「ペンは剣よりも強し」という格言がある。そうであってほしい、と私も思う。が、「既成事実の積み重ねはペンよりも重し」という冷たい現実に私たちは直面している。「憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使を可能にするための安保法制」の成立が今月中には確実になる。参院では過半数を占めていない自公与党政権だが、今月14日に参院での審議日数が60日を数える。与党は衆院特別委では強行採決したが、参院特別委ではおそらく強行採決を避けるだろう。法案は参院で60日以内に採決できなければ否決されたと見なし、衆院に差し戻して採決をやり直すことが国会の規則で決められている。それがいわゆる「60日ルール」と呼ばれているものだ。が、衆院で再採決したうえで3分の2の賛成が得られれば、安保法制は正式に国会で成立することになっている。
かつてこの「60日ルール」によって法案を強行成立させようと考えた総理がいた。小泉純一郎氏だ。いわゆる郵政民営化法案で、衆院ではかろうじて通過したが、自民党内部から党議拘束に従わず反対に回った造反議員が多数出た。参院の与野党反対派議員は活気づき、郵政民営化法案の成立が危うくなった。このとき小泉元総理が大ばくちを打ったのが衆議院の解散(「郵政解散」)だった。党議拘束に従わなかった自民党議員を全員除名処分にしたうえで、彼らの選挙区に強力な対立候補者(「落下傘部隊」)を擁立して、一気に3分の2以上の郵政民営化賛成派議員を確保した。
結局、小泉内閣は「60日ルール」を行使せずに民営化法案を成立させることが出来た。参院の反対派議員たちがいっせいに寝返ったからだ。
が、今回は衆院の自公与党はすでに3分の2を超えており、ただひたすら参院での審議に真摯に応じた、という形だけを国民に見せればそれでいい。現に参院の維新が修正案を提出したとき、高村自民副総裁は「審議には応じるが、政府案との乖離が大きく妥協は難しい」とそっけなかった。が、維新分裂必至の状況になった途端「参院で法案を修正したとしても、修正案を衆院で審議して可決しなければならなくなるが、衆院の維新議員の動向が読めないので…」と一転、維新の出方によっては柔軟な姿勢に転じてもいいかのような発言をするようになった。法案成立のための事実上の総参謀長を自負する高村氏にとっては、維新の混乱はもっけの幸いとなったようだ。
いずれにせよ、安保法制は間違いなく成立する。が、同時に全国8高裁で憲法学者や弁護士などから「違憲訴訟」が提訴されることも間違いない。
安倍総理が集団的自衛権の行使を可能にするための私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(座長・柳井俊二元駐米大使)を再発足させたのは2013年2月8日である。「再発足」と書いたのは、安倍総理が病で退陣した第1次安倍内閣時に、この私的諮問機関を発足させていたからだ。
が、2013年に再発足させたこの諮問機関の位置付けについてメディアの間に混乱が生じた。朝日新聞や毎日新聞が「私的諮問機関」と位置付けたのに対して読売新聞、産経新聞、NHKは「政府の有識者会議」と位置付けた(NHKは私の執拗な抗議により最終的には「安倍総理が設置した懇談会」と位置付けを変えたが)。
NHKは多少表現を変えたが、読売新聞と産経新聞は最後まで安保法制懇の位置付けを変えなかった。変えない以上、誤報ではないと考えているようだ。だとすれば、第1次安倍内閣が設置した安保法制懇(メンバーは第2次法制懇と同じ)も「政府の有識者会議」でなければおかしいということになる。政府が設置した有識者会議であれば、安倍総理が病で総理を退いても後継内閣に課題は引き継がれなければならない。「政府の…」という以上、公的諮問機関になるからだ。メディアとはいかに論理的思考力に欠けたいい加減な存在であるかということを、とりあえず読者にご理解いただければ十分である。
さて13年夏までにはまとめられる予定だった安保法制懇の報告書は、なぜか遅れに遅れた。遅れに遅れた理由の一つに、私が同年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』を首相官邸に通知したからだ。その要旨を述べる(追記した個所もある)。
国連憲章は1945年5月にドイツが無条件降伏した翌月、第2次世界大戦後の世界秩序の安定のために連合国が中心になって作られた。
憲章の最大の目的は戦争のない平和な世界の構築にあった。従って国際紛争が生じても、武力行使によって紛争を解決することを、国連加盟国に原則として禁じることにした。ただし、この時点ではまだ日本は降伏しておらず、国連も発足していない。日本が無条件降伏したのは8月15日、国連憲章をベースにして国連が発足したのは戦後の10月24日である。
