小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

読売新聞の世論調査はフェアと言えるか?

2021-06-08 01:31:30 | Weblog
読売新聞社が東京オリンピック開催の是非を問う世論調査結果を7日発表した。メディアが行う世論調査の目的がこれほど歴然としたケースはまれである。
世論調査はしばしばメディアの目的によって設問の仕方が異なる。なかには数字をごまかしているメディアもあると思っている人(実際にそう思い込んでいる人も少なくなく、私も何人か知っている)もいるが、それは絶対にありえない。メディアを完全にコントロール下に置く独裁政権の場合ならいざ知らず、日本のような国で調査結果の数字をねつ造したりしたら、間違いなくそのメディアはつぶれる。どんな偏見や偏向思想に満ちたメディアであっても、そういうことは絶対しない。現に、東京オリンピック開催の是非を問うた読売の世論調査では、内閣支持率も調査し、支持率37%と菅内閣発足以来の最低を記録したことも明らかにしている。とりあえず、東京オリンピック開催の是非を問うた読売の記事を紹介する。

●読売新聞はなぜおかしなアンケート方法をしたのか?
 読売新聞社が4~6日に実施した全国世論調査で、東京五輪・パラリンピックについて聞くと、「開催する」が50%、「中止する」は48%で、世論が二分された。「中止」を求める声は、前回(5月7~9日調査)の59%から11ポイント減った。「開催」の内訳をみると、「観客数を制限して開催」が24%(前回16%)、「観客を入れずに開催」は26%(同23%)だった。海外から来る選手や関係者への感染対策は、十分だと「思わない」が63%と多数を占めた。

この数字を見てびっくりしない人はまずいないだろう。世論が突然180度ひっくり返ったのか、と思ったに違いない。それにしては、おかしなことがある。
政府の分科会の尾身会長が2日、衆院厚労委で政府の東京オリンピック開催強硬姿勢に疑問符を突き付けた。「こういうパンデミック(世界的大流行)でやるのは普通ではない」。
さらに翌3日には参院厚労委でも尾身氏は「やるなら強い覚悟でやってもらう必要がある」と述べ、徹底した感染対策を求め、近く専門家の考えを示すことも明らかにした。
この尾身発言に対して政府側は田村厚労相が「自主的な研究の成果の発表だと受け止めさせていただく」、丸川五輪相も「立場の違いで認識が違う」橋本組織委会長は「政府が示す基準にのっとって適切に進めていく」と無視する意向を次々に表明した。
この政府と尾身会長の対立について世論は圧倒的に尾身氏を支持していることは読売も否定していない。
また他のメディアの東京オリンピック開催についての世論調査では「開催」派は軒並み20%を下回っている。どうしてこれほど大きな調査結果の乖離が生じたのか。
実は他のメディアは大体3択でアンケートを取っている。「予定通り開催」「延期」「中止」の3択だ。この3択方式でアンケートを取れば「予定通り開催」派は大体20%を切る。そして「延期」と「中止」を合わせれば80%を超える。
一方、読売も3択だが、他メディアと異なり「延期」という選択肢を外した。読売のアンケートは「観客数を制限して開催する」「観客を入れずに開催する」「中止する」が、その3択。本来、「延期」派は開催そのものに反対しているわけではない。分科会の尾身会長も開催そのものに真っ向から反対しているわけではなく、「パンデミック下での開催」に疑問を呈し、どうしても強行するのであれば「徹底した感染対策」を求めているだけだ。その提言を政府が無視するということは「徹底した感染対策は行わない」と公式に表明したに等しい。
もし読売が尾身会長の提言を重要視して、「徹底した感染対策の下で開催する」「適当な感染対策で開催する」「中止する」の3択でアンケートを取っていたら、どういう結果が出たであろうか。小学生でも想像がつく。
少なくともフェアな世論調査をするのであれば、「予定通り開催する」「再延期して開催する」「中止する」の3択でアンケートを取るべきだった。実際他のメディアはそういう3択方式を取っている。そのうえで、読売が「再延期」派も含めて「開催」派と解釈するのであれば、必ずしもアンフェアとは言えない。ただ、「再延期」はいまのところ願望にすぎず、政府もIOCも全く考慮に入れていないから、現実的な選択肢とは言えない。
そう考えると、読売の3択は「延期」派を「開催」派に引き寄せるためとしか考えられない。「延期」派はもともと「中止」派ではないし、「中止」派も東京オリンピックの開催自体に反対というより、「延期が可能」だったら「開催」派に転じる人が少なくないはずだ。実際、私自身も「延期は不可能」という前提で、いまは「中止」派だが、1年後、2年後への延期は北京大会や様々なスポーツ世界大会の日程がすでに動かせないという状況で不可能だろうが、一部のスポーンサー筋から出ていると言われる9月末か10月初めへの延期が可能であれば「開催」大賛成である。
菅総理の「1日100万接種」というワクチン接種計画は大ぼらとしても1日60万接種の場合は9月末までに日本人の4割が2回のワクチン接種を終えられるという専門家の試算もある。12歳以上が接種対象だから、実質オリンピックを観戦する人口のほぼ100%近くが2回のワクチン接種を終えていると思われる(これは私の感覚)。そもそもコロナ騒動がなくても、日本でオリンピックを開催することの最大の目的が外国人観光客のインバウンド効果の期待にあるとすれば、こんないいことはない。
そのうえ、真夏の東京でなければ、マラソンやサッカーも札幌で行う必要もなく、かえってワクチンを接種した人たちがマラソン沿道を埋め尽くせば、そこに巨大な集団免疫空間が生まれ、ワクチン接種ができない子供たちにも自然免疫が作れる。文字通りアスリート・ファーストの大会になるし、世界の人たちにあらためて日本の良さをアピールできる。IOCには米NBC局からの放映権料収入が多少減るかもしれないが、秋まで延期することによる日本の収支増から考えてもはるかにメリットが大きいはずだ。また海外の選手団や関係者を選手村やホテルに缶詰めにする必要もなくなる。

