ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

命日を前に

2010-06-11 12:57:51 | Weblog
明日は特別な日だ。

母と言葉が交わせなくなって、19年を迎える。
19年前の今日、いったいどんな会話をしただろう。
毎年、6月12日の前後には、いろいろなことを思い出し、懺悔をする。

いつも一番思うのは、
もし私が大学に行きたいなどと無理を言わなかったら、
母も過労で倒れるようなことはなく、
いまでも幸せに暮らせていたのではないか、ということだ。

そこまでの無理を強いて大学へ行って中国語を学ばせてもらったのに、
いま、それを活かしていない。
なにをやっているんだ、と思っている。

でも、今年はもうひとつ気づいたことがある。
母が倒れる少し前から、母はすごく疲れ、そしてイライラしていた。
なにかに追われているようで、しきりに、
「通帳や家の権利書はここに入っているから。一緒に写真を撮っておこう」と言われ、
私が「もうわかったから。やめてよ」と言うと、母は怒り始めた。

とにかく私にくっついてきて、
私が距離をおこうとすると、すごく怒られた。
そしてイライラしている母が疎ましくて、よけいに距離をとった。
あのとき、母の焦燥とちゃんと向き合い、
疲れの原因を解決するような話し合いをすべきだった。
私が一番後悔していたのは、大学へ行ったことではなくて、
おびえ、助けを求めていた母を見捨ててしまったことだったんだ。

思い出は、何年も経ったあとに、明確な言葉となって、
改めて心に刻まれることがある。

幼いころ、母に繰り返し言われたことは、
「心の目を大切にしなさい」ということだった。
心の目は、肉体の目と違って、視力が悪くなったことに気づきにくい。
だからこそ、心の目が曇らないように、いつも自分に問いかけなければならない。
そして、心の目を育ててくれるのは、自分の心の広さなのだから、
ものごとを見るときは、肉体の目だけでなくて、
心の目でも一緒に見つめるようにしなさい。
そう言われた。
というか、それしか言われなかったに近い。
怒られるときもしかられるときも、常に基準は私の心にある目だった。
だから、怒られても納得した。

93年に北京に1年間留学して、日本に戻ってきたあと、
当時は1年に1回くらいしか会わなかった父と会った。
日本はまだバブルで、ものやサービスのない中国から戻ってきた私からすると、
すごくすごく無駄が多くて、うわべで浮かれていて、居心地が悪かった。
父にそう言うと、
「コップの水ではなくて、海の水になればいいんだよ。海には、清い水も、
工場の排水も、ぜんぶ流れ込む。でも、海の水は海の水なんだ。
一握りの塩くらいでは、味もかわらない。最近こう思うんだよな」と言われた。

ふと立ち止まり、最近、自分の視野を広く保つ努力を怠っていたことに気づいた。
これ以上、道をそれていたら、それこそ両親の心の磁場に触れることすら
かなわなくなっていただろう。
いま、心の目を振り返る機会が訪れたことに感謝する。

ねがい

2010-06-10 22:38:56 | Weblog
宮崎の口蹄疫の被害が拡大しているとニュースで報道している。

都城という地名は、高校生の時、
バレーボールの全国大会に出場する都城の選手たちが、
練習のために私の通っていた高校の体育館に訪れ、初めて知った。
読み方がわからなかったので、印象に残っている。

全国レベルのチームは、ウォームアップのときから全然違う。
同じ学年なのに、ずっと大人に見えた。
彼らのなかにも、畜産農家になった人はいるのだろうか。

畜産農家の方たちのインタビューを見るたびに、
人間が食するために育てられる家畜がいるということ、
その家畜たちに名前をつけ、話しかけながら大事に育てている人がいることを知る。

私はふだん切り身となった食肉しか見ることがないけれど、
そのほんの小さな塊であっても、
誰かの愛情の結晶なのだと、改めて知らされた。

最近、従弟の子どもや知人の子どもの話など、
子育ての話を耳にする機会が多い。
「親はなくても子は育つ」と笑い話になることもあるけれど、
ひとつの生命が育つと言うことは、本当にたいへんなことで、
真の愛情がなかったら、決して育つことはない。
そこに、人間の子ども、動物の子どもの違いはない。

はやく解決することを願う。

ヘビ、泳ぐ!

