前回(→こちら)の続き。
「人生がつまらない」。
という悩みをかかえている人に、
「キミィ、今すぐ舞台に立ちなさい!」。
そう、北方謙三の「小僧、ソープへ行け!」ようなアドバイスを送り、
「でも、才能なんてないし……」。
という逡巡に、「んなもん、なくても楽しけりゃあええがな」と無責任に答えた私。
別にプロにならなくても金にならなくてもいいではないですか。
もし、才能がなかったりそれで食えない人がみな「負け犬」ならすべての趣味やアマチュアスポーツなんかを否定してしまうことになる。
「表現活動」のみが、なぜにて「才能もない」やつを閉め出すのか。
そのことを変だと昔から感じており、かつ「創作」をこんなおもしろいことは他にないと思っているので、ここに「別にええやん」な主張をしているわけだ。
というと、ここでもうひとつ、表現活動にまつわるハードルがあらわれることとなる。それは、
「なにを表現していいかわからない」。
これはなかなかに根深い問題である。
なんといっても大槻ケンヂさんのようなプロの創作家すら自らのことを、
「本当は自分の中に表現したいことなどなく、ただ『したい』という衝動だけが存在するのではないか」
なんて悩むくらいなのだ。
ではこれに関しては難しいところもあるのかといえばそんなことはなく、解は簡潔である。
「だれかのマネをする」。
これでいいんである。
好きなもののマネをすればよい。というと、「パクリかよ」なんて醒めたことをいう人がいるかもしれないが、最初はそれでいいのです。
創作というのは、これすべて模倣からはじまるというのは、人類開闢以来の真理である。
売れっ子のバンドだって、最初はコピーバンドからスタートだったりするし、絵を描く人だって、自分の好きな画家の絵を熱心に模写する。
落語なんて、数百年単位でずーっと同じ話を口伝でやっているのだ。シェイクスピアなど、古典演劇しかり。あれなんかも、「マネ」といえばそうであろう。
それは、技術力をあげようという教本代わりかもしれないが、それよりもなによりも、その音楽が、絵が、「ものすごく好き」だからに他ならない。自分も、こういうものが作ってみたい! という、情熱につき動かされてのものであるのだ。
すぐれた作品というのは、だれかにマネしたいという衝動を起こさせるものなのです。
まずは、そこからでよいのでは。それを続けてると、そのうち人によっては「自分で創ってみっか」という気になるかもしれない。
最初はまねっこ。むずかしく考えず「歌ってみた」でよいのだ。
私だって最初にやった「表現」は図書館で借りた落語の本とダウンタウンの漫才(!)の丸暗記であった。
思えば、私もあれやこれやと色々やってみたものである。
自主映画を作ってみたこともあるし、文芸同人誌を作って、読者獲得のために大阪中を走り回ったこともあった。
企画を出したり、原稿を書いたり、編集や製本をしている間ずっと心が高揚して満ち足りていた。
それだけではない。なにかを創ることは、その過程でも様々なものも得られることもある。
友情もあれば、先輩や後輩にも恵まれた、熱くなれることのよろこびもあれば、たまさかファンがついて声をかけてくれることもあった、淡い恋もした。
その過程で、様々な『表現したいさん』と出会うこともできた。
それは年齢も性別も、仕事や学校も実に雑多な人たちがそろっていて、プロ志望の子もいれば、本物のプロもいた。
趣味でやってるおばさんもいる。学校の部活や課外活動の一環でやってる子もいれば、礼儀作法をおぼえるよう親にすすめられてとか、引っ込み思案な自分を変えたいとか、「表現」とはまったく関係ない動機の人もいた。
ただただ虚心に楽しんでいる人もいれば、仲間と会うのがいいという人もいる。
中には、その活動を通じて人生がどんどんおもしろい方向に転がっていく、目に見えて変わっていく人もいた。
