丸山忠久九段の将棋を、たくさん見た6月の後半だった。
まず12日にJT杯日本シリーズの広瀬章人八段戦。
20日はNHK杯で本田奎五段戦。
22日の叡王戦の準決勝で藤井聡太王位・棋聖戦とイキのいい若手が続く。
仕上げに、26日のアべマトーナメントのチーム「早稲田」。
なかなかのハイペースで、マルちゃんファンにはたまらない季節だったろう。
マルちゃんと言えば、そのイメージは「大食漢」と筋トレ。
それに、あの「ニコニコ流」と呼ばれた笑顔に加えて、やはりはずせないのが、
「激辛流」
「友達をなくす手」
と恐れられた、手堅い勝ち方。
マルちゃんがまだ若手だったころ、たしか島朗九段が言っていたように記憶するが、
丸山忠久
森内俊之
藤井猛
の3人を「激辛三兄弟」と評していて、まあ「鋼鉄の受け」森内はわかるとしても、藤井にそんなイメージはないなあ。
とか、いつの間にかいわれなくなったけど、丸山が「激辛」なのは、これはもうたしかという、血も涙もない勝ち方を披露していたものだった。
もちろんこれは、勝ち目のなくなった相手を、いたぶって遊んでいるわけではなく、有利になった局面をまとめる、クレバーな勝ち方のひとつ。
将棋というゲームは王様を詰ませれば勝ちだが、局面によっては一気に攻めかかるよりも、「辛い手」を出した方が、結果的に早く勝てるというケースが結構ある。
相手に有効手がない局面で、手を渡したり、じっと自陣に手を入れたり。
また、遠巻きながら、敵の攻め駒を責めたりすると、さらに差が広がるだけでなく、闘志をなえさせる効果もあるのだ。
「逆転とかしないから。もう、投げなさいよ」
前回は「米長哲学」という言葉を生んだ、大野源一と米長邦雄の大熱戦を紹介したが(→こちら)、今回は丸山忠久の辛い将棋を見ていただきたい。
1999年、全日本プロトーナメント(今の朝日杯)。
決勝5番勝負の第1局。森内俊之八段と、丸山忠久八段の一戦。
後手の森内が急戦向かい飛車を選ぶと、丸山はすかさず穴熊にもぐる。
振り飛車が果敢にしかけ、飛車交換後に双方、自陣飛車を打ちあうねじりあいに突入。
むかえたこの局面。
ここではすでに、丸山勝ちが決定的である。
というと、
「え? そうなの? そりゃ大駒は先手の方が使えそうだし、玉の固さも差があるけど、振り飛車も桂得だし美濃も手つかずで、まだ全然やれるんじゃね?」
私のみならず、結構多くの人が、そう感じるのではあるまいか。
実際、アマレベルだとここから指し次いで、先手が確実に勝てるという保証はない気がする。
ましてや、ここからわずか7手で投了に追いこむなど。
しかしこれは、見た目や数字以上に、先手が勝ちなのである。少なくとも、森内はそう判断していた。
丸山の次の手が、森内の心を打ち砕いたからだ。
▲78金寄が、丸山忠久の真骨頂ともいえる手。
この手自体は、ものすごく地味な手ではあるが、玉を固め、▲68や▲59など角の活用範囲も増やした、絶対に損のない手でもある。
なにより後手側に、この手以上に価値のある手などないことを完全に見切った、「勝利宣言」とも言える一着なのだ。
「これ以上がんばっても、むくわれないどころか、もっとみじめになるだけですよ」
なんという冷たい手なのか。鬼である。アンタの血の色は、何色やと。
もちろんこれは、すべて「ほめ言葉」だ。
将棋において、最も価値の高いのは「勝つ手」なのだから。
現に森内は、ここからわずか数手で駒を投じてしまうのだから、この金寄の破壊力が、理解できようというもの。
指す手のない後手は、△44銀、▲65飛、△45桂とするが、▲86角、△25飛、▲46歩まで丸山勝ち。
早い投了のようだが、△57桂成は▲25飛と取られる。
△29飛成なども▲45歩と桂を取って、△35銀に▲53角成が、また銀当たりと、指しても後手に光明はない。
丸山自身の強さもさることながら、あの強靭な精神力を武器とする森内俊之をあきらめさせ、中押しを食らわせたというのが、えげつない。
この時期の丸山は、文字通り鬼神めいた強さで、全日プロは3連勝で森内を一蹴し優勝。
翌年には佐藤康光名人を破って、初タイトルの名人を獲得するのだ。