Sakita Blog

1級建築士事務所Sakita Space Design主宰
崎田由紀のブログ。

暴走老人!

2008-06-10 18:41:31 | 本と雑誌
暴走老人! 暴走老人!
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2007-08

友人が面白かったと言うので、図書館で借りて読みました。
若者による殺人等の凶悪事件は1958年をピークに減少し、高齢者の犯罪が増えている、、、という本なのだが、6/8、25歳の若者による凶悪犯罪が秋葉原で起こってしまった。
しかし、この本を読んでいくと、年齢とは関係なく、現代社会が抱える、「時間」「空間」「感情」の問題がうきぼりになってくる。
「時間」感覚では、いままで私が不思議に思っていた、何故人は歳を取ると時間が早く経過するように感じるのだろうか?という謎が解明された!
p65「10歳の子どもにとって1年は全人生の1/10だが、20歳の青年にとっての1年は全人生の1/20になる。よって1年は、その人の人生の分母である年齢によって感じ方が変わってくる。1/10より1/20の方がバイの早さに感じられるというのは、当然だと言う理屈である。」p67「私たちの体内に流れる時間は、時計の時刻として表示される時間とは一致しない。体内時間は代謝の速さに対応している。それはおおざっぱに酸素消費量である。酸素消費量が多ければ速い。この酸素消費量は脈拍数から推測できる。高齢者の脈拍数は毎分50程度、一方子どもは70くらいだという。この差は体内時計の差になる。つまり高齢者の方が子どもより体内時計の進み方が遅い。体内時計が遅いと、現実の時間が早く感じられる。逆に子どもは体内時計が早く進むため、現実の時間を遅く感じる。」なるほどお。。そうだったのかあ。
そして、この時間がどんどん過ぎていく感覚が、待たされることに非常にナーバスにさせるというのだが、、、。それはどうなんだろうね?時間がどんどん過ぎるなら、長い時間待っていても、あっという間に感じるのでは???こんがらがります。
また、「時間」では、ネット社会についてもふれています。メールが普及し、時間に関しての感覚が個人所有の資産のような感じになってきてしまい、相手の時間を侵すことに、現代人は非常にナーバスになっている。その中で相手の時間に割り込んでくる高齢者、逆に、自分の時間に介入されることでキレてしまう高齢者が多いのではないか、と。これは年齢とは関係なく、社会全体にその傾向があるのではないか?メール世代の私は、電話が非常に苦手である。相手はいつ在宅しているのだろう?今かけて迷惑ではないか?そう思うと、電話したくなくなるし、相手に都合の良い時間は自分が忙しかったり、、、。情報はストックさせておいて、都合の良い時に発信し、都合の良い時に受信したい。「時間」というモノがとてもプライベートな管理可能なものとして認識されているので、電車が遅れるとか、不手際で待たされる、という事態に対して、過剰反応しがちなのかもしれない。常にイライラしている現代人は、この自分の時間は自分で管理できる自分だけのもの、という考え方によるのではないか?
「空間」では、現代人がとてもテリトリー意識が強くなっていて、それを巡るトラブルが増えているのではないか?と。ちょうど私たちの世代よりちょっと上あたりから、子どもが勉強に専念できるように、と子供部屋を与えられている。仕事場でも昔のように机で島を作って、、、という形から、パーティションで仕切った個人スペースで仕事をする、、、という流れになっている。電車でも、ヘッドフォンをしてしまえば、自分空間ができてしまい、目に見えないバリアがはられる。こうしてなるべく他者とは接触しないように、、、というのが現代社会のような気がする。たしかにそうやってテリトリーを作って閉じこもれば、その中は自分の気に入るように構成できて、快適かもしれない。けれど、やっぱり、人とつながっていたい、、、人間ってそういうものじゃないのかなあ?とも思う。自分を尊重するため、相手も尊重して、お互い距離を置いて、なるべく干渉しないように、、、という現代社会の考え方は、はたして農耕民族の日本人に適していたのだろうか?平均的な能力のある成人であれば、それはとても快適かもしれないけれど、自分で自分のテリトリーを守り、実行できない弱者には、みんながバリアをはってその中から飛び出さない社会と言うのは、生きづらい環境になってしまうのではないか?そうして。一人暮らしの高齢者が、孤独に生きていて、他者と関われない生活の中で、鬱積をつのらせ、暴走する、、、。

今回の秋葉原の犯人は25歳の若者だけど、詳しい情報を見ている訳ではなく、新聞記事を読んだだけだけれど、とても孤独な人だったのでは?と思ってしまった。
友達がいなかった訳ではないというけど、どのくらい深い友達だったのだろう?
お互い尊重し合って、近寄らない、踏み込まない関係であったら、友達がいても孤独は変わらないだろう。
彼が誰かに必要とされていると感じられたら、こんなひどい事件はおきなかったのではないか?

現代の働き方にも問題があるような気がする。派遣社員がコストが安いからと言って、入れ替わり立ち替わりの人材を、あたかも機械の部品のように使い捨てていく働かせ方は、人間を人間とみなしていない。
昔の、家族のような会社、世話好きのおばさんが縁談を持ってきたり、上司にお酒につき合わされたり、運動会や慰労会の旅行があるような会社。
昔々、農作業を一緒にやっていた「ムラ」の役目を担う「会社」。
そんなのは旧態依然。うっとうしい。仕事だけやればいい。。。というのが今の主流だけど、人生の大半を過ごす職場に、コミュニケーションがなくていいのだろうか?

ちょうど、事件と、本がリンクして、とりとめもなくいろいろと考えてしまった。。