週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

十月十日の朝 (前編)

2011-03-30 02:00:37 | 法話のようなもの

   (3月12日のお経の会の法話より)

御讃題

   平等心をうるときは 一子地となづけたり
   一子地とは仏性なり 安養にいたりてさとるべし   
浄土和讃(92)


今、私には妊娠している友人が2人います。
そのうちの一人は妊娠9ヶ月で、もうすぐ臨月を迎えます。
もういつ生まれてもおかしくないので、とても大きなお腹になっている状態なのですが、フットワークの軽い友人なので、「今ヒマ?」と声を掛けると、運動がてらに1時間歩いて待ち合わせ場所に来てくれる、たのもしい妊婦さんです。

もう一人は妊娠6ヶ月。
お腹もまだまだ、それほど目立ってきてはいませんし、動きも軽やかです。

とても順調な経過を辿っている2人を見ていると、私も幸せな気分になってきます。
と同時に、自分が体験できなかった普通の妊娠生活を、友人で追体験をしています。

とゆうのも、実は龍くんを妊娠した際、私は切迫流産で入院し、絶対安静状態で耐えていました。
しかし力及ばず、結果、命の危険が危ぶまれるほどの早産となってしましました。
なので私は、寝たきりだったことも含め、自分のお腹が大きくなった状態を知らないのです。

だから、友人のお腹を触って大きさを確かめたり、ちょっと動きにくそうな様子を見ては、「妊婦さんて大変なんだなぁ」とか、「こんな大きな子を産むなんて大変だなぁ」と、とても子持ちの母親が考えるようなことではないことを思っては、世のお母さん方を尊敬したりしています。

さて、臨月間近の妊婦さんと、6ヶ月の妊婦さん。
この2人に会ってみて、その違いについて感じたものがありました。
それは、当たり前のことではありますが、母親となることへの現実感です。

例えば、妊娠したら産まれてくる赤ちゃんのために用意しておくものを、揃えていかなくてはなりません。
ベビーベッドや布団、肌着やタオルにガーゼ、オムツにお尻拭き、ベビーカーにチャイルドシート、挙げていけばきりがありませんが、それら一つ一つそろえては、新しい命の誕生に備えていきます。

しかし、6ヶ月くらいだと、用意するのは赤ちゃん用品ではなく、自分のマタニティ用品が優先されるくらいのときです。
臨月間近の友人も6ヶ月の頃は、今6ヶ月の友人と同じように、赤ちゃんのために必要なものを調べつつ、そのうち買い揃えていこうという、ゆったりした構えをしていました。
けれど全てを買い揃えた今、彼女は赤ちゃんを育てるというより、一人の人間のを世に生み出し育てるという、母親としての気概のようなものを感じるようになりました。
買い物は一例に過ぎませんが、いろんな過程を経て彼女の中で育ったものがあったのでしょう。

人間がお母さんのお腹の中で育つ期間を、十月十日と言います。
1月を4週と換算して10ヶ月、赤ちゃんはお母さんのお腹の中で大きくなっていきます。
しかし、育っているのは赤ちゃんだけではありません。
赤ちゃんを授かったことで、女性は母親として、男性は父親として、家族が繋がりあいながら10ヶ月の間、互いに育ちあうんだということを、私は友人を通して知ることができました。

しかし、十月十日の期間が与えれず、育ちきる前に現実感もないまま親になってしまった私たち夫婦のように、なきゃないで、なんとかしなくてはならない末に、なんとかなったというか、なんとかした例もあります。
だから、穏やかな妊娠・出産だけが全てではありませんが、大切なのは、自分自身がそうやって両親に育てられ、両親と育ち合ってきたということに、気づくということではないでしょうか。


           (続く)