伊賀上野が元気になればいいなあ!

上野の城下町、どうなっていくんだろう、、、見守る元気はないけれど、静かに生きていこうと思う(笑)。

ちょっとつれづれに

2007-12-24 14:13:16 | みなさんにおしらせと独り言
私信になりそうですが、休日を新聞など読みながら・・・

息子が来春から教職につきますので、今の子どもたちのことは多少なりとも気になります。
そこで目に留まった記事。
『「多動性障害(ADHD)で国内初の治療薬」が発売。』

脳内の神経伝達物質の働きを活性化し、ADHDの症状が緩和される、とのこと。
学校へ実習に行きましても、どうしても1対1の対応をしてあげないと、集団生活には困難があって、子供も先生も必死のようです。

参考ブログ⇒こちら

もうひとつ『限界集落』というキーワード。
限界集落とは、「住民の高齢化率(65歳以上の割合)が50%を超え、共同体を維持する地域の協力関係が衰えた集落」ということです。
我が上野の中心市街地の町にもこの『限界集落』といわれる小さな町がいくつかあります。
何もせずに放っておいていいのか、やっぱりみんなで何とかしたいね、と考えるのか・・・
何かのヒントになれば、ということで⇒こちらをどうぞ

熊野古道と伊賀の接点

2007-12-24 09:20:09 | みなさんにおしらせと独り言
M新聞朝刊の連載記事ですが、「熊野古道」の歴史が隔週ですが載っています。
今回は何?と読んでいましたら、以下のような内容です。



『赤木城跡(146)』三重県熊野市紀和町赤木


赤木城の築城年代については和歌山藩が編纂した「紀伊風土記」には寛文雑記を引いて天正年間、藤堂佐渡守(のち和泉守高虎)と、羽田長門守の両人が北山代官のとき築き、罪を犯した者を赤木城の西方の田平子峠で斬首し獄門にしたと記している。また、熊野市神山の倉谷家文書には、天正16年(1588)大和大納言(豊臣秀長)の北山攻めの後、築城したとある。
藤堂佐渡守は天正13年の紀州攻めの際北山入りし、文禄4年(1595)四国伊予の三郡を与えられるまでの11年間北山付近に在居し、この間二度の北山の陣で一揆方を成敗したり北山材の切り出しを行っているのでこの頃に現在の城郭に整備したものと考えられる。(案内板より抜粋)
この写真の提供ブログ

藤堂高虎が作った城郭ということで、伊賀上野城の堀とつい比べて見ていましたが、背景を知ると戦国時代から太平の世の中への通過点では、けっこう残酷なことが行われていたということですか。

歴史のことは詳しくないので、あまり突っ込まないでください。
こういう所へも行きたいな、と思っただけなんですが歴史を知ると・・・