2010-06-10 14:21:27 | Weblog
家の前に、小さな川が流れている。
最近は水がきれいになったので、いろいろな生き物が棲んでいるんだけど、
毎年この時期になると、大きなヘビが出てくる。

今朝は、川縁を散歩しているおじさんの
「ヘビ、泳ぐ! 泳ぐ、ヘビ! 大きい、ヘビ、泳ぐ!」という
とても日本人の日本語らしくない言葉の羅列で目が覚めた。
あのおじさんとは仲良くなれそうな気がする。

昨晩は、たくさん日本酒を飲んで、酔っぱらった。
私は東京育ちなのに、銀座のメインストリートにあるお店で食事をした経験は、
友人の結婚式の二次会くらいだったから、
銀座というと「晴れ」というイメージしかなくて、
なんというか、偏見があったことに気がついた。
昨日行ったお店は、能登半島の料理を食べさせてくれるところで、
非常にアットホームで落ち着くお店だった。 
いいお店に連れて行っていただいた。

お酒を飲み始めると、最初のうちは、ほどほどに、と思う。
言わなくてもいいことまで言ってしまうし、周囲にも迷惑をかける。
電車の中にいる酔っぱらいほど、ふだんイヤなものはない。

それに仏教では飲酒をいましめているし、なんといっても深酒した後の睡眠はよくない。
夢でも酔っていて、世界がぐるんぐるんしているし、
夢の色がきつくなり、穏やかではなくなる。
悪夢というほどではないけれど、どこかに危機感があって、全身に力が入っている。
今朝も目が覚めたら、筋肉痛になっていた。
そして、またやってしまった、飲み過ぎた、と自覚した。

でも、料理も美味しかったし、お酒がすすむような料理だったんだよな。
塩がおいしい。塩辛もおいしい。
 

これで飲まずにいるほど、私は強くない。
 

お刺身も最高だった。

このほかにも、たくさん出てきたんだけど、次第に酔って、写真がぶれた。

今日は、空海の般若心経秘鍵の続きを読もうと思っていたのだけど、
こんな生臭な状態で本を開くと、申し訳ないような気がする。
切り替えて、家の掃除をすることにした。
まず、風を通して、深呼吸をしよう。

ここから、追加。
年齢を超えたお友だちSANTAさんのブログを見たら、
私のことを紹介してくれていて、
かつ、美味しかったふぐの唐揚げの写真がとてもかわいそうなことになっていたので、
写真を追加しました。

ヨーグルトの瓶

2010-06-09 12:22:43 | Weblog
昨日、写真の加工をしていたとき、ふと視線を動かしたら、
93年に北京から持って帰ってきたヨーグルトの瓶が目に入った。
いい口実だ。下に敷くものを編んだ。


当時、瓶を返却するといくらかお金が戻ってきたのだけど、
あまりに瓶がかわいらしかったので欲しくなり、持って帰ってペン立てにした。
もちろんヨーグルトもおいしかった。
当時、北京のヨーグルトは本当においしかったんだ。いまはどうだかわからないけど。
そして、あれ以来、ずっと私の机の上で活躍してくれている。

その後ろに飾ってあるのは、中学から大学にかけて飼っていた犬のリョウの写真。
93年の北京留学の際にも、この写真を持っていった。
うちに来たばかりの、生後約1ヶ月のときの写真で、
母に「すぐ大きくなっちゃうわよ」と言われ、あわてて撮ったものだ。
先日、写真立てがドリフのコントの家のように分解し壊れてしまったので、
いま、なんとなく表面上は組み合わせて使っている。新しい物を買わなければ。

でも、93年以来、このコンビはずっと私の机の上にいてくれるので、なんだかしのびない。
どんなに気持ちがざわついているときでも、
この2つのアイテムを見ると、スッと落ち着く。

『般若心経講話』(鎌田茂雄著、講談社学術文庫)を読み終わった。
般若心経は、たった262個の漢字で、ものすごくたくさんのことを伝えてくれる。
この境地からはまだまだほど遠いところにいるけれど、
この文字の羅列を見るとき、とても美しいと思うし、
漢字圏に生まれてよかったとも思う。
サンスクリットを読む人は、その文字の流れから、どんな印象を受けるのだろうとも思う。

怒るのも、むさぼるのも、私たちのこころ。
頭で考えるだけではなくて、自分のこころと向き合うこと。
自分のこころにあって、日々自分をむしばむ毒と付き合う勇気をもってこそ、
頭で考え導いた解も生きてくる。
そして、わからないことに出会ったときは、
無理に理由をつけたり、勝手にストーリーを作り上げるのでもなく、
ただ素直にわからないこととして接し続けることも、ときに必要だ。

オリジナル

2010-06-08 15:35:08 | Weblog
少し前に、酔っぱらって「どこからがオリジナルの作品か」という話をした。
これだけメディアが発達すると、どこかで見たことがあるような作品、というのをたくさん目にする。
絵にしても音楽にしても、知らず知らずのうちにまねてしまうことはあるし、
故意にまねて自分の作品として発表する人も出てくる。

