今日のブログは読者から相当、反発されると思う。そのことを百も承知で、やはり書いておくべきだと思うので書く。
実は、この問題は、ブログを書けなかった間にいくつかのメディアには電話で話した。理解してくださった方もおられたし、理解力ゼロ(私の独断と偏見)の方もいた。
まだこのブログのタイトルは考えていないので、どうなるかわからないが、ダブる可能性はあるが「マララさんのノーベル平和賞受賞を、私はいま素直には喜べない」と申し上げた。
実は私がマララさんの活動を詳しく知ったのは今年1月8日。NHKが『クローズアップ現代』で彼女を取り上げたからである。
今年、マララさんと一緒にノーベル平和賞を受賞したインドのカイラシュ・サティーアーティ氏のことは、受賞して報道されるまで全く知らなかった。彼はインドで強制労働に従事させられている児童を解放し、教育の機会を作ってきた運動をしてきた人権家だという。そのカイラシュ氏のことはメディアは受賞するまで全く取り上げなかったが、なぜか谷垣前総理がノーベル平和賞の候補になっているらしいことは報道で知っていた。悪い冗談だ、と思った人も少なくなかっただろう。1月9日、私はこう題したブログを投稿した。
「マララさんにノーベル平和賞を今年こそ」の声を日本から世界に向かって発信しよう。
その書き出しの部分を転載する。
「昨夜7時半、NHKの『クローズアップ現代』を見た。涙をこらえきれなかった。見た直後、日本から「マララに今年こそノーベル平和賞の声を世界に発信を」と読者に呼びかけたいと思い、とりあえず資料だけ集めておこうと放送直後に「マララ」で検索をかけた。驚くべきことにすでに無数の書き込みがされていた。多くは同感した女性の書き込みだったが、男性の書き込みも少なくなかった。私がこの記事を投稿する時には書き込みは1000をはるかに超えているのではないか。
今年マララさんは17歳という若さでノーベル平和賞を受賞した。が、昨年、マララさんがノーベル賞を受賞できなかった理由がクリアされての受賞だったのか。マララさんが昨年、受賞できなかった理由は、若すぎるということと活動歴がノーベル平和賞受賞に相当するには達していないということだった、はずだ。
では、この1年でマララさんは何歳年をとったのか。16歳が若すぎて、17歳
なら若くないということか。それともマララさんはこの1年で年齢が一気に40代になったとでもいうのか。また、この1年間でマララさんはノーベル平和賞の受賞に相当するだけの活動をしてきたというのか。だとしたら、この1年間のマララさんの活動のどの部分が、ノーベル平和賞の壁を突破するほどのものだったのか、選考委員会は明らかにすべきだろう。
私はマララさんの受賞にケチをつけるつもりは毛頭ない。ケチをつけるくらいだったら、9か月前に「マララさんにノーベル平和賞を今年こそ」などというブログを投稿したりはしてしない。ただ、素直に喜ぶ気になれないのが、マララさんのためにも残念だ、という複雑な思いが胸中を去来しているだけだ。
はっきり書く。ノーベル平和賞までもが、ある種の政治的思惑によって左右されているのか、という思いだ。マララさん受賞の背景に、イスラム過激派を世界から一掃しようという、ある国の政治力が働いていないという保証はない。
イスラム教徒が多数を占めるパキスタン人のマララさんは11歳のときの09年、ある思いをブログに投稿した。イスラム過激派のタリバンによって次々に女子校が爆破されたことに怒りをおぼえ、ペンネームで「女性が教育を受ける権利」を訴えたのだ。その行為をパキスタン政府が「勇気ある行為」として讃え、表彰したために彼女の素性が明らかになり、スクールバスで中学校からの下校中に武装勢力に襲われて頭部と首に2発の銃弾を受けて重傷を負った。幸い英バーミンガムの病院で数度の手術を受けて命を取り留め、その後も女性の権利を訴え続けた。彼女は国連総会で演説の機会を与えられたり、オバマ大統領やエリザベス女王と面会するなど、彼女の悲痛な訴えは世界に大きな波紋を呼んだ。