憲章では、国際間の紛争が生じた場合、平和的な話し合いによる解決(当事国間、第三国の仲介、国連あるいは国際司法裁判所などへの提訴)を最優先することを加盟国に求めている。
ただし、国連は国際連盟以上の非民主的な国際機関として作られた。国際紛争を国連の場で解決するに際し、加盟国全員の多数決によるのではなく、安保理に事実上の決定権を付与し、さらに戦勝国の米・英・仏・ソ(現ロ)・中の常任理事国に拒否権を付与してしまった。さらに先に述べたような話し合いによる平和的解決が不可能になった場合に備えて、憲章は安保理に対して紛争解決のための「あらゆる非軍事的措置」(外交関係の遮断=国際社会からの村八分的制裁=や経済制裁など)と、「あらゆる軍事的措置」(原爆投下も含む)を行使できる権能を付与することにした。この時点では、国連憲章は国連軍の創設を前提にしていたと考えられる。
が、常任理事国の国益が完全に合致することは、まずありえない。そのため国連軍の創設はおろか、実際に国際紛争が生じても平和的に解決する機能を国連安保理は最初から持ち得なかった。そのことは当然予測されていたため、憲章は例外的に紛争当事国が武力によって国際紛争を解決することを認める条項を設けることにした。それが憲章51条である。憲章51条は紛争解決の手段として、加盟国に個別的自衛権と集団的自衛権の行使を固有の権利として認めた。憲章51条の全文を転記する。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この(個別的又は集団的)自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」
国連憲章において「集団的自衛権」という言葉はこの51条以外には1カ所も記載されていない。従って集団的自衛権の行使とは何を意味するか、を論じる場合、この51条での規定を前提にしない解釈は不可能なはずである。
が、東西冷戦下において米ソ両大国は、自国の国益のために「集団的自衛権行使」の権利をかってに拡大解釈してきた。たとえばハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱(プラハの春)、ベトナム戦争などが典型的な例である。これらはいずれも国内の政治的主導権を争った内乱であり、外国からの侵略を受けたケースは一つもない。ハンガリー動乱やプラハの春の場合は、共産党独裁政権に対して自由を求めた民衆の反乱に危機感を抱いた共産党政府がソ連に氾濫弾圧のために軍事支援を求めたケースであり、ベトナム戦争はベトナムの政治支配を巡って親米の南ベトナム政権が北ベトナムの共産軍(ベトコン)との内乱で、アメリカに軍事支援を要請したケースである。いずれも憲章51条が想定した自衛権行使の条件である「国連加盟国に対して(他国から)武力攻撃が発生した場合」ではない。
憲章51条を素直に読めば、他国から武力攻撃が生じた場合、自国の軍事力で防衛したり(「個別的自衛権」の行使)、自国の軍事力だけでは対抗できないと判断した場合、友好的あるいは密接な関係にある国に軍事的支援を要請して共同で防衛すること(「集団的自衛権」の行使)を国連加盟国に「自衛のための固有の権利」として認めていることは、中学生にも理解できる文脈だろう。
そういうふうに「集団的自衛権行使」の意味を解釈すれば(それ以外の解釈のしようがないはずだ)、日本はすでに日米安全保障条約によって、日本が他国から攻撃された場合、自衛隊の軍事力で防衛する(個別的自衛権の行使)だけでなく、アメリカに軍事的支援を要請できる権利(集団的自衛権の行使)をすでに保有していることになる。
だから私はこのブログの冒頭で「ペンは剣より強し」という格言があるが、「既成事実の積み重ねはペンより重し」と書いたのだ。つまり米ソ両大国による「集団的自衛権行使」の既成事実の積み重ねに日本政府もメディアも振り回されてきた。安保法制に反対の朝日新聞も、米ソ両大国による既成事実の積み重ねを前提に、こう解説している(朝日新聞『ニュースがわからん』より)。
「集団的自衛権は密接な関係にある他国が攻められたとき、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
これは従来の政府見解(内閣法制局による)を丸写しした解説でしかない。中学生並みの読解力しか持っていない記者が解説記事を書くと、こういうデタラメな文章になるという格好のお手本だ。