でも、ふと立ち止まって「オリジナルの作品とは」と考えてみると、
なかなか万人を説得できるような定義をワンフレーズで言い切ることは難しい。

文字は偉大な発明だけど、誰でも使えるものであって、それ自体は「作品」ではない。
でも、いったん「書」として紙に書かれると、それは「作品」になる。
何人もの人が同じ文字を書いたとしても、ある人が書いたものは「作品」として認められ、
また、違う人が書いたものは「作品」とは呼ばれない。

数ある芸術の世界の中でも、
特に「書」の世界は、文字という記号をベースとしているだけに、
「オリジナル」の定義がとても難しいと思う。
作者を知らされていない「書」を前にして、
「これは、オリジナルの作品だと思いますか」と聞かれたら、
きっと私は、答えにつまる。
誰か有名な人の真筆である可能性があるのか、などと考え過ぎて、
「誰の作品だと考えられているのですか?」と逆に聞くだろう。

そう思うと、拡大解釈して、
中国では、長い歴史上「書」がひとつの芸術界を為してきただけに、
彼らが「オリジナル作品」について、少し違う感覚を持っていても、
ある程度はしょうがないのではないかと思えてくる。

それに、誰もが知っているような超有名な作品でもない限り、
「ボクは作品として認めるよ」「いやいや、ボクは認めないね」というローカルルールのもと、
いろいろな人がいろいろなところで転載したり、
もじって使ったりしはじめるのは防ぎようがないので、
本当に著作権保護されている作品かどうかも、次第にわからなくなってしまう。
別にコピーを擁護するわけではないし、悪質な海賊版は取り締まるべきだとは思っている。

王羲之の書をまねて書いた自分の文字を発表して、
たとえそれでお金を儲けたとしても、「オリジナル作品への冒とく」とは誰も言わないだろう。
でも「これが王羲之の蘭亭序の真筆ですよ」と偽って商売をするのは詐欺だ。
ああ、そうか。
要は、相手をだまして商売をする詐欺かどうかが問題なのかな。

食傷気味

2010-06-07 15:11:27 | Weblog
土曜日、大宮公園へ行った。


池のほとりを歩いていたら、鯉がわんさか寄って来た。
大口を開けながら迫って来る姿が、少し恐ろしかった。
いったい彼らの視力はどのくらいあるのだろう。
鯉の目から見たら、この世はいったいどんなふうに見えるのだろう。

氷川神社にお参りをしたので、きっと厄払いも完了した。
とはいえ、他人の気持ちの想像ばかりをしていたこの1ヶ月は本当に疲れた。
一番つらかったのは、
「あんなことを言っちゃって、きっとあの人、徐々にクールダウンしたいま、後悔してるんだろうな」
と思うことだった。

たとえお互いにゆるしあえたとしても、
「言ってしまった」という気持ちは言った人のなかにずっとのこるし、
「言わせてしまった」という後悔も言われた人のなかにのこる。
火は消えても、灰がのこる。
私は、記憶の表面からは消え去った過去の灰の中で生きているんだ。

だから、語り得ぬことは、語るべきではないんだろう。

日曜日の昼間、イタリア料理を食べにいった。
最近は、季節の野菜の塩ゆでがいちばん美味しいと思うけど、
たまにガッツリと食べるお肉もまたいい。


お腹いっぱいだったけど、夜、サラダを食べたら、胃の脂っこい感覚がおさまった。
食傷気味なとき、それをラクにする方法も、たくさんある。

もやもやする

2010-06-06 20:25:38 | Weblog
テレビで、日本のサッカー選手の対談をやっていた。
海外でプレーした経験のある有名選手の対談で、
海外と日本の違いや、これから日本がやっていくべきことなどが語られていた。

対談の内容を聞いてはいたものの、ほとんど身が入らなかった。

正直なところ、日本のトップ選手という人たちがこんな会話をするのか、と驚いた。
他のサッカー選手が聞いても、彼らが言っていることはすごいことと思えるのだろうか。
まだそんなに意識の差があるのだろうか。

今日の対談で語っていたような内容は、
海外に暮らしたことがあるような人なら、
誰でも自分のジャンルで語ることができるようなことだ。
プロレベルの話ではなくて、留学生の体験談に過ぎない。
正直、私はそう思った。

商社マンやメーカーの現地駐在の人は、無名だし、テレビですごい人扱いされることもないけど、
もっとずっと、日本と世界のあいだにある意識のズレをうめ、
利益を上げるべく、長いあいだ努力を続けている。
それこそ、サッカー選手などよりもずっと長い時間、その努力を続けているし、
そこでの体験談は、もっと深い。

