tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

中山道「新町宿から倉賀野宿」まで・・・

2020-11-09 15:58:19 | 中山道六十九次散歩

11月9日(月)

今日も朝から秋の日差しがいっぱいです。

昨日の忙しさから一転して、午前中の腰痛治療だけでしたので、先日の「中山道街道歩き」の備忘録をまとめてみました。

新町駅

前回のゴール地点新町駅に10時の集合でした。

ここ新町宿から、今回ゴールとなります倉賀野宿を目指します。

新町宿は、慶安4年に落合村と笛木村が伝馬役を命じられて宿場が成立したといいます。

江戸日本橋から11番目の宿場です。

明治天皇新町行在所

明治天皇が明治11年に、北陸各地の御巡幸

の折、新町の屑糸紡績所へ行幸され、9月2日新町に宿泊することになり、従来の本陣では警備上問題があるとして、急遽宿泊所を新築することが決まったといいます。

決まったが、資金がなく一全町からの寄付や県からの借金で建築されたと云います。

現在は、3月のひな祭りのメーン会場として使われております。

於菊稲荷神社

元は普通の「稲荷神社」で、神流川合戦の際に白い狐が現れて、北条氏を勝利に導いたという御神徳に感謝して社を建立したと云われておりましたが、江戸時代になると、大黒屋という旅籠のお菊という女性が重い病に臥せり、この神社に平癒祈願をしたところ見る見るうちに元気になったそうです。

その後、お菊は神社の巫女になり様々な人々のお役に立ったとところから「於菊稲荷」と云われるようになったと伝えられております。

新町宿

宿の通りです。

今ではバイパスが通っているため静かな裏街道になっております。

高瀬屋跡

文化7年に俳人小林一茶が信州に帰る途中にこの宿に泊まったそうですが、川留めに合い、一茶の「七番日記」に、すやすやと寝て居たら、常夜燈建設費として乏しい懐から銭12文を無理やり寄付させられたと記されております。(12文は500円くらい)

その時の句が「手枕や 小言いうても 来る蛍」と書かれています。

寄付など嫌だと言ったのにまた取りに来た・・・蛍は町の住人か?

宝勝寺

真言宗寺院で天文11年に義尊により開山され、寛文2年荷清元を中興開山としております。扁額には「落合山」とありますが、大正7年に高尾山の飯縄大権現を奉安してから、地元では「高尾山」と呼ばれております。

小判供養塔

珍しいお金の供養塔がありました。

昭和4年の水道工事中に、小判の入った壺が見つかり大騒ぎとなったそうです。

町民の見守る中で、協議の結果発見者、土地所有者、旧地主、旧借家人に分配されたそうです。

この小判は誰が・・・というのが大方の疑問として残ったそうですが、いまだに解明されないといいます。

一番有力なのは、加賀前田藩が国元から江戸へ大金を届ける途中に盗難に合い勘定方が切腹するという騒動があったそうで

その時の小判ではないかと噂になり、小判を貰った人達も気持ちが良くなく、この小判供養塔を建立したと云われております。

本陣跡

小林本陣跡といわれておりますが、この標識が一本立っているだけであとは何も残っておりませんでした。

現在も子孫が残ってここに生活をしているそうです。

芭蕉句碑

貫井川のほとりに小さな弁財天を祀る祠があり、この中の島に清水が湧いており旅人の喉を潤していたそうです。

「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」と芭蕉が詠んだと伝えられております。


宿を外れて

今は裏街道として地域の方々の生活道路といった風です。

伊勢島神社

元は稲荷神社だったそうです。

常夜燈、庚申塔、不動明王、宝篋印塔など石造物があるそうですが、鳥居の前でお参りしただけで寄りませんでした。

街道

立派な標識がありました。

堤防

堤防が街道になっておりましたが、見晴らしはよく気持ちよく歩くことができました。

上毛三山や浅間山も見えました。

渡し

江戸時代の渡しがあったと云われているところです。

今は何もありませんので、「ここあたり」といった説明でした。

見晴らしは最高でした。

供養碑

天明の浅間山の噴火で犠牲になった方々を供養するために点てらえました。

この噴火では、江戸まで火山灰が飛んだそうで、当時の傘屋さんが大儲けをしたそうです。

江戸まで・・・このあたりは石が降ったのでは・・・

倉賀野宿

昼食後に倉賀野宿に入りました。

倉賀野宿は、日本橋から12番目の宿場で、江戸から二日半の行程であったそうです。

ここから、日光例幣使街道が分かれております。

宿場としてばかりではなく、利根川水系最後の河岸でも物資輸送の拠点として栄えたそうです。

閻魔堂

中山道と日光例幣使街道の追分に建っており、今では、倉賀野宿のシンボル的な存在になっております

道しるべ

中山道と日光例幣使街道の分岐点建っており、「従是右江戸道 左日光道」と刻まれております。

常夜燈

道しるべの後ろに建っており、文化11年に高砂屋文之助が建立しましたが、面白いのは、その寄進者312名の中に、雷電為右衛門や松本幸四郎の名があることです。

どんなご縁で寄付をお願いしたのかを知りたい・・・

おもてなし館

古民家を利用したおもてなし館ができておりました。

地域のボランティアの方々によって運営されているようです。

お抹茶セットを注文したら時間が掛かるといわれましたが、なんで時間が掛かるのか不思議・・・凄いお抹茶が出てきました。

 

内部

改造してオープンしたそうです。

土間と座敷があり、到着すると係りの方が宿場の案内をしてくれました。

外壁

なまこ壁のきれいな外観でした。

本陣跡

ここが倉賀野宿野本陣跡ですが、今は大きなドラックストアーになっておりました。

広い敷地をそのままで営業しております。

道標

ここは問屋場跡で、大名や公用の荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていたそうです。

倉賀野宿は、上町、中町、下町それぞれに問屋場が有ったと云われております。

脇本陣跡

脇本陣は須賀家が道を挟んで営んでおりました。

現在の建物は明治中期のものだそうで、連子格子にうだつを上げた母屋は宿場の雰囲気をよく伝えてくれます。非公開

脇本陣の碑

表には碑がありますが、中は非公開です。

牛の道

この通りは牛が荷駄を運んだ道だそうですが、牛の道があるくらいですから、馬の道もありました。

牛は歩くのが遅いために、牛と馬を分けたそうです。

この道の先で、馬の道と合流するそうです。

高札場

何処の宿場にもあります。

人々の目に触れやすいように、高いところに札を掲げるので高札場といわれておりますが、ここ高札場は、ちょっと小さ目でした。

倉賀野駅

今回のゴール地点に到着です。

歩いた距離は13k

歩いた歩数は19,334歩

雨の予報でしたが降らずに良かった・・・よく歩きました。

コメント (2)
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