本日、住職が62歳の誕生日を迎えました。
実は最乗寺の住職・坊守・若坊守(私)・息子・犬、全員が獅子座の生まれです。
その点ではお婿さんの副住職(旦那)は、ちょっと肩身が狭いのかも…。
さて、普段の生活では余り考えることはないことですが、人間に生まれるということの稀少について、改めて思いを巡らせることのできる例え話が『増阿含経』という経典に説かれています。
あるとき、お釈迦さまが弟子に尋ねました。
例えば、大海の底に一匹の盲目の亀がいて、100年に一度、波の上に浮かび上がるとしよう。
その海には一本の流木が浮いていて、その木の真ん中に亀の頭が通るくらいの穴が一つ開いている。
100年に一度浮かび上がる盲目の亀が、この流木に空いた穴から頭を出すことが、一度でもあるだろうか?
それは無理だと弟子が答えると、お釈迦さまはこう返しました。
誰でもそんなことは全くありえないと思うだろう。
けれど、全くないとは言い切れない。
人間に生まれるということは、今の例えよりも更に有り得ないほど難しいことなんだ。
このお話は「盲亀浮木の譬喩」と言われているものです。
そして、この例え話の通り、有ることが稀であるということから「有り難い」という言葉ができたとされています。
これを現代風に直すと、10階から時計の部品をバラバラに落として、地上に着くとき、その部品が組み立てられて時計の形になっているくらいの確率とも言われていて、人間に産まれるということは、それくらいの確率が根底にあるのだそうです。
もうスゴイとしか言いようがありません。
それくらい、把握できないほどのあらゆる縁によって、人間は存在しているということ。
人は、ただ有るだけでも難しいということです。
そしてこの例え話は、仏法に遇うのは、人間に生まれるより更に難しいと続きます。
人間の心の中には、いろんなもので溢れています。
それは必ずしも綺麗なものばかりではなくて、満たされない心だったり、怒りだったり、自分中心の判断しかできない心だったり、愚かな自分であったり。
そういう自分であることを、自分一人で知ることはできません。
自分中心の心が見せるのは、いつだって自分の良い所と、悪い所の言い訳だから。
仏法に出遇うことで、あらゆる縁に触れることによって、そういう自分であったことに気づくことができる。
そして、あらゆる縁に生かされていた自分に気づくことができる。
だからこそ、「有り難い」という意味が分かるのではないでしょうか。
人間に生まれたことが、優れているという話ではなく、地獄行きの生き方しかできない人間だからこそ、出遇い難い仏法を聞くことができる…。
そのことが何より「有り難い」というお話です。
その有り難さを、私に味わせていただくご縁をくれた住職に、この上ない感謝の思いを捧げます。
お父さん、お誕生日おめでとう。