私たちは「民主主義」という言葉をあまりにも安易に使いすぎていないだろうか。メディア自身が「民主主義=利己主義」と思い込んでいないだろうか。
人間は誰でも、多かれ少なかれ利己主義的存在である。人間に限らず、生き物が、そう考える能力があるか否かはわからないが(人間以外の生き物に思考力があるか否かは証明されていないので)、少なくとも人間は自らの思考力に従って主張したり行動したりする。例えば、神奈川県相模原市の老人介護施設で多くの認知症患者を殺害した犯人にしても、彼は彼なりの「正義感」で殺人行為を行ったのかもしれない。あるいは、かつて市ヶ谷の自衛隊基地で自衛隊員に決起を促し、自衛隊員から嘲笑を浴びて割腹自殺した文豪・三島由紀夫氏も、彼なりの強い「正義感」があってのことだったのかもしれない。
問題は、個人の正義感と、自分が属する正義が乖離した場合だ。最近の例でいえば、神戸市東須磨小学校で行われた信じがたい「組織的正義感」の発露としてのいじめ行為がある。主犯格の40代女性教師が「教育のために可愛がったつもりだった」という感覚が通用したのは昔の話だ。「可愛がる」という行為が許されれば、可愛がり方はどんどんエスカレートしていく。「可愛がり方」が問題にされるようになったのはスポーツの世界だ。「暴力指導」が「育てる行為」として容認されてきたことが社会的問題になったためだ。
問題は「組織のため」という行為がいまだ許容されていることだ。かつてロッキード事件が世間を騒がしたことがあった。この事件について詳細をこの稿で語るつもりはないが、主役の一人である全日空の若狭社長は罪には問われたが、社内では「会社のためにやったことだ」と、かえって若狭氏の人望は高まったという。バブル経済時代、住友銀行の頭取で、「住銀のドン」と呼ばれた磯田頭取は「向こう傷は問わない」と部下を叱咤激励をした。私が磯田氏にインタビューした時、その意味を問うた。「向こう傷は問わないといっても、利益を上げるためなら何をしてもいいというわけではないでしょう。どこまでが許容できる範囲の向こう傷なのですか?」。磯田氏は一瞬返事に困ったような顔をしたが、「それは住銀マンとしてのモラルの範囲内でしょう」と答えた。いまかんぽ生命の保険販売で、郵便局員は局員としてもモラルの範囲内で「押し売り」をしてきたのだろうか。関西電力経営陣の不祥事も、相当善意に解釈したとして、「会社のためにやむを得なかった」と言いたいのかもしれない。
「組織のためなら許される」――そうした感覚の時代がいつまで続くのだろうか。前回のブログで、読売新聞が社説で「水道や電気より新聞のほうが重要」と主張したことを批判した。人は水や電気がなければ生きていけない。水や電気がなくても新聞さえあれば生きていけるというなら、台風15号や19号で生死の境をさまよった避難民のために、「電気も水も作れる新聞紙をまず作ってからにしろ」と言いたい。メディアが民主主義を守るための大切な砦でなければならないことは私も否定しない。で、かつて戦時中、メディアは民主主義を守る砦としての義務と責務を果たしたのか。むしろ率先して民主主義を破壊するための大きな役割を果たしたのではなかったか。政府に媚を打って宅配の新聞だけ軽減税率の対象にしてもらって、果たして政府に逆らうことができるのか。
言っておくが、私は何も政府に逆らうことが民主主義だとは思っていないし、時には政府の政策をバックアップする必要があることもわかっている。が、例えば小泉総理の郵政改革の時もろ手を挙げて支持したメディアは、なぜ今かんぽ生命の不祥事が生じたのか、小泉郵政改革時にメディアはどういうスタンスで報道をしたのか、その結果が郵便局員の詐欺まがいの「押し売り」を生んだことをなぜ正直に反省しないのか。それで「民主主義の砦」などと大きなことがよく言えたものだ。
盗人猛々しい読売新聞と比べたら、朝日新聞はまだましなのか。朝日は19,20日に全国世論調査を行い、その結果を22日の朝刊に掲載した。その記事の冒頭で朝日はこう書いた。
「安倍政権が10月に消費税率を10%に引き上げたことに『納得している』は54%で、『納得していない』の40%を上回った。食料品などの税率を(※えっ、食料品だけ?)8%に据え置いた軽減税率を『評価する』は58%、『評価しない』は33%だった」
