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私の母と祖父母が眠る海雲寺は、意外と古いお寺だという事がわかったので、少し調べてみました。
3/21のお彼岸にお墓参りに行った時に写真を撮って来たので、一緒にご紹介します。
曹洞宗、龍吟山海雲寺は建長3年(1251)僧不山によって開基、はじめは庵瑞林といい、海晏寺境内にあって臨済宗であった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕(ぶんがいそこう)大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になったもので、ご本尊十一面観音菩薩を安置し、ご尊像は建長3年創立当時、仏師春日の作といわれている。海雲寺略縁起(http://kkubota.cool.ne.jp/heizojizo.htmより引用)
海雲寺には品川区指定有形民俗文化財千躰荒神堂奉納扁額と平蔵地蔵という見所があります。
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入って右側奥に本堂があり、本尊十一面観音像があり、手前左側が荒神堂です。今まで奥がお寺で手前が神社、という感覚でしかなかったのですが、立て看板を読むとなかなかすごいものだったので、びっくりです。
しかし写真をご覧になるとわかるように、格天井(ごうてんじょう)の龍の絵はかすれてよく見えない状態で、保存状態がいいとはいいがたい。。。ガラスに彩色された貴重な鶏図も、どれどれ?これ??って感じです。。。
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平蔵地蔵のお話は、ちょっと悲しいお話です。写真の「平蔵地蔵の由来」より
江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた3人連れの乞食がいた。その一人平蔵は、ある日多額の金を拾ったが、落とし主を探し、当然の事として金を返し、お礼の小判を断った。その事を知らされた仲間の者は、金を山分けにすれば三人とも乞食をやめて暮らせたのにと腹を立てて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍は平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに医師の地蔵尊をたて、ねんごろに供養し続けた。
明治32年10月、京浜電車が開通する事になったが、あいにくその線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職横川得諄和尚が、菩薩のような功徳の君子平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと願望して、当寺境内に移してもらい回向した。
いつの世も人は利害得失を先とし、他人の迷惑を考えず金銭のために大切な人の命さえとる者がいて憂慮に耐えない。誠心で浄く正しい平蔵の心に感銘し、その死後報恩感謝供養の誠をつくした若い侍の経験な態度にも教え導かれるものがある。物足りて心貧しい今日、得諄和尚の主旨に生きる法孫として、かねてより多くの人々が平蔵地蔵尊にあやかり浄く正しい心で和平な日々を送って明るい社会づくりに役立たん事を願っていた。
たまたま篤信者あり平蔵地蔵尊の信仰こそ、荒んだ人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので、海雲寺並びに荒神王を参詣する総ての人にお参りいただくため本尊前庭に移し奉安することとなった。ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。
南無地蔵願王尊伏して願わくは尊像を拝し奉る我らを憐慇せられ誠実な心、健全な体もて世のため人のためにつくせる力を与えたまえ。
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鐘楼です。
東海道品川宿も、開発の波に襲われています。周囲には建設反対の立て看板が立ち並びますが、すでに大型マンションが竣工していました。ガラスのパブリックスペースは、建築自体は美しいと思うのですが、海雲寺から見える景色はなんとなくミスマッチで、シュールな感じがしてしまいます。
お地蔵様になった平蔵さんは、この立派な建物を見て、何を思っているのでしょうか?