かつて日米貿易摩擦が生じた1980年代半ば、アメリカでは猛烈な「ジャパンバッシングの嵐」が吹き荒れた。当時のアメリカ自動車産業の聖地だったデトロイトでは、日本車の輸入増加によって職を失った米自動車メーカーの元従業員たちが日本車をハンマーで叩き潰したり、ひっくり返して火をつけたりする光景をニュースでしばしば見た。そのころの米メディアの対日批判の論調は「安保タダ乗り」論が主流だった。
最近メディアが米国内の対日感情についてあまり報道しないので、当時の「安保タダ乗り」論は消えたのかと思っていたが、そうではないことをつい最近知った。ある集会で、講演者が「日米安保条約の下では、アメリカは日本を守る義務があるのに、日本にはアメリカを守る義務がない。これはフェアな関係と言えるか」と参加者に質問したところ、全員が総立ちになって「アンフェだ」と叫んだというのだ。アメリカ政府も、自国のために日本がどれだけ犠牲を払ってくれているのか、とくに沖縄県民が払っている犠牲の大きさについて説明していないし、日本政府も日米軍事関係の実態についてアメリカ国民に事実を知ってもらう努力もしていなければ、韓国のようなロビー活動もほとんどしていないようだ。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいのかもしれないが、その結果どれだけ日本が国益を失っているかを考えてほしい。
私はこれまでも何度もブログで書いてきたように、一国平和主義者でもなければ「平和憲法が日本の平和を守ってきた」などと信じている空想家でもない。むしろ憲法を改正して、日本が国際社会に占めている現在の地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献できるような「新しい国づくり」に取り組むべきだと考えている。
が、その「新しい国づくり」は安倍総理が目指しているようなアメリカとの「新しい軍事同盟関係づくり」とはまったく違う。
もちろん日本にとってアメリカが大切な友好国であることは認めるが、安保法制によって日本がアメリカと対等な関係になるかと言えば、絶対にならない。谷垣幹事長が6月20日の講演会でつい本音を漏らしたように「アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、(日本は)それを補わなくてはならない」というのが安保法制の真の狙いなのだ。つまり、自衛隊をアメリカの「忠犬ハチ公」にすることが安保法制の目的である。だから野党の追及に対し、安倍総理も中谷防衛相もしばしばしどろもどろでちぐはぐな答弁に終始せざるを得なくなってしまう。
政府によれば、集団的自衛権行使は「日本の存立危機事態」が前提になるという。では日本の存立危機事態とはどういうケースかとなると、途端に説明がおかしくなる。当初、安倍総理は「有事の際に救出した日本人を乗せた米艦船の防衛」と、かなり限定した事態を想定していたが、8月26日には中谷防衛相が「邦人の乗船は絶対的な条件ではない」と武力行使の範囲を一気に拡大した。結局、存立危機事態とはどういう事態なのかを野党からしつこく追及されると、「そういう事態が生じたときの政府の判断だ」と逃げるしかなかった。
政府に代わって私が教えてあげよう。
「日本にとって存立危機事態とは、アメリカから自衛隊の出動を要請されたときです」
安倍総理に言わせれば、アメリカの要請を断った瞬間日米同盟は崩壊するのだから、アメリカの要請が自衛隊出動の絶対必要条件になり、アメリカの要請を断れば即日本の存立危機事態が生じる。
だが、仮に自衛艦や自衛機が尖閣諸島周辺で中国艦船や中国機と偶発的に衝突するような事態が発生しても、アメリカは絶対に手を出さない。アメリカの日米安全保障条約に基づく日本防衛義務にしても、アメリカの国益に反してまでは絶対にやらない。
実は安倍総理もそのことが分かっているから、「集団的自衛権の行使」によって日米軍事同盟を強化することが、日本にとって抑止力を高めることになると強調しているのである。その限りにおいては、安倍総理の考えはあながち間違っているとは言わない。だが、安保法制も法律として成立させただけでは、アメリカにとって日本が運命共同体になることが保証されたわけではないことは分かりきった話だ。
私自身は、日本が国際社会に占めている地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献するには、現行憲法を改正してアジア太平洋諸国との集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えているが、安倍総理のようにアメリカとの軍事同盟の強化だけに抑止力を求めるのであれば、いっそのことアメリカの主要都市(ワシントンDC、ニューヨーク市、ロサンゼルス市など)の近郊に自衛隊基地を設置し(もちろん地位協定は不可欠だ)、もしアメリカが他国から攻撃されたら自衛隊が直ちに反撃に出る体制にすればよい。そこまで日本がアメリカのためにも血を流す姿勢を見せれば、日本の抑止力は飛躍的に高まる。米国内のインテリ層にいまだに根強い日本に対する「安保タダ乗り」論も雲散霧消する。
