ジャン・ブラン著、竹田篤司訳、白水社文庫クセジュ。
読んだ後、なぜか六星占術にハマっていた知人のことを思い出した。
私は、生年月日から運勢を占ってくれる人に、いつも言ってみたくなることがある。
それは、「いまの私の状況から、私の生年月日を当ててみてくれ」と。
直観で人を見抜く、というのなら、まだわかる。
でも、生年月日から運勢を導くのであれば、それは占いという名の統計だと思うのだけど、
どうも数字を結束していく条件がわからない。
だから、「逆もまた真なり」なのかどうか、いつも気になってしまう。
「己れの悲惨を知らずして神を知ることは、傲慢をつくる。
神を知らずして己れの悲惨を知ることは、絶望をつくる」
この後、
「キリストを知ることは中間をもたらす。
なぜなら、彼の裡にわれわれは、神と自己の悲惨とを見いだすから」
と、パスカルの言葉は続く。
キリスト云々のくだりは、信者ではなく、聖書も読んだことがないので、よくわからない。
でも、その前の部分は、なんだかとても気持ちがいい言葉の流れだ。
等式のおよばないところに、信仰による真理はある。
それについては、なんとなく感覚的に理解できる。
そして、私にとって、ストーリーのない「単なる占い」は、
信じる・信じない以前に興味がないのだと気がついた。
私は、足下を見れば見るほど恐怖感におそわれる。
この過程こそが、私にとっては重要なストーリーだ。
これを「あなたは今年、どこそこに星があるからこうで、来年はこうなる」と言われても、
「私が苦しんでいるこのことは、いったいどこへ行ってしまうのだ。
そんなことで片付けないでくれ。いま、ここに恐怖があるではないか」と言いかえしたくなる。
恐怖につかまれてしまったら、逃れることはできない。
ごまかすこともできない。
だからこそ、最終的なところでの絶望もない。
矛盾しているかもしれないけれど、私はそう思う。
読んだ後、なぜか六星占術にハマっていた知人のことを思い出した。
私は、生年月日から運勢を占ってくれる人に、いつも言ってみたくなることがある。
それは、「いまの私の状況から、私の生年月日を当ててみてくれ」と。
直観で人を見抜く、というのなら、まだわかる。
でも、生年月日から運勢を導くのであれば、それは占いという名の統計だと思うのだけど、
どうも数字を結束していく条件がわからない。
だから、「逆もまた真なり」なのかどうか、いつも気になってしまう。
「己れの悲惨を知らずして神を知ることは、傲慢をつくる。
神を知らずして己れの悲惨を知ることは、絶望をつくる」
この後、
「キリストを知ることは中間をもたらす。
なぜなら、彼の裡にわれわれは、神と自己の悲惨とを見いだすから」
と、パスカルの言葉は続く。
キリスト云々のくだりは、信者ではなく、聖書も読んだことがないので、よくわからない。
でも、その前の部分は、なんだかとても気持ちがいい言葉の流れだ。
等式のおよばないところに、信仰による真理はある。
それについては、なんとなく感覚的に理解できる。
そして、私にとって、ストーリーのない「単なる占い」は、
信じる・信じない以前に興味がないのだと気がついた。
私は、足下を見れば見るほど恐怖感におそわれる。
この過程こそが、私にとっては重要なストーリーだ。
これを「あなたは今年、どこそこに星があるからこうで、来年はこうなる」と言われても、
「私が苦しんでいるこのことは、いったいどこへ行ってしまうのだ。
そんなことで片付けないでくれ。いま、ここに恐怖があるではないか」と言いかえしたくなる。
恐怖につかまれてしまったら、逃れることはできない。
ごまかすこともできない。
だからこそ、最終的なところでの絶望もない。
矛盾しているかもしれないけれど、私はそう思う。