開高 健
2006-04-22 | 小説
久しぶりに迫力のある文章に出逢った。開高健の『パニック』だ。昭和三十二年の作品なので、かなり時が経っているが、全く色褪せることなく迫力あるそのオーラは並大抵のものではない。
今まで開高健については美食家で釣り好きのやたら精力的な作家ということくらいは知っていたが、その作品を読む機会がなかった。しかし、つい先だってフラリと入った古書店で新潮文庫『パニック・裸の王様』を百円で見つけたので手に取った。この文庫には四つの短編が収録されていて、裏表紙を見ると「芥川賞受賞作『裸の王様』」と書いてあり、そう云えば自分は芥川賞受賞作というのをあまり読んだことがないので、何となく読んでみるかなと税込み百五円で購入した。早速、家に帰って最初の作品『パニック』を何気に読み始めたら、何と云うか、勢いと云うか、迫力と云うか、いや、やはりオーラなのだろう。みるみるうちに引き摺り込まれていった。これは凄い!この人は凄い!嬉しさの余りニヤニヤと笑みを浮かべながら読んでいると、それを見ていた妻が「気持ち悪い」と吐き捨てる始末。
「ふん、お前みたいな凡人なんぞには解かるまい。優れた作品に出逢ったときに込み上げてくるこの昂揚感を!」
と、もちろん心の中だけで罵り、私はバカはほっといて開高健の世界に没頭した。
次の作品は『巨人と玩具』であるが、『パニック』が強烈過ぎたのだろう。少しトーンダウンするが、それでも疾走感はあった。
そして次は芥川賞受賞作『裸の王様』である。さて、どうしたものか。多分『パニック』を読む前なら「あぁ、いい小説だね」と云えるのだが、やはり『パニック』のオーラは感じられない。
やはり、何々賞などに惑わされず自分がそのときの感覚で手にしたモノの方が確かな手ごたえを覚えることが多いのだ。私は個人的には『裸の王様』より『パニック』のほうに手ごたえを感じたのだが。
まぁ、さておき四つめの『流亡記』だが、これはまだ読んではいない。再び迫力のオーラに包まれるか、それとも眠気と戦い何となく文字を追うだけになるのか、それはこれからのお楽しみだ。
とにかく『パニック』には作家の一途なまでの迫力が漂っていることだけは確かである。
今まで開高健については美食家で釣り好きのやたら精力的な作家ということくらいは知っていたが、その作品を読む機会がなかった。しかし、つい先だってフラリと入った古書店で新潮文庫『パニック・裸の王様』を百円で見つけたので手に取った。この文庫には四つの短編が収録されていて、裏表紙を見ると「芥川賞受賞作『裸の王様』」と書いてあり、そう云えば自分は芥川賞受賞作というのをあまり読んだことがないので、何となく読んでみるかなと税込み百五円で購入した。早速、家に帰って最初の作品『パニック』を何気に読み始めたら、何と云うか、勢いと云うか、迫力と云うか、いや、やはりオーラなのだろう。みるみるうちに引き摺り込まれていった。これは凄い!この人は凄い!嬉しさの余りニヤニヤと笑みを浮かべながら読んでいると、それを見ていた妻が「気持ち悪い」と吐き捨てる始末。
「ふん、お前みたいな凡人なんぞには解かるまい。優れた作品に出逢ったときに込み上げてくるこの昂揚感を!」
と、もちろん心の中だけで罵り、私はバカはほっといて開高健の世界に没頭した。
次の作品は『巨人と玩具』であるが、『パニック』が強烈過ぎたのだろう。少しトーンダウンするが、それでも疾走感はあった。
そして次は芥川賞受賞作『裸の王様』である。さて、どうしたものか。多分『パニック』を読む前なら「あぁ、いい小説だね」と云えるのだが、やはり『パニック』のオーラは感じられない。
やはり、何々賞などに惑わされず自分がそのときの感覚で手にしたモノの方が確かな手ごたえを覚えることが多いのだ。私は個人的には『裸の王様』より『パニック』のほうに手ごたえを感じたのだが。
まぁ、さておき四つめの『流亡記』だが、これはまだ読んではいない。再び迫力のオーラに包まれるか、それとも眠気と戦い何となく文字を追うだけになるのか、それはこれからのお楽しみだ。
とにかく『パニック』には作家の一途なまでの迫力が漂っていることだけは確かである。