ふざけるなよ、軽減税率の対象は食料品だけではない。「食料品など」とはどういう意味だ。食料品以外の軽減税率対象商品は宅配(定期購読)の新聞だけだ。「など」とは食料品以外にもいろいろあることを意味する表現だ。食料品以外に軽減税率の対象が1種類しかなかったら「など」とは書かない。軽減税率について世論調査をするなら、「宅配の新聞は軽減税率の対象になって、水道代や電気代が対象にならなかったことについてどう思うか」と、なぜ質問しなかったのか。ま、読売と朝日のどちらが盗人猛々しいかは、国民が判断すればいいことだが、政府におねだりして甘い汁を吸った新聞が民主主義の砦になれるかどうかは、中学生でもわかることだ。
【追記】経済学者の竹中平蔵氏が22日配信のプレジデント・オンラインで元財務官僚の高橋洋一氏の異説を激賞した。日本の財政赤字1000兆円は問題にする必要はないというのが高橋氏の説で、その根拠は「純資産」がプラスかマイナスかを根拠に考えるべきだという説である。高橋氏は数学者で、経済学の専門家ではない。それはそれで異分野の専門家が従来の説に異論を唱えることは悪いことではない。問題は経済学の専門家の竹中氏がころりとだまされたことだ。高橋氏の「純資産」論は、総資産マイナス総負債が純資産で、日本の財政は総負債は約1000兆円あることは間違いないが、総資産も430兆円あり、差し引き純資産はマイナス570兆円に過ぎない。この程度のマイナスなら日本経済の底力から考えて問題にするほどでなく、だから増税の必要はない、という説だ。
数字のプラス・マイナスを基準に考えれば、高橋氏の説はあながち間違いとは言えない。問題は負債は借金(大半が赤字国債)であり、これは返さなければならず踏み倒すことはできない。一方資産は有価証券など換金可能な資産を除けば、換金して借金の返済に充てることができないものが多いということだ。例えば「国道」。これは国の資産のうちかなりを占めているが、財務諸表上は資産として計上されていても借金の返済に充てることは不可能だ。国道を売却すれば、その分借金を減らすことは理論上可能だが、さて国道を切り売りしたらどうなる? せっかく「純資産=総資産―総負債」という新設を提案するなら、「総資産=換金可能な資産」「総負債=返済する必要のない負債」と振り分けて計算してほしかった。ま、学者の能力とはこんな程度だということが分かっただけで私は快感を覚えた。
人間は誰でも、多かれ少なかれ利己主義的存在である。人間に限らず、生き物が、そう考える能力があるか否かはわからないが(人間以外の生き物に思考力があるか否かは証明されていないので)、少なくとも人間は自らの思考力に従って主張したり行動したりする。例えば、神奈川県相模原市の老人介護施設で多くの認知症患者を殺害した犯人にしても、彼は彼なりの「正義感」で殺人行為を行ったのかもしれない。あるいは、かつて市ヶ谷の自衛隊基地で自衛隊員に決起を促し、自衛隊員から嘲笑を浴びて割腹自殺した文豪・三島由紀夫氏も、彼なりの強い「正義感」があってのことだったのかもしれない。
問題は、個人の正義感と、自分が属する正義が乖離した場合だ。最近の例でいえば、神戸市東須磨小学校で行われた信じがたい「組織的正義感」の発露としてのいじめ行為がある。主犯格の40代女性教師が「教育のために可愛がったつもりだった」という感覚が通用したのは昔の話だ。「可愛がる」という行為が許されれば、可愛がり方はどんどんエスカレートしていく。「可愛がり方」が問題にされるようになったのはスポーツの世界だ。「暴力指導」が「育てる行為」として容認されてきたことが社会的問題になったためだ。
問題は「組織のため」という行為がいまだ許容されていることだ。かつてロッキード事件が世間を騒がしたことがあった。この事件について詳細をこの稿で語るつもりはないが、主役の一人である全日空の若狭社長は罪には問われたが、社内では「会社のためにやったことだ」と、かえって若狭氏の人望は高まったという。バブル経済時代、住友銀行の頭取で、「住銀のドン」と呼ばれた磯田頭取は「向こう傷は問わない」と部下を叱咤激励をした。私が磯田氏にインタビューした時、その意味を問うた。「向こう傷は問わないといっても、利益を上げるためなら何をしてもいいというわけではないでしょう。どこまでが許容できる範囲の向こう傷なのですか?」。磯田氏は一瞬返事に困ったような顔をしたが、「それは住銀マンとしてのモラルの範囲内でしょう」と答えた。いまかんぽ生命の保険販売で、郵便局員は局員としてもモラルの範囲内で「押し売り」をしてきたのだろうか。関西電力経営陣の不祥事も、相当善意に解釈したとして、「会社のためにやむを得なかった」と言いたいのかもしれない。
