宗谷会館 です。
宗谷会館と書いてあるけど、稚内市役所生活福祉部宗谷支所とのことです。
宗谷三百年 記念之碑
1984.8.6建立
敷地の角に
稚内市発祥之地
八十周年記念
江戸時代、1663(寛永10)年に最初の鎖国令を出した幕府は、諸国の商人にアイヌとの直接交易を禁止し、蝦夷地(現在の北海道)に入れるのは松前藩だけとしました。ここ宗谷に、松前藩の直轄地として宗谷場所が開かれたのはこの頃と考えられています。
18世紀後半になると、ロシアが交易を求めて蝦夷地にあらわれるようになります。その対策として、宗谷では津軽藩、会津藩が北方の警備に当たり、さらに幕府の銘をうけた庵原弥六、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵などがこの地を訪れています。
1879(明治12)年7月、戦後、1995(昭和30)年に宗谷村と稚内市は合併し、今日に至っています。
いまも宗谷には、宗谷護国寺跡、宗谷厳島神社、旧藩士の墓をはじめ貴重な文化財が残されています。
宗谷会館(稚内市役所生活福祉部宗谷支所)
稚内市宗谷村宗谷
宗谷小学校です。
開校百周年記念之碑
宗谷小学校開校百周年記念協賛会
平成4年8月23日
壁にレリーフがあります。
稚内市立宗谷小学校
稚内市宗谷村宗谷
間宮林蔵 渡樺出向の地の碑
間宮林蔵は2度にわたって樺太を探検しました。
第1回目は文化5年(1808年)4月13日(新暦5月8日)のことで、松田伝十郎とともに宗谷のこの地を出発。樺太のシラヌシに渡り、間宮海峡の存在を確認すると、閏6月20日(新暦8月11日)に、シラヌシから宗谷に戻ってきました。
第2回目の出発は宗谷帰着から23日後の7月13日(新暦9月3日)のことで、単身で渡樺した林蔵は6人のアイヌ人を雇い、西海岸を北上。トンナイでひと冬を過ごし、ノテトから交易に向かうニブブ族の一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻ってきました。
間宮林蔵の足跡は、村上貞助によって「北夷分界余話」、「東韃地方紀行」としてまとめられ、文化8年(1811年)、幕府に提出されました。この2冊は「樺太編」、「大陸編」というべきもので、「北夷分界余話」には樺太の地名や地勢、民俗が、「東韃地方紀行」には清国の仮府が置かれたデレンを中心としたアムール川下流地方の調査が報告されており、現在でも北方アジアを知る貴重な資料になっています。
稚内市教育委員会
此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建て部落のすべてが
毎年の祭を行えリ砦
は当時をしのぶ唯一のもの也
宗谷アイヌ 柏木ベン
樺太見えますか。
拡大↓
歌 碑
噫宗谷海峡
東海林義夫
暮色蒼然 俺樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡
還らざる
友の面影
偲びつヽ
宗谷岬に
一人佇む
この石碑は全くわからなかった。摩耗しすぎ。
とりあえず、石碑は全部撮ってこよう。
念法眞教開祖小倉霊現大僧正 日本最北端御巡錫記念碑
灯主の祈り
日本最北端の地碑は3回くらい訪れていますが、
こちらを撮り忘れておりました。
宗谷岬 音楽碑
「宗谷岬」音楽碑
黒御影石の碑面に歌詞と楽譜が刻まれているのは、ここ宗谷岬の春の光景を歌った郷土の歌「宗谷岬」です。地元で活動を続けてきた吉田弘が詞を作り、演歌歌手の船村徹さんが作曲しました。1976(昭和51)年にNHKの音楽番組「みんなの歌」で、ダ・カーポが歌う曲が全国に紹介されヒットしましたが、ほかにもボニージャックス、千葉紘子さん、芹洋子さんなど、多くの歌手により歌われてきました。「宗谷岬」は最果ての旅情を掻き立てる叙情歌として今も人々に歌い継がれています。
稚内市大字宗谷村字宗谷
稚内市立大岬小学校です。
北海道デジタル彫刻美術館に載っているので、撮ってきました。
壁面レリーフですね。
拡大
日本最北端の小学校です。
稚内市立大岬小学校
稚内市宗谷岬12-12
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます