風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

砂防ダム・伊ヶ谷港・活動火山対策避難施設 (三宅島)

2010-03-13 | 東京

● 砂防ダム


ダムとは、水を貯めて水量調節するものだと思っていましたが、水以外のものを、ためるというよりはね返すダムもあるのだと知りました。
砂防ダムは砂を防ぐと書きますが、実際には噴火で流れてくる溶岩や木などから集落を守るものです。
2000年の噴火後、島の57カ所に砂防ダムが作られました。10年の年月と430億の費用をかけたダムは、島民の生活と生命を守る大切なガード役を果たしています。砂防ダムにも、風通しがよいものやぶ厚いものなど、いろいろな種類のものがあり、場所に応じて設置し分けているとのことです。世界最大級で、770mの長さになるものもあるとか。


パックリ見えた地層にビックリ。
ここもとても風が強く、みんな震えていました。三宅島は、いつ来ても風が強い場所です。


三宅支庁土木港湾課の人の説明を聞きました。
荒涼とした光景を目の当たりにして、誰もが重い気持ちになりましたが、「ホーホケキョ」とウグイスの鳴き声が聴こえてきました。
災害後、人々の努力によって、野生は少しずつ戻ってきています。山の生命の息吹きを感じ取れて、ほっとしました。

● 伊ヶ谷港 漁港施設


山を降りて、今度は海へと向かいました。
訪れたのは伊ヶ谷港。三宅島第3の港です。
ここに来て、記憶がよみがえりました。私が初めてダイビングをしたスポットは、まさにあの桟橋だったんです。
初めての体験に緊張しながら、ウェアに着替えましたが、その時に眺めた山肌には、当時なかった落石防止のネットがかけられていました。
噴火によって、火山岩が海にも流れ込み、海中の生態系も変わってしまったと聞きますが、私が好きだったオヤビッチャはまだ泳いでいるかしら?


ここでも土木課の人の説明を受けました。桟橋は溶岩で沈み、かさ上げしているそうです。小さな漁港ですが、緊急時には大型船舶も止められるような構造になっているとのこと。
話を聞いていると、強風で、波のしぶきが飛んできます。
風にあおられて海に落ちないよう、水際に寄らないように言われました。
身体も服もカメラも、全てがしおしおになりました。


若さをもてあます青年たちが、コンクリの塀を越えて波が飛び散る中を、走ったり滑ったりしていました。
青春ねー。床の色が変わっているのは、波によるものです。

噴火によって、海中生物の生態も少し変わったと聞き、気になって、支庁の人に「御蔵島に、イルカはまだちゃんといますか?」と質問したら、今では数も戻ってきているとのことでした。
一頭一頭、個体識別をして、生息状況を確認しているんだそうです。
御蔵島周辺は、イルカの子育て場。今も元気に海中を泳ぎまわっていると知って、安心しました。

さっきから、私が支庁担当者の近くに行っては、熱心に質問をしている様子を見て、ノルさんが「帰ったら、視察報告書を書けますね」と言いました。
でも、私が聞いているのは「牛は無事ですか?」「イルカは無事ですか?」と、動物のことばかりです。
そんな内容でもよければ、張り切って書きますよー(笑)!

● 東京電力発電所


東京電力燃力発電所を訪問しました。
発電所なのに石油タンクがあるのが不思議でしたが、500キロのタンク5基で、重油を使ったディーゼル発電を行っているそうです。使用量は毎月13キロとのこと。


参加者の中には東電の人もおり、みんな熱心に説明に耳を傾けました。
従業員は、常時2名、3交代で総勢12名に、営業所に7名で、合計19名だそうです。
島の警察官は17名なので、警官と東電職員はほぼ同人数ということになります。
(もしデータが違っていたら、ご一報ください) 


ここは、島で生活を送るための重要なインフラ施設。人口300名の御蔵島にも、ここからコンテナ輸送をしているとのことです。
青ヶ島は更に少ない人口200名で、そういった離島に電力を供給しても、東電的には得をせず、みんなの電気量で離島分で生じた損を負担しているとのことでした。

● 三宅村活動火山対策避難施設


三宅村活動火山対策避難施設(クリーンハウス)を見学し、そこの大食堂にて昼食をとりました。
港やヘリポートまですぐの、泥流被害の恐れがない安全な場所に建てられ、72時間の電源供給が可能な発電設備の整った施設です。
次期噴火災害の避難所として、また一時帰島者の宿泊所として作られました。


バスの止まった駐車場が、ヘリポートとなっていました。


三宅村平野村長・佐藤副村長はじめ、島のお偉いさん達がお話をしているそばで、ユカさんと私は、幹事さんと訪問場所のチェック中。
三宅島は丸いので、地図で確認して行かないと、方角がわからなくなってしまいます。ええと、今いるのはどこだっけ・・・。