人見知りで、だれかと話すと真っ赤になってしまうキョウコちゃんは、出会って3か月後、あいさつするとはにかんだような笑顔ではっきりと「お疲れさまです」といえた。
友達が増えたとよろこぶ子もいた、迷っていた進路を決めるきっかけになる子もいた、ゆるせん……もとい、おめでたいことに未来の伴侶を射止めた人もいたのである。
「やりたいことがない」と悩んでいたモトコさんなど、舞台女優になる決心をして周囲を驚かせた。
そのため、会社まで辞めてしまったのには私をふくめ周囲も心配したが当の本人は、
「どうせやめるつもりだったから。ストレスでおかしくなりかけてたところだったから、いいきっかけになったね」
さばさばしたものだった。
そんな人を見ていると、やはり人生がつまらないと鬱々している人はもったいない。
再三いうが、私は別に才能なんてものに恵まれているわけではないし、プロを目指していたわけでもない。
ただただ、自分が楽しかったことと、数々の「マネしたい」「こんなもん見せられたら、なにかせなしゃあないやん!」と身もだえするような作品と出会ってこれただけのことだ。
はたまた周囲にそういう「表現したいさん」が結構な数いたから、その影響を受けてやっていただけである。特別なものなどなにもない、ただのドのつく素人だ。
にもかかわらず、そうやって多くのものを、おそらくは金以外のほとんどのものは、そこで手に入れられたのではないかと確信している。実り多き時間である。
だからこそ、強く思うのだ。こんな素敵な方法は、ぜひともみなにも伝えたい。人生がつまらないといういう人や、生きることが息苦しい人は、だれかと何かを表現するべきである! と。
今ならネットやスマホによって、技術的、また人材の発掘的ハードルは昔より格段に下がったはずだ。
みなさん、一刻も早く舞台に立とう!
★おまけ。
私の大好きな映画『世にも憂鬱なハムレットたち』の主題歌「WHY MUST THE SHOW GO ON」(→こちら)。
「表現」することによって人がなにかを得、回復していく素敵な物語。
「人生がつまらない」。
という悩みをかかえている人に、
「キミィ、今すぐ舞台に立ちなさい!」。
そう、北方謙三の「小僧、ソープへ行け!」ようなアドバイスを送り、
「でも、才能なんてないし……」。
という逡巡に、「んなもん、なくても楽しけりゃあええがな」と無責任に答えた私。
別にプロにならなくても金にならなくてもいいではないですか。
もし、才能がなかったりそれで食えない人がみな「負け犬」ならすべての趣味やアマチュアスポーツなんかを否定してしまうことになる。
「表現活動」のみが、なぜにて「才能もない」やつを閉め出すのか。
そのことを変だと昔から感じており、かつ「創作」をこんなおもしろいことは他にないと思っているので、ここに「別にええやん」な主張をしているわけだ。
というと、ここでもうひとつ、表現活動にまつわるハードルがあらわれることとなる。それは、
「なにを表現していいかわからない」。
これはなかなかに根深い問題である。
なんといっても大槻ケンヂさんのようなプロの創作家すら自らのことを、
「本当は自分の中に表現したいことなどなく、ただ『したい』という衝動だけが存在するのではないか」
なんて悩むくらいなのだ。
ではこれに関しては難しいところもあるのかといえばそんなことはなく、解は簡潔である。
「だれかのマネをする」。
これでいいんである。
好きなもののマネをすればよい。というと、「パクリかよ」なんて醒めたことをいう人がいるかもしれないが、最初はそれでいいのです。
創作というのは、これすべて模倣からはじまるというのは、人類開闢以来の真理である。
売れっ子のバンドだって、最初はコピーバンドからスタートだったりするし、絵を描く人だって、自分の好きな画家の絵を熱心に模写する。
落語なんて、数百年単位でずーっと同じ話を口伝でやっているのだ。シェイクスピアなど、古典演劇しかり。あれなんかも、「マネ」といえばそうであろう。
