里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

禁 煙

2008年02月08日 | 家族・友人
先日、舅が雪掻きをしていて息苦しくなり、そのまま横たわって休んで何とか回復
したと言う。
心配なので診療所で紹介状を貰い倉敷中央病院で検査を受けたところ、どうやら心
臓には問題は無く肺の機能が低下している疑いが強いらしい。
若い頃からのヘビースモーカーでこの日のX線撮影でも肺は真っ黒!
ドクターに、「何はともあれタバコをやめなさい!」「このままだと酸素ボンベを
着けて暮らす事になる!」と脅かされてしまった。
日を改めて再検査する事になったが、何しろ幾ら忠告しても喫煙を止めようとせず
心配ばかりさせる困った人だ。

禁煙と言えば、2月3日の日経に、米ファイザーが近々“チャンピックス錠”と言
う禁煙薬を売り出す予定だと載っていた。 この薬、うつ状態になったり、自殺願
望が強くなり実際に自殺者も出ているのだそうだ。
私としては、舅が禁煙出来ないのを見ているだけに、つい“自殺してしまえば禁煙
出来ると言う事か?”と考えてしまうが、舅にはまさかこんなブラックユーモアは
言えない。何とか禁煙させたいものだが、次回にドクターと相談してみるとしよう。

この倉敷病院、有名な大原美術館を造った大原孫三郎さんが建てた病院で、最新鋭
の医療を提供しているだけではなく、四季を通じて花が楽しめる温室付の休憩室や
ギャラリーも設けられている、大きくて綺麗な病院だ。
しかも創業者の意思で、病室には等級がなく患者からの心付けも厳禁されていて、
全く平等公平の精神で運営されていると言う。

改めて、この大原孫三郎なる人物を調べてみて驚いた。
大地主で、クラボウ社長の2代目という身分であるにもかかわらず、社会や労働者
に大いなる貢献をしている!
日本の昨今のリーダー達に、是非その爪の垢を煎じて飲ませたいものだ!

大原孫三郎
・明治13年(1880年)、倉敷市の大地主(明治中期には800町歩もの田畑を有す)
           で倉敷紡績(クラボウ)を経営していた大原孝四郎の3男
            として生まれたが、2人の兄が相次いで亡くなった為に
           跡を継ぐ事となった。
・明治30年(1897年)、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学したものの、放蕩
           三昧で現在の金額で1億円もの借金をして退学させられ、
           倉敷で謹慎処分を受けた。
・明治34年(1901年)、結婚し、倉敷紡績に入社。 初等教育すら受けていない労
           働者が多い事に驚き職工教育部を設立。
・明治35年(1902年)、工場内に尋常小学校を設立。倉敷商業補修学校(現在の倉
           敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援。
・明治39年(1906年)、社長に就任。 従来飯場に住まわされ劣悪な環境で仕事を
           させられていた労働者の待遇を、重役や株主の反対に対し
          「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切り改善す
           ると共に、社会福祉に貢献。 
         (例)
           従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営。
           住居も現在の社宅に近いものに変更し、駐在医師や託児所
           などの設備も備える。
           日露戦争で増えた孤児を救う為に、会社の利益の大半を投
           入して孤児院を支援したが、その額は現在の金額で数百億
           と言う。 
・大正3年(1914年)、大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究
           所の前身)を設立し、農業の改善を図る。       
・大正8年(1919年)、大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)
           を開設し、マルクス経済学を研究。研究所共々大原孫三郎
           も特高警察から睨まれたが、研究所からは後に多くの政治
           家などを輩出した。
・大正10年(1921年)、倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設し、
           労働環境改善の研究に着手。
・大正12年(1923年)、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、労働者だ
           けでなく市民の診療も行う。
           その他にも、中国水力電気会社(現在の中国電力)を設 
           立、工中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取になるなど
           地元経済界の基盤確立に貢献した。
・大正15年(1926年)、倉敷絹織(現在のクラレ)を設立。
・昭和5年(1930年)、児島虎次郎に収集を依頼した各国の美術品を収蔵する大原
           美術館を開館。
・昭和10年(1935年)、倉敷毛織を設立(後に倉紡に吸収合併)。
・昭和14年(1939年)、長男の大原総一郎に企業体を引き継ぎ引退。
・昭和18年(1943年)、倉敷市の自宅で死去。享年62。