施設内には「火山性ガス(二酸化硫素、SO2)濃度」値の電光表示板が至る所にありました。
時計かと思ったら。よかった、この時のガス濃度は問題ないようです。


施設の外には、各部屋から排出される大きな空気清浄機(?)が据えられていました。

村長たちは、こんなお話をしていました:
・三池地区はまだ帰れない
・火山ガスは1日1000~2000トン
・観光客数は8万から4.7万に減った
・フライトが不安定なのも観光客が減った理由
・飛行機は火山ガスと強風の影響により、欠航することが多い。今年1月は3回しか飛ばなかった。
・船も2,3日欠航したりするため、旅行会社がプランを立てにくい
・島内の地域ごとにあまり交流がない。小中学校を一つにまとめたのはその問題解消につながるよい案
・TV電波は神津島(CATVが入る、三宅は入らず)から飛ばしている。北部は地デジ。御蔵からも引く予定。
・ネットはイーモバイルが使えない、携帯も全島通じるのはドコモだけ


prologue・旧村営牧場・七島展望台 (三宅島)

2010-03-12 | 東京


元東京都副知事、元明治大学公共政策大学院・青山教授主催による、3/12~14の三宅島視察旅行に、研究スタッフとして参加しました。
様々な自治体の議員さんや、先生のゼミ生たちと、総勢70人の大所帯です。
なんだか高校の修学旅行を思い出しました。

三宅島は、富士箱根伊豆国立公園に属する伊豆七島の美しい島ですが、近年では1983年と2000年に大規模噴火が起き、島民が本州に避難をして、噴火から5年後に帰島の許可が降り、今なお復興中です。
現在も、島の火山ガス放出は続いているため、ガスマスク携帯義務があるとのことで、ものものしさを感じます。
2000年の噴火の際、東京都副知事として全島民の避難の指揮を執った青山教授は、その後の島の復興に意欲的です。

私は、2000年の三宅島噴火が起きる前の、1998年と1999年に、2回三宅島を訪れています。
ドルフィンスイミングとダイビングをして、とても楽しく島での時間を過ごし、翌年の夏も訪れようと思っていたので、噴火が起きた時はとてもショックでした。その後の状況について、島の状態やお世話になった宿の人たちのことがずっと気になっていながら、詳細はわからずじまいでした。
そんなわけで、今回はとてもいい機会となりました。
11年ぶりの三宅島、ビフォー・アフターはこれいかに?

→当時の旅行記: 「ドルフィンスイミング@三宅島」

○ 三宅島噴火災害メモ ○
位置:東京の南約180km
面積:5500ha
周囲:34.5km(車で1時間で一周する広さ、山手線より大きい位)
地形:島の中央に雄山(標高800m)を持つ円形、噴火による隆起と火山岩等の体積でできた玄武岩の島
大噴火:1085年以降17回(21年周期説)。
    1983年の噴火では、約400戸が溶岩流により焼失
    2000年6月26日噴火…3300万トンの降灰、泥流・土石流による
              インフラ・ライフライン・民家の被害
       9月2日…災害対策基本法に基づく全島民の島外避難指示(数日中に避難完了)
    その後…火山ガスSO2の噴出続く
    2005年2月1日…避難指示解除、
           島民の帰島開始(噴火より4年5か月に渡る避難生活)
    現在…今なお島内での非常用ガスマスクの携帯が義務付けられている
       坪田高濃度地区(159世帯)はいまだ火山ガスの影響で居住禁止
降水量:年平均3000ミリ(日本平均の2倍)
平均風速:7m(日本第3位)
鳥類:250種
人口:約3800人(うち帰島社は2800人)

● 竹芝桟橋から三池港へ


三宅島へのフェリーは、一日一便、夜10時半に竹芝桟橋出港です。
乗船前に全体で集まり、先生や、同便に乗り合わせた三宅島村長さんのお話を聞いて、さるびあ丸に乗り込みました。
離岸と同時に、私たちはスタッフミーティングを行い、終わったころには、もうレインボーブリッジは遠くになっていました。

船に弱い私は、酔い止め薬を飲んで早く寝てしまおうと、揺れがひどくならないうちに横になりました。東京湾は結構波が高く、以前も相当グロッキーになったことを思い出しながら、眠りにつきました。


翌朝5時に、三宅島の三池港に到着です。日の出前で、辺りは真っ暗。
乗っていた船は、強風のため、御蔵島には寄らずに、八丈島へと一路向かいます。
港には、都三宅支庁と三宅村役場の人が、暗い中、出迎えに来てくれていました。
バスに乗って、宿へと向かい、そこでしばしの仮眠を取りました。

仮眠をしてリフレッシュしてから、7時に朝食を取りました。
朝食には、「亀の手」と言われる貝のお味噌汁が出ました。
本当に亀の手のようにリアルで、こわごわ食べましたが、おいしいダシがでていました。魚介が豊富な島ならではの珍しい食べ物です。

それから村が用意した貸切バス2台に乗りこんで、視察へと向かいました。
私たちのバスには、三宅村副村長さんと、三宅市庁職員の人が、バスに同乗して、説明してくれます。