それは、技術力をあげようという教本代わりかもしれないが、それよりもなによりも、その音楽が、絵が、「ものすごく好き」だからに他ならない。自分も、こういうものが作ってみたい! という、情熱につき動かされてのものであるのだ。
すぐれた作品というのは、だれかにマネしたいという衝動を起こさせるものなのです。
まずは、そこからでよいのでは。それを続けてると、そのうち人によっては「自分で創ってみっか」という気になるかもしれない。
最初はまねっこ。むずかしく考えず「歌ってみた」でよいのだ。
私だって最初にやった「表現」は図書館で借りた落語の本とダウンタウンの漫才(!)の丸暗記であった。
思えば、私もあれやこれやと色々やってみたものである。
自主映画を作ってみたこともあるし、文芸同人誌を作って、読者獲得のために大阪中を走り回ったこともあった。
企画を出したり、原稿を書いたり、編集や製本をしている間ずっと心が高揚して満ち足りていた。
それだけではない。なにかを創ることは、その過程でも様々なものも得られることもある。
友情もあれば、先輩や後輩にも恵まれた、熱くなれることのよろこびもあれば、たまさかファンがついて声をかけてくれることもあった、淡い恋もした。
その過程で、様々な『表現したいさん』と出会うこともできた。
それは年齢も性別も、仕事や学校も実に雑多な人たちがそろっていて、プロ志望の子もいれば、本物のプロもいた。
趣味でやってるおばさんもいる。学校の部活や課外活動の一環でやってる子もいれば、礼儀作法をおぼえるよう親にすすめられてとか、引っ込み思案な自分を変えたいとか、「表現」とはまったく関係ない動機の人もいた。
ただただ虚心に楽しんでいる人もいれば、仲間と会うのがいいという人もいる。
中には、その活動を通じて人生がどんどんおもしろい方向に転がっていく、目に見えて変わっていく人もいた。
人見知りで、だれかと話すと真っ赤になってしまうキョウコちゃんは、出会って3か月後、あいさつするとはにかんだような笑顔ではっきりと「お疲れさまです」といえた。
友達が増えたとよろこぶ子もいた、迷っていた進路を決めるきっかけになる子もいた、ゆるせん……もとい、おめでたいことに未来の伴侶を射止めた人もいたのである。
「やりたいことがない」と悩んでいたモトコさんなど、舞台女優になる決心をして周囲を驚かせた。
そのため、会社まで辞めてしまったのには私をふくめ周囲も心配したが当の本人は、
「どうせやめるつもりだったから。ストレスでおかしくなりかけてたところだったから、いいきっかけになったね」
さばさばしたものだった。
そんな人を見ていると、やはり人生がつまらないと鬱々している人はもったいない。
再三いうが、私は別に才能なんてものに恵まれているわけではないし、プロを目指していたわけでもない。
ただただ、自分が楽しかったことと、数々の「マネしたい」「こんなもん見せられたら、なにかせなしゃあないやん!」と身もだえするような作品と出会ってこれただけのことだ。
はたまた周囲にそういう「表現したいさん」が結構な数いたから、その影響を受けてやっていただけである。特別なものなどなにもない、ただのドのつく素人だ。
にもかかわらず、そうやって多くのものを、おそらくは金以外のほとんどのものは、そこで手に入れられたのではないかと確信している。実り多き時間である。
だからこそ、強く思うのだ。こんな素敵な方法は、ぜひともみなにも伝えたい。人生がつまらないといういう人や、生きることが息苦しい人は、だれかと何かを表現するべきである! と。
今ならネットやスマホによって、技術的、また人材の発掘的ハードルは昔より格段に下がったはずだ。
みなさん、一刻も早く舞台に立とう!
★おまけ。
私の大好きな映画『世にも憂鬱なハムレットたち』の主題歌「WHY MUST THE SHOW GO ON」(→こちら)。
「表現」することによって人がなにかを得、回復していく素敵な物語。