4日は立春。立春とはいえ「春は名のみの・・・」である。
ところで、この歌の題名が「早春賦」というのは誰でも知っているが、作詞・作曲が誰なのかはあまり知られていない。
岩波文庫 『日本唱歌集』 で調べてみたら、作詞・吉丸一昌、作曲・中田章ということがわかった。
歌詞は次の通りである。
1、春は名のみの風の寒さや/ 谷の鶯 歌は思えど / 時にあらずと 声もたてず/ 時にあらずと 声もたてず
2、氷解け去り葦は角ぐむ/ さては時ぞと 思うあやにく / 今日もきのうも 雪の空/ 今日もきのうも 雪の空
3、春と聞かねば知らでありしを/ 聞けば急かるる 胸の思いを / いかにせよとの この頃か/ いかにせよとの この頃か
作詞者の吉丸一昌とはどのような人だったのだろうか。ネットで調べたら次のようことがわかった。
明治6年大分県臼杵市の生まれ、旧制大分中学から五高に進み、そこで教鞭をとっていた夏目漱石、湯原元一、小泉八雲ら
と出会う。一昌の進路はここで決定づけられ、東京帝国大学国文科へと進む。
卒業後、府立三中(現両国高校)の教師となったが、五高時代の恩師・湯原元一が東京音楽学校(現東京芸術大学)の校長
に就任するや、同校の教授に迎えられた。また、文部省からは、「尋常小学唱歌」、いわゆる文部省唱歌の編纂委員と作詞主任
に任命され、唱歌の編纂作成に当たった。その間、童謡運動の先駆けとなる 『新作唱歌』(全十巻)を発表するなど精力的
に活動したが、大正5年、43歳で急逝した。
「早春賦」は、大正元年、一昌が信濃教育会の夏季講習に講師として招かれたときに歌唱指導用として作詞したもので、
同僚の中田章・東京音楽学校助教授が作曲を担当した。以来90年余、この歌はずっと日本人に歌い継がれている。
長野県大町市や穂高町には「早春賦」の歌碑がある。
ところで、この歌の題名が「早春賦」というのは誰でも知っているが、作詞・作曲が誰なのかはあまり知られていない。
岩波文庫 『日本唱歌集』 で調べてみたら、作詞・吉丸一昌、作曲・中田章ということがわかった。
歌詞は次の通りである。
1、春は名のみの風の寒さや/ 谷の鶯 歌は思えど / 時にあらずと 声もたてず/ 時にあらずと 声もたてず
2、氷解け去り葦は角ぐむ/ さては時ぞと 思うあやにく / 今日もきのうも 雪の空/ 今日もきのうも 雪の空
3、春と聞かねば知らでありしを/ 聞けば急かるる 胸の思いを / いかにせよとの この頃か/ いかにせよとの この頃か
作詞者の吉丸一昌とはどのような人だったのだろうか。ネットで調べたら次のようことがわかった。
明治6年大分県臼杵市の生まれ、旧制大分中学から五高に進み、そこで教鞭をとっていた夏目漱石、湯原元一、小泉八雲ら
と出会う。一昌の進路はここで決定づけられ、東京帝国大学国文科へと進む。
卒業後、府立三中(現両国高校)の教師となったが、五高時代の恩師・湯原元一が東京音楽学校(現東京芸術大学)の校長
に就任するや、同校の教授に迎えられた。また、文部省からは、「尋常小学唱歌」、いわゆる文部省唱歌の編纂委員と作詞主任
に任命され、唱歌の編纂作成に当たった。その間、童謡運動の先駆けとなる 『新作唱歌』(全十巻)を発表するなど精力的
に活動したが、大正5年、43歳で急逝した。
「早春賦」は、大正元年、一昌が信濃教育会の夏季講習に講師として招かれたときに歌唱指導用として作詞したもので、
同僚の中田章・東京音楽学校助教授が作曲を担当した。以来90年余、この歌はずっと日本人に歌い継がれている。
長野県大町市や穂高町には「早春賦」の歌碑がある。