ちょっと気になった事を、今日は書きます。
同業者のブログを読むことがありますが
言葉の言い回しで、
凡そ、その方の建物・設計に対する姿勢を
伺い知ることが出来ます。
その中に、気になった言い回しがありました。
お施主さんのご理解を頂き
という言い方・・・
例えば、
お施主さんのご理解を頂き、
とても良い住まいになりました~
みたいな。
この言い回しから、私が感じるのは、
お施主さんにとって、本当はよろしくない のですが
そこのところを理解していただいて
設計者のやりたいこと(意図、特にデザイン)を
実現することができました
と、その文言から読めるのです。
「ご理解」の裏側には、
どちらかと言えば、お施主さんにとって
「よろしくない」こと
が前提となっているからこそ、
「ご理解」を頂いて、
実行しているわけです。
そして、もっといけないのは
そういう言い方に潜む本質に、
当本人が全く気が付いていない こと。
無意識に使っている言葉にこそ、
実はかなり本質的なものが見え隠れしています。
(もちろん、私自身にも言えることです。
だからこそ、
ブログを書く意義があると思っています。
私はこんな人間です!
ということが、このブログでわかると思いまして。
拙いブログですが・・・)
もちろん、私も「ご理解を頂く」と使ったことはあります。
それは、建物に対してではなく、
私個人の事情をお施主さんに汲んで頂きながら
スケジュール的に設計の仕事をさせてもらうことが多いので、
「お施主さんにご理解いただきながら進めています」
という具合に
今までよく言ってました。
まだ気になることは色々あるのですが、
今日はここまでにします。
(ちょっと 怒り気味のワタシ)
追記です。(2011.12.12)
「理解」とは、辞書(広辞苑)によれば
①物事の道理のさとり知ること。
意味をのみこむこと。
物事がわかること。了解。
②人の気持ちや立場がよくわかること。
とあります。
「お施主さんにご理解を頂き、とても良い住まいになりました」
という文を言いかえれば、
A お施主さんに、建物の意味、道理をわかってもらったので、とても良い住まいになりました
もしくは、
B お施主さんに、(設計者の)気持ちをわかってもらったので、とても良い住まいになりました
となるでしょうか。
どちらにしても、
私にとっては この言動は不可解です。
(気持ちはわからなくもないですが)
多分、本人はたいして気にもせず、書いたと思われます。
(自分の書いた文章をすぐに撤回するくらいですから。)
政治家みたいです。
自分の言葉にすら責任を持てない。
この文を書かれた方は、知る限りまだ若い設計者です。
実務経験も浅い。
それを踏まえてこの文の真意を探ってみます。
【Aの場合】
お施主さんは建物の意味や道理を分かっておらず、
それを分かってもらえたから、とても良い住まいになった、
ということになります。
それでは、設計者はどうなのかといえば、
当然、
建物の意味や道理がわかっているのでしょう。
まあ、一般的に設計者は専門家であるのですから、
当然かもしれませんが、
専門家という立場からお施主さんに対して
完全に「上から目線」です。
お施主さんは、そんな馬鹿ではありません。
失礼です。
【Bの場合】
若い設計者ですから、
どちらかと言えば、Bの意味かもしれません。
僕の設計に対する想いをわかってもらったので、
とても良い住まいになりました。
と。
これじゃまるで、俺の提案通りにやれば、
こんなに良くなっただろう 的な、
高飛車な感じを受けます。自己満足。
そもそも「とても良い住まい」って、
一体だれが決めるのでしょうか。
そんな主観的な物の言い方があるものでしょうか。
良いかどうかは、
最終的にはお施主さんが暮らしてみて、
お施主さんが評価するものではないでしょうか。
設計者が自ら「とても良い住まい」だなんて。
傲慢すぎます。
せめて、「良い雰囲気になる」
ぐらいに留めておくべきではないでしょうか。
それにしても、この文章が
いかに主観的観点に立った文章か。
それも気になります。
主観的な観点であるのにも関わらず、
客観的な文章の体裁をしているので
不可解になるのです。
主観で物をいうのであれば、感想でいいのです。
それであれば、全く問題がないのです。
こういう主観的なものの言い方で
あたかも建物の価値を評価するかのような書き方は、
私にしてみれば、
思い上がりもはなはだしいのです。
さらに、「時が経っても価値の薄れない住まい」
などとも書いておりました。
なんじゃそれ
(雑誌社が書くのならまだわかりますが)
それは、
その建物に価値があるということが
が大前提の言葉。
自分の住まいに
誇りをもっているお施主さんに対して
建物の価値付けを
あたかも客観的にする設計者。
あきれてしまいます。
価値観は、とかく主観的なものです。
客観的に価値を述べるのであれば、
その内容を具体的に示すべきだと思います。
私は、少なくとも
もしかすると、一般的には価値がない
と思われる建物でも
お施主さんがなんとかして欲しい
と言われれば
なんとかする。
それが私達の仕事だと思っています。
(リフォーム、再生の場合ですが)
それがいろんな条件で
叶わなくても
トライしようとします。
だから
私達が、勝手に「良い住まい」だの「良い建築」だのって
一括するように建物を評価するなんて
おかしい。
評価するなら、きちんと理由を付けて評価しないと。
こういう未熟な設計者をみるたび
胸が痛むのです。
若い方が建築に対して
想いを持つことは良いことです。
でも、それと、
若かろうがなんだろうが
仕事をしている以上、「プロ」なのです。
自分の立場、
世間からの専門家としての立場、
会社組織の中での社員としての立場、
など
いろんな関係の中で
自分が活動していることを
まだ判っていないのでしょう。
最近の建築家・建築士に対する批判・意見を
読んでみると、
もっともだ と思うことがあります。
「理解不能」
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5bd03df374582ae7ef7267e4f0af7b11
「求められるのは実務者」
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/e56135a93f8bff9dcaca860ffc869aa0
「生活と現場を知らない困った設計者達」
http://homepage3.nifty.com/net-forum/honnne/honnelink/20031204.htm
だからこそ、
時に、同業者に向けて
私ですら、こうした意見を述べたくなるのです。
私のようなものが
本当は、こんな偉そうなこと
言えたものではないのですが
自分が感じたことを
今日は、思い切って書いてみました。
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