アメリカを攻撃しようという国などないから、これほど安全で、かつ抑止力効果を高める方法はない。もっともアメリカが、この提案に「ウン」と言えばの話だが…。
かつてこの「60日ルール」によって法案を強行成立させようと考えた総理がいた。小泉純一郎氏だ。いわゆる郵政民営化法案で、衆院ではかろうじて通過したが、自民党内部から党議拘束に従わず反対に回った造反議員が多数出た。参院の与野党反対派議員は活気づき、郵政民営化法案の成立が危うくなった。このとき小泉元総理が大ばくちを打ったのが衆議院の解散(「郵政解散」)だった。党議拘束に従わなかった自民党議員を全員除名処分にしたうえで、彼らの選挙区に強力な対立候補者(「落下傘部隊」)を擁立して、一気に3分の2以上の郵政民営化賛成派議員を確保した。
結局、小泉内閣は「60日ルール」を行使せずに民営化法案を成立させることが出来た。参院の反対派議員たちがいっせいに寝返ったからだ。
が、今回は衆院の自公与党はすでに3分の2を超えており、ただひたすら参院での審議に真摯に応じた、という形だけを国民に見せればそれでいい。現に参院の維新が修正案を提出したとき、高村自民副総裁は「審議には応じるが、政府案との乖離が大きく妥協は難しい」とそっけなかった。が、維新分裂必至の状況になった途端「参院で法案を修正したとしても、修正案を衆院で審議して可決しなければならなくなるが、衆院の維新議員の動向が読めないので…」と一転、維新の出方によっては柔軟な姿勢に転じてもいいかのような発言をするようになった。法案成立のための事実上の総参謀長を自負する高村氏にとっては、維新の混乱はもっけの幸いとなったようだ。
いずれにせよ、安保法制は間違いなく成立する。が、同時に全国8高裁で憲法学者や弁護士などから「違憲訴訟」が提訴されることも間違いない。
安倍総理が集団的自衛権の行使を可能にするための私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(座長・柳井俊二元駐米大使)を再発足させたのは2013年2月8日である。「再発足」と書いたのは、安倍総理が病で退陣した第1次安倍内閣時に、この私的諮問機関を発足させていたからだ。
が、2013年に再発足させたこの諮問機関の位置付けについてメディアの間に混乱が生じた。朝日新聞や毎日新聞が「私的諮問機関」と位置付けたのに対して読売新聞、産経新聞、NHKは「政府の有識者会議」と位置付けた(NHKは私の執拗な抗議により最終的には「安倍総理が設置した懇談会」と位置付けを変えたが)。
NHKは多少表現を変えたが、読売新聞と産経新聞は最後まで安保法制懇の位置付けを変えなかった。変えない以上、誤報ではないと考えているようだ。だとすれば、第1次安倍内閣が設置した安保法制懇(メンバーは第2次法制懇と同じ)も「政府の有識者会議」でなければおかしいということになる。政府が設置した有識者会議であれば、安倍総理が病で総理を退いても後継内閣に課題は引き継がれなければならない。「政府の…」という以上、公的諮問機関になるからだ。メディアとはいかに論理的思考力に欠けたいい加減な存在であるかということを、とりあえず読者にご理解いただければ十分である。
さて13年夏までにはまとめられる予定だった安保法制懇の報告書は、なぜか遅れに遅れた。遅れに遅れた理由の一つに、私が同年8月29日に投稿したブログ『安倍首相は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』を首相官邸に通知したからだ。その要旨を述べる(追記した個所もある)。
国連憲章は1945年5月にドイツが無条件降伏した翌月、第2次世界大戦後の世界秩序の安定のために連合国が中心になって作られた。
憲章の最大の目的は戦争のない平和な世界の構築にあった。従って国際紛争が生じても、武力行使によって紛争を解決することを、国連加盟国に原則として禁じることにした。ただし、この時点ではまだ日本は降伏しておらず、国連も発足していない。日本が無条件降伏したのは8月15日、国連憲章をベースにして国連が発足したのは戦後の10月24日である。
憲章では、国際間の紛争が生じた場合、平和的な話し合いによる解決(当事国間、第三国の仲介、国連あるいは国際司法裁判所などへの提訴)を最優先することを加盟国に求めている。
