tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

中山道「倉賀野宿から高崎宿」まで

2020-11-16 17:02:20 | 中山道六十九次散歩

11月16日(月)

今日の日中の気温は10月上旬だったそうです。

こうした気温の変化は、年齢を重ねた人たちにとっては辛いところがあります。

先日歩いてきた「中山道六十九次」備忘録をまとめたいと思います。

11月14日土曜日に中山道を歩いて来ました。

本陣跡

ここが集合場所になっておりました。

倉賀野本陣跡ですが、今は、ドラックストアーなっております。

倉賀野城址

鎌倉時代、武蔵国の児玉党が倉賀野氏を名乗り活動を始め、その一党の子孫が倉賀野城を築いたと云われております。

その後、戦国時代になると、上杉氏、武田氏、北条氏の勢力の狭間で苦しんでおりましたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城し降伏と共に廃城となりました。

今は、かりがね公園となり市民の憩いの場になっております。

倉賀野城址から

城跡のすぐ下を烏川が流れ、よき防衛になったと思われますが、景色としても素晴らしい眺めとなっておりました。

倉賀野神社

倉賀野神社は、倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守で、旧社銘は「飯玉宮」といいましたが、明治になって国策として、近隣数社を合祀して倉賀野神社となりました。

この日は七五三の参拝が多く、小さな花嫁さんを見ているようでした。

倉賀野宿

倉賀野宿街道ですが、今は国道18号になっております。

享和年間の記録によると、家数453軒、旅籠64軒、人口2156人だったそうです。

安楽寺

このお寺は、天台宗延暦寺の末寺で「七仏薬師」の名で知られております。

天平9年(737)の開基という伝承あるお寺さんです。

古墳

寺の裏には円墳があり、「安楽寺古墳」と呼ばれております。

気持ちが良いほどよく掃除されたお寺でお参りしてホットいたしました。

一里塚

倉賀野一里塚で、日本橋から25番目です。

今はそれらしい物は何一つ残っておらず、ここらしいという程のものだそうです。

浅間山古墳

典型的な前方後円墳で、千数百年前の豪族の墓といわれておりますが不明・・・

四世紀末の築造とされており、全長172mという巨大なもので二重の濠を巡らした県内で二番目の大きさを誇っております。

板碑

板碑が一か所に集められておりました。

多分あちこちに放置されていた板碑を集めてきたもののようですが、あと数年たつと時代が付いて、それらしくなるかも知れません。

古街道

私はいつも最後尾を歩いておりますので、皆さんの後を歩いておりますが、突然先頭が右に曲がりましたのでそのまま付いて行くと、このまま何方かの家に入って行ってしまうのではと思うほどの道でした。