●どうしても予定通りに開催するなら、示すべき日本の矜持は…。
一方、延期せずに予定通り開催する場合、もちろん観客の有無も重要な感染対策ではある。が、ある程度の入場制限を行えば、競技場の中での感染はほぼ確実に防げる。例えば1席ずつ空席をつくる場合、入場者は定員の半分に減らすことができる。さらに1列ずつ間隔を開ければ入場者は定員の4分の1にできる。そこまでやれば、競技場内でのクラスターは生じない。また観客に感染者が紛れ込んでいたとしても、「声出し応援」を完全に禁止すれば近くの観客への感染はおろか、観客席からは相当の距離を保っているアスリートへの感染もありえない。
問題は競技が終わった後の観客をどうやって3密状態を防いで粛々と退場させるかである。前回のブログでも書いたが、出口ごとに観客を少しずつ制限しながら出すしかない。そのやり方を実現するには相当訓練を行う必要があるし、全観客が退出するまでの間、自分の退出番が来るまで、観客をイラつかせない方法を考えなければならない。
観客については、そういう方法を取ればオリンピックが感染源になることはまず防げるから、無観客にする必要はないと思う。むしろ問題は、競技のリスクの方が大きい。
水泳や陸上はアスリート同士が極端に接触することはないだろうし、従って感染リスクはそれほど重視する必要はないと思う。
問題は格闘技系の競技である。個人競技ではボクシングや柔道、レスリングなど。フェンシングや空手は直接接触し合うことはないにしても、選手の発声を禁止はできまい。テニスも選手は発生するが、相手との距離があるため感染リスクは生じないが、フェンシングや空手は確実に相手に飛沫がかかる。
サッカーやラクビー、バスケットなどの集団格闘競技はもっと厄介だ。汗をかいた肉体同士がぶつかるし、まさかマスクを着けさせるわけにもいくまい。もし選手の誰かが感染していたら、確実に「コロナ感染競技」になる。IOCはファイザー社から提供を受けたワクチンを選手団に配布・接種を要請するというが、強制力はない。
ワクチンについては有効性、副作用も少しずつ分かってきたし、接種したくないという選手もいるようだ。日本人は欧米人に比べて全体主義的な考え方の人が多いから、「みんなが接種するなら」と足並みを揃えがちだが、欧米人は個人主義的な考え方が強く、「いやなものは嫌」と突っぱねられると、それ以上強制はできない。ゆいつ方法は、日本の組織委やJOCが感染リスクの高い競技については1か月前までのワクチン2回接種を参加条件としてIOCに要求し認めさせることだが、そんな骨のあるやつが日本にいるかだ。
尾身会長は「近く専門家としての意見を出す」と公言したが、東京オリンピックが「コロナ・オリンピック大会」になることを防ぐ方法は、論理的に考えたら、こうした方法しかないと思う。
最後の手段として一部の選手でも、ワクチン接種を拒み、かつその選手の参加を拒否することも不可能となった場合、その競技そのものをオリンピック競技から外してしまう。
政府も組織委もJOCも、IOCの言いなりになることで自己保身を図るのではなく、「安全安心」なオリンピック開催を実現するために、そのくらいの矜持を持ってIOCと向き合ってほしい。
今や日本がオリンピックを開催する意義は、いくつ日本選手がメダルを取るかではなく、主権国家としての矜持の在り方を世界にどう示せるかにかかっているといっても過言ではない。そう望むほうが、間違っているのだろうか。



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