三宅島の地図の真ん中に位置するのが、活火山の雄山(地図・茶色のところ)です。ここは今でも「立ち入り禁止区域」になっています。
その周囲を取り囲む、薄茶色の場所は、「危険区域」に指定されています。
まずはここを訪れました。

● 旧村営牧場


島内山側の危険区域に入ると、これまでの自然に包まれた景色から、がらりと光景が変わりました。
見渡す限り、荒涼とした丘陵が広がっています。
普通の緑豊かな山とは全く違う、溶岩の黒い土壌に、すべて立ち枯れてしまった杉の白い幹が、無数に並んでいる、なんともいえない光景です。
溶岩流と火山ガスによって出来た立ち枯れの林。眼下に広がるのは、この世のものではない光景で、みんな、ただ呆然として、言葉もありませんでした。
火山灰や火山岩片といった火砕物が堆積してできた地層が、あちこちに見られました。

黙りこくった視察者を乗せたバスは、少し緑が戻ったような地域に差し掛かりました。
「アカコッコの森」と呼ばれるその場所は、もとは杉林でしたが、今は何も無くなってしまった村有地で、島民やANA、セブンアンドアイ、イオンなどの企業がボランティアとして植林活動を行っているそうです。
木が育つのには何十年もの年月が必要です。植えられているのは、まだ背も低い、小さな若木でしたが、確実に枝葉を広げて育って行く、島民の希望の地のように思えました。


噴火前に、この牧場を訪れたことを思い出しました。山麓の裾野に広がる、雄大な牧場で牛が飼われていて、いい環境だなと思った記憶があります。

それが、今や立ち入り禁止区域に指定されているなんて。
ここが牧場跡だなんて、全く信じられないほど真っ黒の土壌でしたが、そこに残る、牛の水飲み場やサイロが、かろうじて当時の面影を残していました。
危険区域には、廃墟すらほとんど残されていません。当然、牛の姿は一頭も見当たりません。
「おお、牧場は緑」の歌を思い出し、昔を知っている身としては、あまりのすさんだ変わりように、絶望的な思いさえしました。

サイロがぽつんと立つ、荒涼たる光景に、映画『バグダッド・カフェ』を連想しました。(観たことありませんが…)


牛さんは、どこへ行ったんでしょう?噴火時、ちゃんと逃げられたのでしょうか?
気になったので、同行の都の職員の人に聞いてみました。
牛も、全島避難の時に、本州に送られたとのことです。ただ土壌が変わり、牧草が生えなくなってしまったため、もはや牧場は続けられなくなり、牛も飼えなくなったとのことでした。

牛の安全がわかって、ほっとしました。
ただ、三宅島のお土産「牛乳煎餅」の牛乳は、よその牛乳を遣わざるを得なくなったという、悲しい話を聞きました。
スタッフが宿近くの商店に行ったところ、北海道牛乳1Lが280円で売られていて仰天したそうです。牛乳煎餅の原価は、かなり上がってしまったんでしょうね・・・。

あまりにショックで、青山先生に「私、噴火前に2度、三宅島を訪れているので、驚きました」と話したら、「なぜ来たの?」と聞かれました。
「ダイビングとドルフィンスイミングをしにです」と答えたら、よほど意外だったらしく、「彼女はダイビングするんだって」と何度も話していたと、後になって何人もの参加者から聞きました。
昔から、スポーツの話をするとみんなに驚かれる私ですが、青山先生のことも驚かせてしまったようです・・・。


お土産に牛乳煎餅を買いました。ワカさんに「煎餅に牛乳って、なんだか合わないと思う」と言われて、(確かに)と気がつきました。
言葉の意味に気づく前に食べている私は、全く抵抗がありませんが、言葉だけ聞いたら、ちょっと躊躇してしまうかもしれませんね。

「瓦せんべいみたいなもの」と説明したら、「ああ~、甘いんだ」と、スタッフ一同、納得してくれました。
かすかな甘さが懐かしかったです。値段もそう高くなく、(がんばってるのね)と涙ぐみそうになりました。

● 七島展望台 


七島展望台に着きました。伊豆七島を見渡せるという意味なのでしょうか?
確かに見晴らしは抜群でしたが、見渡す限り、一面の立ち枯れの林でした。

噴火した雄山火口は、ここからほど近い場所にあります。
2000年の噴火で、雄山の標高が数十メートル下がったとのことで、山の高ささえ変えるほどのすさまじい噴火の威力に驚きました。
非日常的な光景に、植物が育たない土星に不時着したような気持ちになりました。

遮るものがない高台のため、バスも揺れるほどの強風を受けて、バスを降りられず、車中からの見学となりました。


バスには、人数分のガスマスクを用意してありました。
危険区域にいる時に避難警報が出されたら、ただちに装着するようになっています。
視察中、ガスマスクを使わずにすみますように。