週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

お坊さんとして ①

2010-11-27 01:24:59 | 近況報告
先日、築地本願寺にて東青僧(【東京教区青年僧侶協議会】の略)の研修会に参加してきました。

暴れん坊で母親べったりの龍くんを置いて家を出るのは至難のこと。
今回は副住職に仕事の手を休めてもらい、昼寝中の龍くんを預けての外出になりました。

研修会のテーマは≪これからのお坊さんの姿≫。
ご講師は、龍谷大学や中央仏教学院で教鞭をとられている先生でした。

最初に【僧侶とは何か?】という導入があり、浄土真宗では【非僧非俗】という、僧でもなく俗でもない、そこを超えた立場を貫かれた親鸞聖人に倣う位置に私たちはいるということを明らかにされました。

では【僧侶と門徒の違いは何か?】という視点では、袈裟を着るか否かであり、逆に考えれば、それ以外の違いはないという真理を説かれました。
しかし、この真理は先生個人のお考えではなく、親鸞聖人が残された『教行信証』という文献の中で引用された文が元にあります。

お釈迦さまの説かれた仏法が時を経て、スカスカのエッセンスしか残っていない末法の時代においては、頭を剃って袈裟を着た名ばかりの僧侶しかいない。
例えば黄金が最高の宝であっても、それがなければ銀が宝になるし、それもなければ偽物だって宝になる。
同じようにお釈迦さまの説かれた宝のような教えが薄れれば、最後には名ばかりの僧侶も無上の宝になる。 
 (超意訳)

親鸞聖人がご存命の時代は既に末法の世。
更に深刻な末法の現代において、袈裟を身にまとった僧侶がすべき役目(というより、できること)は「仏法は無価(価をつけることができないほど貴い宝)である」ということを世に説いていくことだとのことでした。

「僧侶としてどうなんだ?」
「あんた、それでも坊さんか?」

ご門徒さんを始め、僧侶の行動に疑問を持たれた方が多く口にする言葉です。
それは批判や非難に通じる言葉。
しかし、こういう言葉をいただけるということは、僧侶がまだ期待を持たれている、こうあってほしいという願いがたくされている存在であるということの証である。
僧侶というものが許され、受け入れられている存在であるということの証拠である…そう先生はおっしゃいました。
そして、言われなくなったら終わりだとも…。

汗水流して、必死に田畑を耕し、作物を育てている者が、「自分が苦労をしている時に、あなたは托鉢しているだけで何をしているんだ?」とお釈迦さまに訪ねた。
お釈迦さまはその問いに答えられました、「人の心に種を蒔き、水を与え、育てている」と。

お釈迦さまのみ教えが薄れた末法の世であろうとも、袈裟を着ただけの僧侶であろうとも、すべきことの道筋は残っている…。
今の自分を顧みて、名ばかりの僧侶であることは間違いないが、人の心の中にある【福田】を共に耕し、そこから産まれる幸せを喜ひ合うことができたなら…そう考えながら先生のお話をうかがっていました。

                            (つづく)