何と旧中山道だそうです。

こんなに狭かったんだ・・・

高崎宿

高崎宿は、慶長三年に井伊直政が箕輪から高崎に城を移したときから城下町と宿場町の双方を担う役割を持って生まれました。

家数837軒、旅籠15軒、人口3235人と記録が残っております。

江戸時代「お江戸みたけりゃ、高崎田町」と唄われたほどの賑わいだったそうです。

高崎宿に入りしばらく歩くと、あら町交差点になりました。

この交差点近くに「諏訪神社」という小さな祠がありましたが、これが、小さいながら立派な社を持って風格のある神社でした。

諏訪神社・・・これからずっと先に本社本殿を訪ねるはずです。

市役所展望台

今回の昼食は、高崎市役所展望台のレストランでした。

個室のような部屋で静かに昼食を頂いて、食後には、上毛三山や浅間山を望む大パノラマです。

ひと時のくつろぎを得て、再び歩き始めました。

高崎城址

高崎城は、井伊直正により築城され、甲信からの防衛の要としての役割を持っておりました。

今は城址公園として市民の憩いの場になっております。

城の遺構はほとんどがありませんでしたが、昭和になって乾門が作られ城址公園の面目躍如と云ったところでです。

大信寺

大信寺は、元亀元年建立の浄土宗の寺院で、街の真ん中にありビルに取り囲まれております。

ここだけが、空が広がって何となく不思議な光景です。

大信寺

大信寺は、「駿河大納言徳川忠長」といえば、歴史好きな人は直ぐに解ると思います。

二代将軍秀忠の次男に生まれながら、言行粗暴、大逆不遜という罪でここ高崎城に幽閉蟄居となりました。

時の城主安藤重長が何度も赦免を願い出るも認められずに、寛永10年に切腹を命じられ28歳の若さでこの世を去った人物です。

死後43年たった延宝3年の4代将軍家綱の時に免罪されようやく墓石を建立することができたといいます。

徳川忠長の墓

立派なお墓でしたが、罪を得て実の兄から切腹という命を受けて、どんな気持ちでいたことでしょう。

恵徳寺入口

曹洞宗の寺院

寺の由緒によると、井伊直正の伯母の菩提を弔うために建立しましたが、高崎に城を移すことになり、この寺も一緒に移築されたといいます。

開山は永潭禅師によるもので、井伊直政に高崎という地名にするように進言したお坊さんでもあります。

恵徳寺

当時の高崎は、和田といわれておりましたが、直政が「和田を松崎に変えたいが・・・」というと、禅師は「松は枯れることがあるが、高さには限りがないので高崎はいかが・・・」と進言して高崎という地名が誕生した事になります。

高崎神社

高崎神社は、高崎になる前の和田城主が、熊野権現を勧進して「熊野神社」として創建されました。

その後、井伊家がここ高崎に入ると、大々的な町作りがなされ、その時に現在の地に遷座されましたが、明治になって、周辺の36社を合祀して高崎神社と改称されたといいます。

ここも、七五三のお宮参りで賑わっておりました。

長松寺

曹洞宗寺院で、開山されたと当時は臨済宗だったそうですが後に改宗されました。

享保11年に全焼しましたが、寛永元年に再建されたそうです。

この寺には、徳川忠長の切腹の間が高崎城から移築されて客殿になっているそうですが、今回は寄って貰えなかった・・・

中山道

常磐町問ところですが、何となく往時の面影を残しております。

中山道標識

道々にこうした道標が出ておりますので、迷わずに進めると思います。

君が代橋親柱

君が代橋という名前は、明治11年9月に明治天皇が北陸御行幸の際に、馬車で木造の橋を渡られた事を記念して命名されたといいます。

この親柱は、昭和6年に木の橋から鉄橋に架け替えられる時のものですが、昭和53年より三層構造のインターチェンジが建設され、君が代橋も新たに架け替えられ、その際に親柱だけ記念に移築されたものです。

君が代橋全景

中山道からこの君が代橋に出るのは少し解りづらいと思います。

知らないで歩いていると、車用の道を歩いてしまいそうですので、あそこは、もう少しこまやかな案内板があると親切だと思います。

君が代橋

君が代橋の中ほどです。

強烈な西日の逆光で写真も良く撮れませんが、もうすぐゴールです。

万日堂

このお堂は、かっては中山道に面しておりましたが、昭和56年に君が代橋が改良工事のために現在地に移転されました。

万日堂のご本尊は見返り阿弥陀仏像で、檜の寄木作りになっております。

京都の永観堂の見返り阿弥陀仏が有名ですが、この高崎にも見返り阿弥陀仏があったのです。

永観律師が諸国を行道念仏をしておられた時に、つい眠くなって立ち止まってしまったところ、本尊が「永観遅いぞ!」と後ろを振り返ったそうです。

そのお姿こそが、見返り阿弥陀仏としてここに祀られているそうです。

 

おもしろい 夢見る顔や 涅槃物   鳥酔

という句碑があります。

烏川の川原

ここ君が代橋が今回のゴールです。

夕日にススキが光るように輝いておりました。

中山道はまだまだ続きます。

コメント (4)
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