ただし、国連は国際連盟以上の非民主的な国際機関として作られた。国際紛争を国連の場で解決するに際し、加盟国全員の多数決によるのではなく、安保理に事実上の決定権を付与し、さらに戦勝国の米・英・仏・ソ(現ロ)・中の常任理事国に拒否権を付与してしまった。さらに先に述べたような話し合いによる平和的解決が不可能になった場合に備えて、憲章は安保理に対して紛争解決のための「あらゆる非軍事的措置」(外交関係の遮断=国際社会からの村八分的制裁=や経済制裁など)と、「あらゆる軍事的措置」(原爆投下も含む)を行使できる権能を付与することにした。この時点では、国連憲章は国連軍の創設を前提にしていたと考えられる。
が、常任理事国の国益が完全に合致することは、まずありえない。そのため国連軍の創設はおろか、実際に国際紛争が生じても平和的に解決する機能を国連安保理は最初から持ち得なかった。そのことは当然予測されていたため、憲章は例外的に紛争当事国が武力によって国際紛争を解決することを認める条項を設けることにした。それが憲章51条である。憲章51条は紛争解決の手段として、加盟国に個別的自衛権と集団的自衛権の行使を固有の権利として認めた。憲章51条の全文を転記する。
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この(個別的又は集団的)自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない」
国連憲章において「集団的自衛権」という言葉はこの51条以外には1カ所も記載されていない。従って集団的自衛権の行使とは何を意味するか、を論じる場合、この51条での規定を前提にしない解釈は不可能なはずである。
が、東西冷戦下において米ソ両大国は、自国の国益のために「集団的自衛権行使」の権利をかってに拡大解釈してきた。たとえばハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱(プラハの春)、ベトナム戦争などが典型的な例である。これらはいずれも国内の政治的主導権を争った内乱であり、外国からの侵略を受けたケースは一つもない。ハンガリー動乱やプラハの春の場合は、共産党独裁政権に対して自由を求めた民衆の反乱に危機感を抱いた共産党政府がソ連に氾濫弾圧のために軍事支援を求めたケースであり、ベトナム戦争はベトナムの政治支配を巡って親米の南ベトナム政権が北ベトナムの共産軍(ベトコン)との内乱で、アメリカに軍事支援を要請したケースである。いずれも憲章51条が想定した自衛権行使の条件である「国連加盟国に対して(他国から)武力攻撃が発生した場合」ではない。
憲章51条を素直に読めば、他国から武力攻撃が生じた場合、自国の軍事力で防衛したり(「個別的自衛権」の行使)、自国の軍事力だけでは対抗できないと判断した場合、友好的あるいは密接な関係にある国に軍事的支援を要請して共同で防衛すること(「集団的自衛権」の行使)を国連加盟国に「自衛のための固有の権利」として認めていることは、中学生にも理解できる文脈だろう。
そういうふうに「集団的自衛権行使」の意味を解釈すれば(それ以外の解釈のしようがないはずだ)、日本はすでに日米安全保障条約によって、日本が他国から攻撃された場合、自衛隊の軍事力で防衛する(個別的自衛権の行使)だけでなく、アメリカに軍事的支援を要請できる権利(集団的自衛権の行使)をすでに保有していることになる。
だから私はこのブログの冒頭で「ペンは剣より強し」という格言があるが、「既成事実の積み重ねはペンより重し」と書いたのだ。つまり米ソ両大国による「集団的自衛権行使」の既成事実の積み重ねに日本政府もメディアも振り回されてきた。安保法制に反対の朝日新聞も、米ソ両大国による既成事実の積み重ねを前提に、こう解説している(朝日新聞『ニュースがわからん』より)。
「集団的自衛権は密接な関係にある他国が攻められたとき、自国が攻撃されたと見なして反撃する権利だ。国連憲章は加盟国に自分を守る個別的自衛権とセットで認めている」
これは従来の政府見解(内閣法制局による)を丸写しした解説でしかない。中学生並みの読解力しか持っていない記者が解説記事を書くと、こういうデタラメな文章になるという格好のお手本だ。
かつて日米貿易摩擦が生じた1980年代半ば、アメリカでは猛烈な「ジャパンバッシングの嵐」が吹き荒れた。当時のアメリカ自動車産業の聖地だったデトロイトでは、日本車の輸入増加によって職を失った米自動車メーカーの元従業員たちが日本車をハンマーで叩き潰したり、ひっくり返して火をつけたりする光景をニュースでしばしば見た。そのころの米メディアの対日批判の論調は「安保タダ乗り」論が主流だった。