そして、誰も彼らを持ち上げはしないなか、地道に努力している。
それでも打破できないほど、世界の壁は厚い。
今日の対談を聞いて、特にサッカー界は遅れているのかもしれないけど、
日本企業が海外に出て行けない理由の一端を見たような気持ちになった。

もっと広い世界を見る努力をしよう。
自分に対してそう思った。
なんだかすごく、もやもやした。

足りないもの

2010-06-06 19:48:56 | Weblog
今日、なにかが足りないと思った。
電車に乗っている約1時間かけて考えてようやくわかった。
梅干しが足りなかったんだ。

このところ、梅干しを食べていない。
そして、この時期になると、スーパーで売られている青い梅と赤じそが、
とてもとてもとても気になる。

今年はいよいよ漬けるか。やるか。
ちょっと出遅れたか。

母が元気なうちに、ちゃんと梅干しの漬け方を教わっておけばよかった。
梅の塩揉みと赤じそを茎から取る作業は私の役目だった。
塩揉みをした後、重石を置いて少し寝かせたよな。
あれ、氷砂糖を入れていたような記憶があるぞ。
あれは梅酒のほうか?
塩揉みして少し寝かせた梅に赤じそを加えた。
赤じそをむしった後は、手が赤紫に染まったっけ。
手伝っていた約20年前の記憶をよくよくたぐりよせてみよう。

そして、ネットで作り方を調べて、
むかしやっていた作り方に近いものでやってみよう。

今年は冷夏だと言うけど、日照時間はどうなのだろう。
1週間は昼間、お日様がちゃんと出てくれなければならない。
陰干しの期間も含め、約2週間ほど天気が安定してくれると、
とてもおいしい梅干しができる。

美味しいものができるかどうかは、やはりお天気次第なんだよな。

休日

2010-06-04 12:53:29 | Weblog
昨日の夕方、友人と「仙川湯けむりの里」に行った。
いろんなお風呂があって、ゆっくりと温泉気分を味わった。
この季節であれば、風がまだ涼しいし、帰り道も気持ちがいい。
近所に、こんないいところがあったのか。

マッサージは、ほとんどの場合、翌日に揉みかえしがきてしまうし、
マッサージをしてくれる人との相性もあって、
なかなかパーフェクトに満足できることがない。
それにマッサージは、他人に自分の痛みを引き受けてもらうものなので、
まず申し訳ないなあ、と思ってしまい、精神的には充足できることが少ない。

その点、温泉で身体をほぐすと、
特に翌日の朝、心身ともにスッキリしている。
ただ、温泉で身体をほぐしたあとに、深酒をしないことが前提だけど。

平日の夕方、地元の街を歩いていると、そこには普通の生活がある。
安定した地面がある。
久しぶりにイヌの散歩がしたくなった。

何が贅沢か、というのは人それぞれだけど、
欲しいものが近い人と一緒にいると落ち着く。

スクリーム

2010-06-03 00:31:12 | Weblog
アルピニスト野口健さんの講演を聴きに、世田谷区役所まで行った。
自民党の会だとは知っていたけど、入るために個人情報を書かされたのは、
非常に心外だった。
個人情報の取扱に対する説明もないないまま、
講演会に参加するために住所・氏名などを書かされるいわれはない。

ということで、野口さんの講演は面白かったのだけど、
「これじゃあ若い人の支持は得られないよ、自民党」と思わざるを得ない会だった。

参院選の前に、きっとうちにもじゃんじゃん電話が掛かってくるのだろう。
基本的に無視するけど、もし出てしまったら、かえってマイナス効果だよと言ってやろう。

小泉ジュニアや野口さんは、やはり大舞台での講演に慣れているせいか、
話しがとても上手だった。
政治もプレゼンテーションなんだなあ、と思った。

まあ、それはそれとして。

帰り道、桜上水の駅で、酔っぱらいの男性がホームから線路に落ちた。
たまたま通りかかった数人の男性が線路内に降り、落ちた男性を引き上げた。
そして、駅員さんが来たら、何も言わずに去って行った。
その瞬時のチームワークが素晴らしかった。

やはり日本はいい国だと思う。

外国では、見捨てられるか、お礼を強要されるか、
そこまで泥酔していたら追いはぎにあっても文句は言えない。
もしかしたら、金品だけではなくて、内臓までとられてしまうかもしれない。
それに酔っぱらった女性が、ふらふら一人で歩いて帰れるなんてすごく安全だ。

なのに、この閉塞感は何なんだろう。
閉塞感は、もしかしたら個人が勝手に作り上げてしまった牢屋なのではないだろうか。
もしかしたら日本の社会は、私が思っている以上に自由で気ままなのかもしれない。

そんなことを考え、マイケル・ジャクソンのScreamという曲を聴きながら帰路についた。
おもしろい一日だった。