる。
(越川智瑛)
日経記事 2023.11.30より引用