ノーベル賞受賞後のマララさんは記者会見で、それまでの主張を変えた。「女性が教育を受ける権利」に変えて「子供たちのために」とした。彼女の考えがこの1年で変わり、「子供たち」という、より普遍的な目的になったために受章資格を得られたのか、あるいは受賞後の記者会見での発言内容に何らかの圧力が加わったのかは、分からない。ただ私は非常に不自然さを感じた。
なおマララさんを襲撃した組織であるパキスタンの反政府武装勢力・タリバン(TPP)の幹部が14日、いわゆる「イスラム国」の傘下に入ると表明した。ただTPPも一枚岩ではないようで、同調者はTPPの3割とみられている。
実は私はいま大変混乱している。以前イスラム教についてはほとんど知らないと書いたが、知らないままでは済まされないと思いネット検索した。驚いたことにイスラム教はキリスト教から派生した宗教だということを初めて知った。
いわば常識として世界の三大宗教は、キリスト教・イスラム教・仏教だと思っており、それぞれ源流が異なると思っていた。が、預言者アブラハムを源流とする宗教が、その発生歴順にはユダヤ教(紀元前2000年)、キリスト教(紀元後1年)、イスラム教(紀元後700年)であり、それらの宗教の経典はユダヤ教が旧約聖書、キリスト教が旧約聖書・新約聖書であることは知っていたが、イスラム教の経典が旧約聖書・新約聖書とコーランであることはまったく知らなかった。イスラム教の経典は預言者ムハンマド(日本名はマホメッド)によって作られたコーランだけだと思っていた。おそらく中学生か高校生の時代に学校教育でそう教えられたのだと思う。
もちろんユダヤ教やキリスト教の源流が預言者アブラハムにあることは知っていた。そして紀元前1240年ごろにエジプトで生まれたモーゼ(あるいはモーセ)の教えが旧約聖書の原点になっていることもよく知られている。
私が高校生の頃、『十戒』という題名のアメリカ映画が日本でも公開され、映画史上空前の大作として評判になり大ヒットした。私も見たが、モーゼが紅海を真っ二つに割るシーンは、どうやって作ったのかが大きな話題になったことを覚えている。いまならCGで簡単に作れるシーンだが、コンピュータが出来る以前の時代にどうやって海を真っ二つに割るシーンを作ったのかが不思議だった。私はアニメではないかと考えていた。
映画の話がしたいわけではない。モーゼの教えは「してはいけないこと」を列挙したものだということを明らかにしておきたいために書いた。その「してはいけないこと」が10あり、「ひとを殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「偶像崇拝するなかれ」などである。が、イエス・キリストの教えの中には「汝の敵を愛せよ」「左の頬を打たれたら、右の頬も打たせよ」などがある。キリストの教えは「してはいけないこと」ではなく「すべきである」ことを諭したものだ。またユダヤ教はキリストを認めていないが、イスラム教は預言者として認めている。
ただイスラム教のコーランには「歯には歯を、目には目を」「盗みを働いたら、盗んだ手を切り落とせ」といったイエス・キリストの教えとは相容れない報復(あるいは復讐)の概念が根底にあり、聖書の教えと齟齬している要素についてはコーランを採用するという考えが一般的のようだ。日本人は一般的に無宗教の国民とされているが、私だけでなくコーランの報復(あるいは復讐)の概念には、大半の日本人が「とてもついていけない」という思いを持っているのではないかと思う。
だが、問題はキリスト教の「汝の敵を愛せよ」「左の頬を打たれたら、右の頬も打たせよ」という誰もが感動するだろう教えと、キリスト教徒のイスラム過激派に対する憎悪がどうして矛盾しないのかという疑問を私は禁じ得ない。
