ネタを探しに境内をブラブラしていると、本堂の裏手に立派な蜘蛛の巣がありました。
(下に写真があるので、蜘蛛が苦手な方はここでブラウザバックしてください)
複数の蜘蛛で作られた直径2メートルはありそうな巣。
中央では大きな蜘蛛がお食事中でした。
ここに蓮池があれば、芥川龍之介の『くもの糸』のお釈迦さまの真似事ができたでしょうが、芸術的な蜘蛛の巣を壊すのは嫌なので、蓮池があっても私はカンダタへ糸を垂らすことはないでしょう。
小さい頃『くもの糸』を読んで、細い糸で人を救えるお釈迦様の凄さより、蜘蛛の巣を壊してはいけないという教訓めいたもののほうが印象深かったことを思い出します。
言い換えれば、蜘蛛を助けておけば地獄に落ちても救われるかもしれないという期待があり、よくよく考えれば小さな私は地獄に落ちる自分を想定していたことに驚きます。
我が身を省みればその想定は間違いではないと言えますが、物語の中での細い糸を垂らして人を試すようなお釈迦さまの慈悲の描かれ方は間違いだと今の私は言うでしょう。
「慈悲」という言葉には「憐み」「憐憫」の気持ちが伴うのが日本語での受け止め方のように思います。
けれど、古代インドのサンスクリット語にさかのぼった本来の解釈は、他の生命全てに対して平等の気持ちを持つこと、相手の幸福を望む心、苦しみを取り除いてあげたいという心をいいます。
特に慈悲の慈「マイトリー」は「友情」を意味する「ミトラ」が基にあります。
それは蓮池の描写のように、下から見上げ、上から見下す関係では生じえない。
上も下もなく、同じ目線で、同じものを見て、同じように感じる心を持つということです。
だからこそ、救わずにはいられない。
地獄に落ちる生き方をしていようとも、見捨てることなどできやしない。
同じ目線にたつからこそ、そう願わずにはいられなかった仏さまの本当の「慈悲」からは、切れてしまう糸を垂らされるときにはない暖かさを、感じることができるのではないでしょうか。
というような法話を、今度の土曜日のお経の会(午後2時から)でしようかなと思ったり。
それか落語会つながりで「三枚起請文」のお話をするか悩み中です。