飯豊連峰の白雪が輝いて見えました。
こんなに大気が澄みきって飯豊連峰がこんなに綺麗に見えたのはほんとに数年ぶりなんですよ!。60年ほど昔私がまだ30数歳昭和30数年(1960)の頃、私は奥会津只見から会津坂下町にきてお世話になっているんです。
その頃は自然が豊かでしたね、夜になると満天の星 星 空いっぱいに天の川がながれ、北極星・北斗七星のおおぐま座こぐま座、カシオペア。スバルなどがはっきりと見えました。今は月と金星と火星くらいがやっと見えるだけです。
もちろん飯豊連峰も磐梯山も澄みきって見えました。山太郎の私は近くの尾根道を歩くのが好きでした。すると頭の赤いキツツキ(あかげら)や山鳥や黒い羽の大きな蝶なども見ることが出来ました。秋の夜はコオロギやキリギリスやスズムシだって野生でいたんですよね。
そうそう、冠婚葬祭は集落の人の援助で全部自宅でしたね。わたしなど只見にいたときなど近くのお葬式に六尺(墓ほりの仕事をする下人)を頼まれてぼろの仕事着で蓑笠で4人で葬列の真ん中で棺を担いで墓までいき、皆さんが墓をさったあと墓棺を埋めて綺麗にしまつしました。4人で棺を担ぎながら「なむあみだんぼ」ととかわりばんこ唱えながらね、葬列のみんなはその声に個人の冥福を心に祈ったのです。蓑笠の姿でしたけど四人の六尺は葬列の中心でした。六尺に選ばれると言うのは若者の最高の名誉でした。
あの頃は貧しかったけど、でも自然と人情が豊かでしたね。昔と今とどちらがいいのか私も良くはわかりません。
でも只見では茅屋根が古くなると集落の人みんなにふれて集落の人みんなが自分で蓄えておいて茅を持ち寄り茅葺き職人を助けました。ごくごくあたりまえのようにね。
集団でのいじめなどガキ大将がいて許しませんでた。病気でもなければ若者の閉じこもりなんてのもありませんでした。ほんとどちらがいいんでしょうね、やっぱり朝おきて栓をひねるとお湯がでる今の生活のほうがいいにきまてますけどね、・・・でもなんかね・・・