週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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お坊さんとして②

2010-12-02 01:05:53 | 法話のようなもの

さて、お坊さんとして①の続きです。

続いてご講師は、「幸せとは何か?」について話されました。
そこで中心となったのが、阿弥陀如来の「智慧」と「慈悲」。
僧侶には聞き慣れていることでも、広く伝えるには難しいものですが、先生は

「智慧」とは「道理」
「慈悲」とは「愛情」

そう言い換えることができるといいます。

「智慧」とは「道理を明らかに見ること」
例えば、自分に良くないことが起きた時に、それを厄年や占いのせいにしてしまうこともあるでしょう。
駐禁やスピード違反で捕まったとき、警察に怒りを向けてしまうこともあるでしょう。
けれど、道理を明らかに見れば、目を背けていた本当の原因も分かるはず。

しかし、多くの人が道理などに目もくれず、自己中心の自分に都合の良い解釈で、物事を見ているのが現実です。
その現実に対して、「自分」というものがいかに曖昧であり、頼りにすることがいかに危険かということを、阿弥陀如来の智慧の光に照らし出されていくことで知らされていく…それが道理・真理に気づかされていくということです。

そして一方の「慈悲」には「愛されることで生まれる豊かな心」があるといいます。

今は「他を許せない時代」なのだそうです。
人を許せない、時には自分さえも許せない、その私を許してくださるのが阿弥陀如来の心。
それは具体的な罪を許してくださるのではありません。
私という1人の人間を、そのまま受け止め、受け入れてくださるということです。

慈悲とは上へと引き上げていく力ではなく、上から降りてくる力であり、自分こそが許されているという愛情に気づくことで、他の人の心へと近づく豊かな心が生まれていく。

阿弥陀如来の救いを、親鸞聖人は「自分ただ一人のためにある」と記されました。
それは「全ての人、その一人一人のためにある」ということと同意でもあります。
愛されている自分がいて、愛されている人々とのつながりの中で生きている。
その関わり合いの中で、気づかされる道理がある。

先生が辿りついた「幸せ」とは、阿弥陀如来の智慧(道理)と慈悲(愛情)の中に生かされていることであり、そのことに気づかされることでした。
そして、相手の幸せの中に、自分の幸せが投影していくなら…これ以上の喜びはないとも話されました。

さて、そんなこんなで、3時より始まった研修会は5時に終了。
外に出ると、すっかり日も暮れ、本堂はライトアップされていました。



築地まで龍くんと迎えに来てくれていた副住職と合流し、久しぶりの外食をしてこの日は終わり。
本当は僧侶の実践的なお話をありましたが、それは私が実践すべきことなので、今回は内緒ということで。