前回の続き。
名人3連覇中の「棋界の太陽」中原誠名人(十段・王将・王位)に、「怒涛流」大内延介八段が挑んだ、1975年第34期名人戦。
3勝3敗(1千日手)のタイでむかえた最終局は、中原の軽率な手を大内が見事にとがめて、序盤で挑戦者が圧倒的優位に立つ。
ふつうに見て先手優勢、いや下手すると必勝とも言えるの局面だが、名人をかけた一戦となれば、ここで投げてしまうわけにもいかない。
後手は飛車を△31に転換し、△35歩から美濃囲いのコビンをうかがってチャンスを待つが、駒の数や働きなど勢力差がありすぎて、焼け石に水といったところ。
一方、盤上を制圧した大内は、ここから「名人へのプレッシャー」との戦いだ。
この一番はとにかく有名で、昔の本や雑誌などで何度も取り上げられているが、夜、大内が緊張で眠れないでいるところ、中原の部屋の明かりが目に入り、
「名人も眠れないんだな」
また中原も、名人を失うかもという恐怖にまんじりともできなかったが、やはり大内の部屋に明かりがついているのを見て、
「大内さんも寝られないのか……」
敵だって苦しんでいるんだと、崖っぷちながら勇気がわいたとか、このあたりの様子は一級の心理小説のようでもある。
長く、苦しい一夜が明け、勝負は再開。
相変わらず、大内必勝は変わりないが、将棋は意外なほど長引いている。
大量失点こそあったが「あと1点でコールド」というところで、中原は必死にふんばり、なかなか決め手をあたえないのだ。
だがそれでも、さすがに差がありすぎて、少々盛り返したところで、やはり大内勝ちは動かない。
そして、クライマックスとなったのが、この場面。
先手玉は相変わらず安全だが、後手玉はすでに相当危険な形。
逃げ出そうにも、▲24の金が右辺を封鎖していて、身動きが取れない。
ここで先手に決め手があり、5手1組の好手順で、後手玉は寄り。
「大内名人誕生!」
だれもがそう確信したとき、まさかというドラマが起こった。
▲71角と打ったのが、まさかのうえに、もうひとつ、まさかのつく大失着。
ここでは、▲45歩と突き、△同銀、▲44歩、△同銀と、下ごしらえをしてから▲71角と打てば、それで「大内名人」だった。
しかも、大内はそれを、しっかりと読んでいた。指すつもりだった。
にもかかわらず、▲45歩と突こうとしたところで、なにかに魅入られたよう、先に角を打ってしまったのだ。
この場面のこともまた、様々な人が書いているため、私のように観てもいないのに、流れをおぼえている人も多いのではあるまいか。
▲71角が放たれると、中原はしばらくして席を立った。
その姿が消えたところで、大内は思わず、
「ばかな」
そう口走り、なんと立会人である塚田正夫九段に、
「しまった、先に▲45歩と突くんだった。それで決まってたでしょ」
公式戦で、しかもタイトル戦の終盤戦で、対局者が立会人に意見を求めるなど(大内は思わず言ってしまったのだろうが)、絶対にありえない光景である。
もちろん、塚田もおどろいたが、平静を装って無言。
大内は茫然。このシリーズは、この一瞬のために存在したといっても過言ではないほどの、濃密なやりとりだった。
将棋はここから、まだまだ続くのだが、実質ここで終わりなのは、しばらく、ひとりで盤にむかっていた大内も理解していただろう。
▲71角には△24銀と、押さえの金をはずせるのが大きく、▲82角成、△65歩、▲同銀、△37歩成、▲66玉に△34玉。
大海に泳ぎだして、これで後手玉はつかまらない形に。
角を打ってからこのかたの、大内の気持ちは、いかばかりだったろう。
この「中原の離席」は有名な習性で、おそらくは勝負術でもある。
相手が悪手を指した瞬間、浮足立たないよう、一回手洗いに立って気を静める。
これは単に、よろこんで浮ついた手を指さないよう、インターバルを入れるのみならず、残された方は自分の指した悪手と、一人対峙させられるという効果もある。
将棋と言うのは不思議なもので、見落としやポカは、このときの大内のよう指したその瞬間、まさに、駒から指が離れるか離れないか、というタイミングで、
「あ!」
となるものなのだ。
そこで、待ってましたと目の前から消えられると、「やらかした」方からすれば、もう地獄の時間である。
無人の対面から、こう突きつけられるのだ。
「よく見ておけ。お前は今、取り返しのつかないヘマをやらかしたんだぞ」
こんなことをされては、とてもその後を、まともな状態で戦えるわけもない。
「反省タイム」なんて、軽い言葉では表現できないほどの、まさに拷問である。
圧勝のはずの将棋を、持将棋で逃げられた大内は(棋譜はこちら)、再決戦となった第8局を落として、九分九厘手中に収めていたはずの名人位を逃す。
この第8局はおかしな将棋で、子供のころ棋譜を並べたとき、素人目にも覇気が感じられなかった。
投了図も変な形で、とても名人を決める一番とは、思えなかったのをおぼえている(棋譜はこちら)。
第8局の投了図。大内が力を発揮できなかったのが、姿焼き状態の穴熊や、△31に取り残された銀などに見て取れる。
それだけ、あの「▲71角」のショックが、尾を引いてしまったのだろう。
大内自身の言葉によると、
「なんか魔力につかれたというか、自分自身でも想像もつかない、どう理解していいか判らない現象が起きた。魂も何もない抜け殻が一手指したという感じだ。そして指した瞬間、ビシャーッという氷のような冷たい汗が出て我に返った」
その後、大内は棋王獲得や、全日本プロトーナメント(今の朝日杯)で、中村修王将を破って優勝するなどすばらしい成績を残すが、名人戦には縁がなかった。
ものの本によると、
「これで大内は、自分は名人になれないと、運命を悟ってしまったのだ」
みたいなことが書かれてたりして、本当に大内がそう思っていたのかはわからないが、この「運命」という考え方が、昭和の名人戦に大きくかかわっていたことは否めない。
これが現代なら、大内は敗れたことに大きなショックを受けただろうが、それでもしばらくすれば持ち直し、もう一度名人戦に登場したのではあるまいか。
そしてそのとき、ふたたびこのシリーズのような将棋を披露できれば、充分に「大内名人」の可能性はあったはず。
現代で、豊島将之九段や木村一基九段が失意の底から、はい上がったように。
そうならなかったのは、やはりどこか周囲もファンも、なにより大内本人すらも、
「名人は神様に選ばれた者だけがなれる」
という無言の縛りに、とらわれていたからではないか。
そう考えると、もったいないような、でもそれが将棋史の神秘性に寄与する「物語」としてはうまく機能しているような、なんとも複雑な気分になってしまうのである。
(【63歳】大山康晴、最後の名人戦編に続く→こちら)