宗教は、いかなる宗教もその本質に置いて排他的であることは私も認めているが、仏教もさまざまな宗派があるが、異なる宗派間で殺し合うほどの排他性を行使したことはないと思う(私の思い込みかもしれないが)。
「近親憎悪」という言葉がある。通常は遺産相続などを巡る親族間の争いを表す言葉として使われているようだが、肉親同士の争いだけでなく、あらゆる世界に共通した人間の性(さが)と言ってもいいかもしれない。
たとえば、日本でも新左翼の中核派と革マル派の殺し合いや、日本赤軍の粛
清も言うなら「近親憎悪」の一種といってもいいのではないか。イエス・キリストを張り付けにしたのもユダヤ教徒だったし、キリスト教徒とイスラム教徒の殺し合いはいまに始まったことではない。人類は、いつか「近親憎悪」の感情を克服するだろうという未来への期待を私は捨ててはいないが、いま差し当たって「イスラム国」を名乗る集団に人類がどう立ち向かうかは、彼らを武力で制圧することでは不可能だと思っている。武力で制圧しようとすればするほど、彼らのキリスト教徒への憎悪は増幅するだけで、その矛先はイスラム教から派生したヤジディー教徒(クルド人の一部が信仰しているようだ)にまで向けられている(「イスラム国」はヤジディー教徒の奴隷化を宣言している)。奴隷制度が認められていたコーラン成立時代を正当化の理由としているようだが、そんな大昔ではなくても公娼制度が認められていた時代を口実に、現代社会で公娼制度を復活させようというようなものだ。
どうやったら、人類は自らが生み出した宗教の排他性を自ら克服できるのか、そうした問題意識を全世界が共有することが、私は宗教の残酷性を克服するための第一歩になると思っている。
なお昨日のブログで書き落とした部分がある。『クローズアップ現代』で反政府勢力に対して「香港人」と位置付けたのは制作担当者であって、キャスターの国谷裕子氏は「香港の若者たち」と表現しており、「香港人」という言葉は一切使用していない。彼女の名誉のために付け加えておく。
実は、この問題は、ブログを書けなかった間にいくつかのメディアには電話で話した。理解してくださった方もおられたし、理解力ゼロ(私の独断と偏見)の方もいた。
まだこのブログのタイトルは考えていないので、どうなるかわからないが、ダブる可能性はあるが「マララさんのノーベル平和賞受賞を、私はいま素直には喜べない」と申し上げた。
実は私がマララさんの活動を詳しく知ったのは今年1月8日。NHKが『クローズアップ現代』で彼女を取り上げたからである。
今年、マララさんと一緒にノーベル平和賞を受賞したインドのカイラシュ・サティーアーティ氏のことは、受賞して報道されるまで全く知らなかった。彼はインドで強制労働に従事させられている児童を解放し、教育の機会を作ってきた運動をしてきた人権家だという。そのカイラシュ氏のことはメディアは受賞するまで全く取り上げなかったが、なぜか谷垣前総理がノーベル平和賞の候補になっているらしいことは報道で知っていた。悪い冗談だ、と思った人も少なくなかっただろう。1月9日、私はこう題したブログを投稿した。
「マララさんにノーベル平和賞を今年こそ」の声を日本から世界に向かって発信しよう。
その書き出しの部分を転載する。
「昨夜7時半、NHKの『クローズアップ現代』を見た。涙をこらえきれなかった。見た直後、日本から「マララに今年こそノーベル平和賞の声を世界に発信を」と読者に呼びかけたいと思い、とりあえず資料だけ集めておこうと放送直後に「マララ」で検索をかけた。驚くべきことにすでに無数の書き込みがされていた。多くは同感した女性の書き込みだったが、男性の書き込みも少なくなかった。私がこの記事を投稿する時には書き込みは1000をはるかに超えているのではないか。
今年マララさんは17歳という若さでノーベル平和賞を受賞した。が、昨年、マララさんがノーベル賞を受賞できなかった理由がクリアされての受賞だったのか。マララさんが昨年、受賞できなかった理由は、若すぎるということと活動歴がノーベル平和賞受賞に相当するには達していないということだった、はずだ。
