宗谷公園です。
ちょっと離れたところに
ぽつんと彫刻があります。
高い台座にちょこんと胸像があります。
間宮林蔵顕彰碑
この地から間宮林蔵が樺太探検に出たとのことである。
作者不明。サインもなし。
石碑はあるのだが、摩耗しており、解読は厳しいです。
コーヒー豆の形をした記念碑。
津軽藩兵詰合記念碑
望郷之座石
説明文もあるのだが、文字起こしが面倒なので、稚内市のHPより。
幕府がここ宗谷に最初に派遣したのは津軽や会津等東北の藩士でした。悲惨を極めた派兵も文政4年(1821)に蝦夷地の幕府直轄が廃止されたことに伴い一応打ちきられましたが、その後安政2年(1855)に再び幕府から藩士が派遣されました。
しかし、この時代にはクワエヒル(ストーブの原型となったもの)が造られたり、フランケット(毛布)が使用されるようになったこともあり、妻子を連れて越冬できる程備えはできていたようです。
幕府が再び北辺の地で越冬を命じた時には、水腫病の予防薬として和蘭コーヒー豆が配給されたという記述が残されています。
この碑は、コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士たちを悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人たちに思いを馳せ、津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり建立したもので、平成4年(1992)9月に除幕されました。
中千島方面 戦没者慰霊碑
1945(昭和20)年、8月14日大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明(第二次世界大戦が終結)した。
戦時中、千島列島も米軍機の攻撃を受けていたが、ポツダム宣言受諾の了解をもって止み、日本軍も武装解除を行った。
1945(昭和20)年、8月11日、北緯50度線国境を侵犯してソ連の赤軍・第一極東軍が南樺太に侵攻する。
その後、8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍と交戦している。
この千島列島は日本軍により、北千島・中千島・南千島の3地区に分けてそれぞれに守備隊を置き、戦争末期には、北千島(占守島と幌筵島)は第91歩兵師団を中心に約2万3千名が守備についており、このうち占守島には第73旅団と戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約13000名が配置されていた。
8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側資料によると、ソ連側が1567名、日本側が1018名の死傷者。日本側資料ではソ連側が約3000名、日本側が約600~700名の死傷者を出したとされている。
その後もソ連軍の南下は続き、8月28日には択捉島、9月1日には色丹島、5日には水晶島が占領され停戦した。
これら千島を防衛した日本軍と成人男子の民間人は、シベリアへその後強制連行され(現・マガダン、ロシア連邦の都市でマガダン州の州都)最も過酷なコルィマ鉱山採掘労働・木材の伐採等に従事させられその殆どが無念の死を迎え、再び祖国の地を踏む事が無かった。
よく沖縄戦を国内最期の地上戦と記したものもあるがそれは誤りで、占守島をはじめとする千島列島、樺太の戦いが敗戦後にソ連の侵攻で戦われており、これが最後の地上戦となる。千島列島(北方領土)は未だに返還される事無く現在に至っている。
ちなみにこの慰霊碑は、1945(昭和20)年中千島に展開中の第四二師団が宗谷地区に転進してきた。司令部を稚内市に置き、宗谷要塞の砲台が火力を発揮するべく、第一ニ九連隊が円山・珊内方面に、第一三〇連隊は東浦から宗谷方面に配置されたことに由来するものであろう。
忠魂碑
鳥居があって
宗谷厳島神社
この木彫が北海道デジタル彫刻美術館に載っているので撮ってきた。
たぶん、ガラスで保護されている部分かと
宗谷公園
稚内市大字宗谷村字宗谷
すいません。いつも朝に更新しているのですが、更新したつもりでうっかり忘れていたようです。
夜の更新になりました。
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