週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

掃除の季節

2010-11-22 01:00:55 | ひとりごと

落ち葉と追いかけっこの季節になりました。

午前と午後、竹箒や熊手やブロア(噴き出す風で落ち葉を集める掃除機具)を使って、境内のお掃除をしているのですが、後ろを振り返るともう落ち葉が…。
墓地は隣の林が切り拓かれたことで風当たりが強くなり、掃いた落ち葉が吹き付ける風に舞い上がって、なかなか上手く集らず…。

けれど、眺めはとっても良くなったので、思わず掃除の手を休めて携帯のカメラでパチリ。



墓地の頂上からの展望です。
遠くに武蔵小杉辺りの高層マンションが見えました。

有り難いことに、私は子供の頃から境内の動植物の移り変わりで、季節の移ろいを感じてきました。
桜の花に春を感じ、蝉の鳴き声に夏を感じ、銀杏の落下に秋を感じ、落葉した寒々しいイチョウの木に冬を感じる。
今もまた、落ち葉を掃きながら深まる秋と、冬の訪れを感じています。

しかし、ある布教師さんがこんな話をされたことを思い出しました。

私たちは桜の花を見て春が来たと思う。
同じように、蝉が鳴いたから夏が来たと思い、紅葉を見て秋が来たと思う。
だが、桜が咲くから春になるのではない。
蝉が鳴くから夏になるのでも、紅葉したから秋になるのでもない。

桜の花が咲くのは、春になったから咲くのである。
まず、春という季節となり、その結果に桜の花が開くのだ。

それは阿弥陀さまの私たちを救わんと立てた誓願にも言えること。
私たちが「どうか助けて下さい」と手を合わせて願ったから、阿弥陀さまが私たちを助けようと誓願を立てて、立ち上がって下さったわけではない。
「助けて下さい」と私たちが願うその前に、阿弥陀さまは私たちを救うために、どうすればよいのかをお考えになり、そうして誓願を立てられ、全ての生きとし生けるものを救いとって下さる摂取不捨の仏となられたのだ。

だからこそ、私たちが手を合わせ称えるお念仏は、「助けて下さい」と願うものではなく、「ありがとうございます」という感謝のお念仏になるのである。

私たちは、目に見えるものから状況を辿ることが常ではあります。
季節の移ろいを、動植物や自然現象をなくして感じることは難しい。
けれど、感じることはできなくても、そこにある自然の摂理を忘れてはならないのでしょう。

私もまた、見ることはできない摂理の中で生きる者。
そして、見ることはできない阿弥陀さまの救いの中に生きる者。
ホウキを握るこの手のひらは、欲望の成就を願うためにあるのではなく、秋になり紅葉し、落ちる木の葉を掃除できる今日という日を生かされていることを喜ぶためにある…。

そう思うと、なぜか不思議と手を合わせたくなる。
これが阿弥陀さまの「はたらき」をいただいているということなのかもしれない…そんな心温まること考えていても、落ち葉は一向に片付かないという現実が、今は少しばかり憎たらしい。