「組織のためなら許される」――そうした感覚の時代がいつまで続くのだろうか。前回のブログで、読売新聞が社説で「水道や電気より新聞のほうが重要」と主張したことを批判した。人は水や電気がなければ生きていけない。水や電気がなくても新聞さえあれば生きていけるというなら、台風15号や19号で生死の境をさまよった避難民のために、「電気も水も作れる新聞紙をまず作ってからにしろ」と言いたい。メディアが民主主義を守るための大切な砦でなければならないことは私も否定しない。で、かつて戦時中、メディアは民主主義を守る砦としての義務と責務を果たしたのか。むしろ率先して民主主義を破壊するための大きな役割を果たしたのではなかったか。政府に媚を打って宅配の新聞だけ軽減税率の対象にしてもらって、果たして政府に逆らうことができるのか。
言っておくが、私は何も政府に逆らうことが民主主義だとは思っていないし、時には政府の政策をバックアップする必要があることもわかっている。が、例えば小泉総理の郵政改革の時もろ手を挙げて支持したメディアは、なぜ今かんぽ生命の不祥事が生じたのか、小泉郵政改革時にメディアはどういうスタンスで報道をしたのか、その結果が郵便局員の詐欺まがいの「押し売り」を生んだことをなぜ正直に反省しないのか。それで「民主主義の砦」などと大きなことがよく言えたものだ。
盗人猛々しい読売新聞と比べたら、朝日新聞はまだましなのか。朝日は19,20日に全国世論調査を行い、その結果を22日の朝刊に掲載した。その記事の冒頭で朝日はこう書いた。
「安倍政権が10月に消費税率を10%に引き上げたことに『納得している』は54%で、『納得していない』の40%を上回った。食料品などの税率を(※えっ、食料品だけ?)8%に据え置いた軽減税率を『評価する』は58%、『評価しない』は33%だった」
ふざけるなよ、軽減税率の対象は食料品だけではない。「食料品など」とはどういう意味だ。食料品以外の軽減税率対象商品は宅配(定期購読)の新聞だけだ。「など」とは食料品以外にもいろいろあることを意味する表現だ。食料品以外に軽減税率の対象が1種類しかなかったら「など」とは書かない。軽減税率について世論調査をするなら、「宅配の新聞は軽減税率の対象になって、水道代や電気代が対象にならなかったことについてどう思うか」と、なぜ質問しなかったのか。ま、読売と朝日のどちらが盗人猛々しいかは、国民が判断すればいいことだが、政府におねだりして甘い汁を吸った新聞が民主主義の砦になれるかどうかは、中学生でもわかることだ。
【追記】経済学者の竹中平蔵氏が22日配信のプレジデント・オンラインで元財務官僚の高橋洋一氏の異説を激賞した。日本の財政赤字1000兆円は問題にする必要はないというのが高橋氏の説で、その根拠は「純資産」がプラスかマイナスかを根拠に考えるべきだという説である。高橋氏は数学者で、経済学の専門家ではない。それはそれで異分野の専門家が従来の説に異論を唱えることは悪いことではない。問題は経済学の専門家の竹中氏がころりとだまされたことだ。高橋氏の「純資産」論は、総資産マイナス総負債が純資産で、日本の財政は総負債は約1000兆円あることは間違いないが、総資産も430兆円あり、差し引き純資産はマイナス570兆円に過ぎない。この程度のマイナスなら日本経済の底力から考えて問題にするほどでなく、だから増税の必要はない、という説だ。
数字のプラス・マイナスを基準に考えれば、高橋氏の説はあながち間違いとは言えない。問題は負債は借金(大半が赤字国債)であり、これは返さなければならず踏み倒すことはできない。一方資産は有価証券など換金可能な資産を除けば、換金して借金の返済に充てることができないものが多いということだ。例えば「国道」。これは国の資産のうちかなりを占めているが、財務諸表上は資産として計上されていても借金の返済に充てることは不可能だ。国道を売却すれば、その分借金を減らすことは理論上可能だが、さて国道を切り売りしたらどうなる? せっかく「純資産=総資産―総負債」という新設を提案するなら、「総資産=換金可能な資産」「総負債=返済する必要のない負債」と振り分けて計算してほしかった。ま、学者の能力とはこんな程度だということが分かっただけで私は快感を覚えた。
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