週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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十月十日の朝 (後編)

2011-03-31 02:36:42 | 法話のようなもの

          (3月12日のお経の会の法話より・後編)


以前にもお話しましたが、「十月十日」、これを並べ替えると「朝」という漢字になります。

私たちは、お母さんのお腹の中から、朝日のような眩しい光に照らされて生まれてきました。
その光は、十月十日分の子を思う親の願いです。

幸せは、どこか遠くにあるものではなく、明日やその先に待っているものでもありません。
親が亡くなろうと、子が亡くなろうと、消えることのない光の意味を知るということ。
常に変わらず、私を照らし続けている光の元にある親の愛の存在を知るということ。

それが、この上ない幸せだということに気づける以上の幸せはないのではないでしょうか。

「私が親を思う時間より、親が私を思う時間のほうが長かったはず」
「子は親の愛を忘れてしまうといいますが、親はいつまでも子を大切に思い続けている」

私も親となって、全くその通りだったと、昔の自分が言った言葉に頷いたのですが、そのときと同じように、これが当たり前だと言えない現実が今もなおニュースなどで耳にします。
当たり前と思っていた親子の構造は、当たり前ではなく、有り難いものなのだと思える現実があります。
それは、同時に私に当たり前と思えるよう育ててくれた両親の存在が、なにより有り難いということに気づけた瞬間でもありました。

冒頭にいただいたご和讃は、すべての生きとし生けるもの、それぞれをただ1人の我が子と思い、愛しむ阿弥陀さまのお心を詠った和讃です。
自分が常に思われている存在であるということに気づくことで、感じられる暖かさがあります。
そして、十月十日の間にあった確かなつながりが、阿弥陀さまとの間にあり続けるという安心があります。

母となり、我が子を大切に思うということは、阿弥陀さまの私たちを愛しむお心を追体験することでもあると思っていました。
けれど実際は、我を通そうと大声を上げる龍くんに、イラっとしたり、キーっとなったりします。
それは嫌いになるのとは違いますが、やはり愛し続けることの難しさを考えたりもするようになりました。

私の親としての愛では、計り知ることのできない慈しみが阿弥陀さまのお心にはあります。
全身を照らし尽す、朝日にも似たの阿弥陀さまの光が、友人たちの赤ちゃんにも届いていることでしょう。

そんな幸せな余韻に浸りながら、友人とのランチを楽しんで帰ってくると、母からあるご門徒さんの訃報を聞きました。
その方は、お経の会を始めたことから参加してくださっていた方で、会が終わると「ダーリンに会いに行かなきゃ」と言っては、いそいそとお墓にお参りに行かれる可愛らしいおばあちゃんでした。

ご和讃には、「安養にいたりてさとるべし」とあります。
安養とはお浄土のこと。
「お浄土にいたったら、阿弥陀さまのただ1人の我が子へ傾けるかのような愛しみのお心を悟ることができるでしょう」ということです。
お浄土に往生すると、「弥陀同体」と言い、阿弥陀さまと同じ悟りをひらかれ、同じお心持ちで、私たち救わんと働きかけてくださるのです。

この娑婆世界に生まれる命があれば、お浄土に生まれる命もあります。
お浄土に生まれた命は、私たちをただ1人の我が子のように慈しみ、見守り、育てつづけて下さいます。
あの可愛らしいおばあちゃんもまた、今このときも、私たちを我が子のように愛しんでくださっていることでしょう。

本日はようこそのお参りでございました。