では、この1年でマララさんは何歳年をとったのか。16歳が若すぎて、17歳
なら若くないということか。それともマララさんはこの1年で年齢が一気に40代になったとでもいうのか。また、この1年間でマララさんはノーベル平和賞の受賞に相当するだけの活動をしてきたというのか。だとしたら、この1年間のマララさんの活動のどの部分が、ノーベル平和賞の壁を突破するほどのものだったのか、選考委員会は明らかにすべきだろう。
私はマララさんの受賞にケチをつけるつもりは毛頭ない。ケチをつけるくらいだったら、9か月前に「マララさんにノーベル平和賞を今年こそ」などというブログを投稿したりはしてしない。ただ、素直に喜ぶ気になれないのが、マララさんのためにも残念だ、という複雑な思いが胸中を去来しているだけだ。
はっきり書く。ノーベル平和賞までもが、ある種の政治的思惑によって左右されているのか、という思いだ。マララさん受賞の背景に、イスラム過激派を世界から一掃しようという、ある国の政治力が働いていないという保証はない。
イスラム教徒が多数を占めるパキスタン人のマララさんは11歳のときの09年、ある思いをブログに投稿した。イスラム過激派のタリバンによって次々に女子校が爆破されたことに怒りをおぼえ、ペンネームで「女性が教育を受ける権利」を訴えたのだ。その行為をパキスタン政府が「勇気ある行為」として讃え、表彰したために彼女の素性が明らかになり、スクールバスで中学校からの下校中に武装勢力に襲われて頭部と首に2発の銃弾を受けて重傷を負った。幸い英バーミンガムの病院で数度の手術を受けて命を取り留め、その後も女性の権利を訴え続けた。彼女は国連総会で演説の機会を与えられたり、オバマ大統領やエリザベス女王と面会するなど、彼女の悲痛な訴えは世界に大きな波紋を呼んだ。
ノーベル賞受賞後のマララさんは記者会見で、それまでの主張を変えた。「女性が教育を受ける権利」に変えて「子供たちのために」とした。彼女の考えがこの1年で変わり、「子供たち」という、より普遍的な目的になったために受章資格を得られたのか、あるいは受賞後の記者会見での発言内容に何らかの圧力が加わったのかは、分からない。ただ私は非常に不自然さを感じた。
なおマララさんを襲撃した組織であるパキスタンの反政府武装勢力・タリバン(TPP)の幹部が14日、いわゆる「イスラム国」の傘下に入ると表明した。ただTPPも一枚岩ではないようで、同調者はTPPの3割とみられている。
実は私はいま大変混乱している。以前イスラム教についてはほとんど知らないと書いたが、知らないままでは済まされないと思いネット検索した。驚いたことにイスラム教はキリスト教から派生した宗教だということを初めて知った。
いわば常識として世界の三大宗教は、キリスト教・イスラム教・仏教だと思っており、それぞれ源流が異なると思っていた。が、預言者アブラハムを源流とする宗教が、その発生歴順にはユダヤ教(紀元前2000年)、キリスト教(紀元後1年)、イスラム教(紀元後700年)であり、それらの宗教の経典はユダヤ教が旧約聖書、キリスト教が旧約聖書・新約聖書であることは知っていたが、イスラム教の経典が旧約聖書・新約聖書とコーランであることはまったく知らなかった。イスラム教の経典は預言者ムハンマド(日本名はマホメッド)によって作られたコーランだけだと思っていた。おそらく中学生か高校生の時代に学校教育でそう教えられたのだと思う。
もちろんユダヤ教やキリスト教の源流が預言者アブラハムにあることは知っていた。そして紀元前1240年ごろにエジプトで生まれたモーゼ(あるいはモーセ)の教えが旧約聖書の原点になっていることもよく知られている。