最近メディアが米国内の対日感情についてあまり報道しないので、当時の「安保タダ乗り」論は消えたのかと思っていたが、そうではないことをつい最近知った。ある集会で、講演者が「日米安保条約の下では、アメリカは日本を守る義務があるのに、日本にはアメリカを守る義務がない。これはフェアな関係と言えるか」と参加者に質問したところ、全員が総立ちになって「アンフェだ」と叫んだというのだ。アメリカ政府も、自国のために日本がどれだけ犠牲を払ってくれているのか、とくに沖縄県民が払っている犠牲の大きさについて説明していないし、日本政府も日米軍事関係の実態についてアメリカ国民に事実を知ってもらう努力もしていなければ、韓国のようなロビー活動もほとんどしていないようだ。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいのかもしれないが、その結果どれだけ日本が国益を失っているかを考えてほしい。
私はこれまでも何度もブログで書いてきたように、一国平和主義者でもなければ「平和憲法が日本の平和を守ってきた」などと信じている空想家でもない。むしろ憲法を改正して、日本が国際社会に占めている現在の地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献できるような「新しい国づくり」に取り組むべきだと考えている。
が、その「新しい国づくり」は安倍総理が目指しているようなアメリカとの「新しい軍事同盟関係づくり」とはまったく違う。
もちろん日本にとってアメリカが大切な友好国であることは認めるが、安保法制によって日本がアメリカと対等な関係になるかと言えば、絶対にならない。谷垣幹事長が6月20日の講演会でつい本音を漏らしたように「アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなってきており、(日本は)それを補わなくてはならない」というのが安保法制の真の狙いなのだ。つまり、自衛隊をアメリカの「忠犬ハチ公」にすることが安保法制の目的である。だから野党の追及に対し、安倍総理も中谷防衛相もしばしばしどろもどろでちぐはぐな答弁に終始せざるを得なくなってしまう。
政府によれば、集団的自衛権行使は「日本の存立危機事態」が前提になるという。では日本の存立危機事態とはどういうケースかとなると、途端に説明がおかしくなる。当初、安倍総理は「有事の際に救出した日本人を乗せた米艦船の防衛」と、かなり限定した事態を想定していたが、8月26日には中谷防衛相が「邦人の乗船は絶対的な条件ではない」と武力行使の範囲を一気に拡大した。結局、存立危機事態とはどういう事態なのかを野党からしつこく追及されると、「そういう事態が生じたときの政府の判断だ」と逃げるしかなかった。
政府に代わって私が教えてあげよう。
「日本にとって存立危機事態とは、アメリカから自衛隊の出動を要請されたときです」
安倍総理に言わせれば、アメリカの要請を断った瞬間日米同盟は崩壊するのだから、アメリカの要請が自衛隊出動の絶対必要条件になり、アメリカの要請を断れば即日本の存立危機事態が生じる。
だが、仮に自衛艦や自衛機が尖閣諸島周辺で中国艦船や中国機と偶発的に衝突するような事態が発生しても、アメリカは絶対に手を出さない。アメリカの日米安全保障条約に基づく日本防衛義務にしても、アメリカの国益に反してまでは絶対にやらない。
実は安倍総理もそのことが分かっているから、「集団的自衛権の行使」によって日米軍事同盟を強化することが、日本にとって抑止力を高めることになると強調しているのである。その限りにおいては、安倍総理の考えはあながち間違っているとは言わない。だが、安保法制も法律として成立させただけでは、アメリカにとって日本が運命共同体になることが保証されたわけではないことは分かりきった話だ。
私自身は、日本が国際社会に占めている地位にふさわしい国際、とりわけアジア太平洋の平和と安全に貢献するには、現行憲法を改正してアジア太平洋諸国との集団安全保障体制の構築に全力を注ぐべきだと考えているが、安倍総理のようにアメリカとの軍事同盟の強化だけに抑止力を求めるのであれば、いっそのことアメリカの主要都市(ワシントンDC、ニューヨーク市、ロサンゼルス市など)の近郊に自衛隊基地を設置し(もちろん地位協定は不可欠だ)、もしアメリカが他国から攻撃されたら自衛隊が直ちに反撃に出る体制にすればよい。そこまで日本がアメリカのためにも血を流す姿勢を見せれば、日本の抑止力は飛躍的に高まる。米国内のインテリ層にいまだに根強い日本に対する「安保タダ乗り」論も雲散霧消する。
アメリカを攻撃しようという国などないから、これほど安全で、かつ抑止力効果を高める方法はない。もっともアメリカが、この提案に「ウン」と言えばの話だが…。
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