週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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過ちへの慰め

2010-08-09 00:00:18 | ひとりごと

あの日も、こんな焼けるような太陽と、抜けるような青空があったのだろうか…。

私の中の戦争は、いつだってモノクロで。
飛び散る粉塵や血しぶきさえも黒に染められて。

だから、現実味が全くない。

カラーの戦争は、原爆投下の映像と、沖縄の戦場だけ。
アメリカ軍が自国の成果を記録した、大きなきのこ雲は確かに色がついていた。

なのに、現実味は全くない。

あの日は、真夏の暑さに、太陽を見上げ、青空を仰ぎながら、流れる汗を拭いていた人もいるだろう。
そんなカラーの世界を生きていたはずなのに、一瞬にして世界をモノクロに変えてしまった兵器。
死の灰が降り、全身が黒く染められ、生死の判別が不可能なほどの状況を作り出す。

カラーのきのこ雲の下には、モノクロの現実が広げられていたはずで。
原爆の映像は、カラーであることが、現実味を奪っているような気にもなってくる。

だが、私が現実味を感じようが感じまいが、カラーの戦争とモノクロの世界があったことは現実であり。
その現実を生きた人が、今なお生きているということも、確かなこと。

あの日から、65年分の現実を生きてきて。
それでも、あの日の慰霊をし続ける。

モノクロの世界の中で、助けを求める呻き声に。
耳を塞ぎながら、通り過ぎてしまった後悔を、忘れることができないまま。
数え切れないほどの人々の、絶たれた命の重みを背負いながら。
65年という年月を、過ごすことの過酷さは、私になど想像すらできやしない。

きっと、亡き人々を「慰める」という行為は。
自らの後悔と戒めに、押し潰されそうな自分自身を慰め続けることでもあるのだろう。

「過ちは繰り返しません」

戦争の悲惨さを知る者は、決して繰り返してはならないと心に誓い、語り継ぐ。
けれど、戦争のリアルさを知らない者は、語り継がれた戒めが届かない。

「しょうがない」

その一言で、片付けられることのできる命も戦争もないというのに。
自国が、自分が、直接関わることのない命や戦争に対しては、その一言で片付けてしまえる私がいるということを。
他を責めることで、そんな自身の愚かさを知る。

カラーの戦争を私に見せたアメリカを、責めるだけではなく。
モノクロの戦争を映し続けた自国の愚かさもまた、知るべきことのはずだから。

そうしなければ、誰かのせいだと責めながら。
私たちは、自覚のないまま、過ちを繰り返してしまうだろう。

原爆という現実と共に、忘れてはならない過ちがたくさんあるのに。
その過ちが何であるのかが、分からない愚かな自分が、今は一番、怖い。