私が高校生の頃、『十戒』という題名のアメリカ映画が日本でも公開され、映画史上空前の大作として評判になり大ヒットした。私も見たが、モーゼが紅海を真っ二つに割るシーンは、どうやって作ったのかが大きな話題になったことを覚えている。いまならCGで簡単に作れるシーンだが、コンピュータが出来る以前の時代にどうやって海を真っ二つに割るシーンを作ったのかが不思議だった。私はアニメではないかと考えていた。
映画の話がしたいわけではない。モーゼの教えは「してはいけないこと」を列挙したものだということを明らかにしておきたいために書いた。その「してはいけないこと」が10あり、「ひとを殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「偶像崇拝するなかれ」などである。が、イエス・キリストの教えの中には「汝の敵を愛せよ」「左の頬を打たれたら、右の頬も打たせよ」などがある。キリストの教えは「してはいけないこと」ではなく「すべきである」ことを諭したものだ。またユダヤ教はキリストを認めていないが、イスラム教は預言者として認めている。
ただイスラム教のコーランには「歯には歯を、目には目を」「盗みを働いたら、盗んだ手を切り落とせ」といったイエス・キリストの教えとは相容れない報復(あるいは復讐)の概念が根底にあり、聖書の教えと齟齬している要素についてはコーランを採用するという考えが一般的のようだ。日本人は一般的に無宗教の国民とされているが、私だけでなくコーランの報復(あるいは復讐)の概念には、大半の日本人が「とてもついていけない」という思いを持っているのではないかと思う。
だが、問題はキリスト教の「汝の敵を愛せよ」「左の頬を打たれたら、右の頬も打たせよ」という誰もが感動するだろう教えと、キリスト教徒のイスラム過激派に対する憎悪がどうして矛盾しないのかという疑問を私は禁じ得ない。
宗教は、いかなる宗教もその本質に置いて排他的であることは私も認めているが、仏教もさまざまな宗派があるが、異なる宗派間で殺し合うほどの排他性を行使したことはないと思う(私の思い込みかもしれないが)。
「近親憎悪」という言葉がある。通常は遺産相続などを巡る親族間の争いを表す言葉として使われているようだが、肉親同士の争いだけでなく、あらゆる世界に共通した人間の性(さが)と言ってもいいかもしれない。
たとえば、日本でも新左翼の中核派と革マル派の殺し合いや、日本赤軍の粛
清も言うなら「近親憎悪」の一種といってもいいのではないか。イエス・キリストを張り付けにしたのもユダヤ教徒だったし、キリスト教徒とイスラム教徒の殺し合いはいまに始まったことではない。人類は、いつか「近親憎悪」の感情を克服するだろうという未来への期待を私は捨ててはいないが、いま差し当たって「イスラム国」を名乗る集団に人類がどう立ち向かうかは、彼らを武力で制圧することでは不可能だと思っている。武力で制圧しようとすればするほど、彼らのキリスト教徒への憎悪は増幅するだけで、その矛先はイスラム教から派生したヤジディー教徒(クルド人の一部が信仰しているようだ)にまで向けられている(「イスラム国」はヤジディー教徒の奴隷化を宣言している)。奴隷制度が認められていたコーラン成立時代を正当化の理由としているようだが、そんな大昔ではなくても公娼制度が認められていた時代を口実に、現代社会で公娼制度を復活させようというようなものだ。
どうやったら、人類は自らが生み出した宗教の排他性を自ら克服できるのか、そうした問題意識を全世界が共有することが、私は宗教の残酷性を克服するための第一歩になると思っている。
なお昨日のブログで書き落とした部分がある。『クローズアップ現代』で反政府勢力に対して「香港人」と位置付けたのは制作担当者であって、キャスターの国谷裕子氏は「香港の若者たち」と表現しており、「香港人」という言葉は一切使用していない。彼女の名誉のために付け加えておく。
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