さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

会津坂下町の遺跡 [政所のあった場所]

2021-04-24 | 日記

今私の住んでいる集落は中政所といいます。坂下町で政所という呼び名のついた集落は下政所・中政所・上政所の三カ所があるんです。

 私のような学識も見識もない者でも、なんとなく政所は荘園や所領の政務や軍務や庶務をつかさどるところらしいことはおぼろに分かっていました。そして集落の政所の呼び名の由来はどうやら下政所にあるらしいと言うことを誰かに聞いたような気ががしていました。でも正直あまり関心などなく、ふーんとばかり思っていました。

ところが私にとってはすごい貴重な和とじの書籍が2冊手に這い入ったのです。

 

私たちの町には考古・歴史・民俗・動植物などの博物などまでの豊かな知識と高い見識をお持ちで研究・教育・保存・ 顕彰などにご活躍なさっていらしゃる古川利意(としい)先生がいらっしゃたんです。その業績で「瑞宝双光章」の叙勲までお受けになられました。でも残念なことに昨年お亡くなりになりました。 

先生は遺跡の発掘調査などお忙しいなかで日本共産党会津坂下町委員会の発行する赤旗の読書ニュース「あらぐさ」に毎回貴重な町の考古・歴史に関する記事を連載されてその記事は500回を越えていたと聞いています。しかもお亡くなりになる直前までその記事を書いていらしゃっていて先生がお亡くなりになっても「あらぐさ」での連載はしばらく続きました。

でも、その貴重な資料は記録保存されてるわけではないので散逸してしまう恐れがありました。それを恐れた「ぶつぶつくらぶ」のお仲間が「会津坂下町の歴史」という自家製の和とじの書籍二冊にまとめてくださったのです。本当に貴重で大変なお仕事だと感動しているんです。

その「会津坂下町の歴史の巻一」の「その四十四」の項に「政所」という記載があり政所の由来が書かれていました。

その記事を読ませていただいて、下政所にある政所の跡地のことを知り訪れて感慨を深めカメラにおさめることが出来ました。

以下は「四十四 政所」の全文です。貴重な内容だけでなく古川利意先生の心豊かなお人柄を感じることができるので掲載してみます。

その四四 政所 [1194.1.1]
  政所のあった場所には、現在重福寺というお寺があります。この付近に立って地形を眺めて見きます。
 重福寺の南には民家があり、東には道路が走っていて、元の形は幾らか失われていますが北と西にははっきりとした堀のあとが残っています。重福寺のある場所は、かつては四方を堀で囲まれた場所にあったわけです。重福寺の北は畑になっていて、この畑は小さい区画に幾つも区切られています。このことは所有者が多かった証拠で、ひょっとしたら遠い昔は下政所の共有地であった可能性があります。
 重福寺の西の一段低い水田は、これとほぼ同様の高さでずっーと南に続き、雷神の祠のあるところまで続いていました。そしてその西には先にあげた白旗八幡神社があったのです。

 八幡神社の南には、東西に道があります。この道は鶴沼川を越えて八日沢から勝負沢を越え、越後に通じる主要な街道であった時期があったものと考えられます。政所は鶴沼川の水運とともに、交通の要衝に位置していたのです。

 観応三年(1352)会津坂下町勝方の代官 薄景教が、この政所を攻めた記録があります。時代は足利尊氏のころ、政所を攻める理由は何処にあったのでしょうか。 

四四 政所の項の記述は以上ですけど、「四三 宮の北遺跡」では白旗八幡神社及びその近辺の大事な記載があります。後日取りあげて見るつもりです。

昨日政所のあった場所を西側から撮りました。中央に見える屋根が重福寺の屋根です。

現在は周りの堀跡は水田になっ場所を西側から撮りました。水田に水が入ると政所の濠だった様子がよくわかります。昨年の5月に撮りました。

地形はその後大掛かりな水田の基盤整備が行われましたので先生のお書きになられた1194年とは少し変わっているなと思う所もありました。