将棋 この盤外戦術がすごい! 大山康晴と内藤國雄の棋王戦をめぐる因縁

2020年06月28日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 大山康晴十五世名人といえば盤外戦術である。

 大山名人はかつて、ライバルたちに盤上以外で大いに「カマシ」を入れて、精神的なアドバンテージを握る戦いを得意としてきたと言われている。

 そこで今回は犬猿の仲だったと言われる内藤國雄九段に対して行った、ちょっとエグすぎる盤外戦術を紹介……。

 みたいなノリで、内藤のインタビューなどをもとに棋王戦での因縁をあれこれ書いたのだが、えーと、すいません、ここで一言。

 

 なんかそれ、いろいろ間違ってたみたいです。

 スイマセン、今から(2023年10月18日)訂正しますので、ぜひ最後まで読んでください。

 

 内容としては、1974年に「最強者決定戦」という棋戦を発展的解消させ誕生した棋王戦のこと。

 その第1回大会優勝した内藤は、タイトル獲得と、最強者決定戦よりも大幅アップされた優勝賞金に

 


 「自分も西の横綱になれた」


 

 感慨にふけっていたが、大山が会長を務める連盟からものいいがつき、



 1・タイトル戦への昇格は来期から。従って今期は第一回棋王で来期の優勝者を第一期棋王とする

 2・今期の優勝賞金は据え置き。





 つまりは「タイトル獲得」ではなく、ただの「棋戦優勝」であり、賞金アップも無いでっせ、と。

 このことが大きなショックだった内藤は、各所でこの話をしており、たとえば『将棋世界』の引退特別企画「酒よ、夢よ、人生よ さらば将棋」という語り記事でも、

 


 おまけにタイトル戦に昇格は来年から、と優勝者の顔を見てからそんなことをする。大山会長に嫌われてると思ったね。


 

 内藤からすれば、

 

 「なんぼワシのことがキライいや言うたかて、こんなヒドイ嫌がらせあるかあ?」

 

 てなもんであり、「昭和将棋界」のアクの強さを示す、ひとつの例かと思って紹介したのですが、3年後の2023年10月18日にコナーさんという方からコメントをいただきました。

 それがこの記事で、

 


 新棋戦は『棋王戦』と名付けられた。

 中原誠名人、大山康晴十段をはじめ現役の全棋士が参加する大型棋戦で、来年からは名人戦、王将戦、十段戦、王位戦、棋聖戦に次ぐ6番目の公式タイトル戦に昇格することが約束されている。

 (将棋世界昭和49年4月号より抜粋)


 

 来年からは名人戦、王将戦、十段戦、王位戦、棋聖戦に次ぐ6番目の公式タイトル戦に昇格

 ほえー、ちゃんと『将棋世界』に書いてあるやん!

 コナーさんの指摘通り、この記事は昭和49年4月号で、第1回棋王戦の決勝が、昭和49年12月から翌1月。

 「優勝者の顔を見てから」どころか、大山からすれば

 

 「先に言うてるし、専門誌にも載ってるし。なんでオレが、そんなヤカラ入れられなアカンねん」

 

 てなもんであろう。

 つまりこれは、内藤が勝手に「第1回棋王戦をタイトル戦」と思いこんで、大山に文句をつけていたということになる。

 上記の『将棋世界』の発売号数を見れば、そうとしか考えられない。

 だとしたら、これはすごいカン違いですね。

 なんて、それをそのまま紹介した私が言えた義理でもないですが、そんなことがあるんですねえ。ビックリしました。

 ということで、この「棋王戦事件」は内藤國雄九段の誤解だということが判明しました。

 お詫びして、訂正いたします。コナーさん、ご指摘ありがとうございます。

 あと、文中で「大山会長」と書いてましたが、これもコナーさんによると、

 


 大山先生が会長になったのは1976年(昭和51年)12月からです


 

 との指摘を受けただけでなく、

 

 


 間違いが多すぎて大山先生が気の毒です。


 

 いやホント、申し訳ないです……。

 キチンと調べないといけません。お気楽な感じで書いてますが、内容が内容なので本気で反省しております。

 


 この件に関しては内藤先生の勘違いなので御存命中に誤解が解ければいいなと思います。


 

 そうコナーさんもおっしゃってましたので、今回はここに記事内容を訂正します。

 幸いにといいますか、この記事は「大山 内藤」や「内藤 棋王戦」で検索すると、わりと上の方に出てくれているみたいなので、だれも読んでいない最新記事に書くより、直接こちらを直した方がいいと判断しました。

 ただ、間違ってこんなことを言うのは不謹慎ですが、好奇心を刺激されました。

 じゃあなんで、だれもこのことを内藤先生に教えなかったのかとか、すごい不思議です。

 こんなもん事情を知ってる棋士とか、ファンとかスタッフとか、それこそ大山先生と仲の良かった大御所(丸田祐三九段とか)が「内藤さん、それ間違ってるよ」と一言言えば、てへぺろですんだように見えるから。

 なんでずーっと、思いこんだままだったんだろう。そして、それを周囲は放っておいたのか。

 このあたりのことに、くわしい方がいらっしゃれば、引き続き教えていただければ幸いです。

 

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北村ヂン「ライトノベルの表紙をおじさん向けにしてみよう」とミステリ&SF新旧比較

2020年06月25日 | おもしろ映像

 「ライトノベルの表紙をおじさん向けにしてみよう」という企画がおもしろい。

 一時期、本屋さんに行くとよく思ったのが、

 「昔読んだ本が、ずいぶんと今風の表紙になってるなあ」。

 アニメ化や映画化で、その1シーンが抜粋されているものは昔からあったが、昨今では売れっ子のマンガ家やイラストレーターが、今の読者層や若いファン開拓のため、オリジナルの絵で腕を振るうケースも多い。

 私はミステリファンなので、そこから例を挙げてみると、たとえば本格推理の巨匠エラリー・クイーン。

 中学生のころからお世話になってるハヤカワ・ミステリ文庫(ハヤカワでは「エラリイ・クイーン」表記)だと、こういうの。

 

 

 

 

 ちょっと抽象画チックなのが味である。「ハヤカワ(&創元)」率が相当高いウチの本棚には、この絵面がおなじみである。

 これが今だと、やっぱ地味だよなーということで、角川文庫の表紙がこちら。

 

 

 

 


 クールなエラリー様で、なかなかカッコイイ。

 越前敏弥先生の新訳もすばらしく、これなら「読んでみよう(買い直そう)」という気になるではあるまいか。

 アニメ調のイラストは、やはりジュブナイル系と相性が良く、ミスヲタ子供読み物の定番といえば、江戸川乱歩先生の『少年探偵団』シリーズ。

 これも、自分が小学校の図書館でむさぼり読んだのが、こういうの。

 

 

 

 

 

 

 ずいぶん時代がかった「少年読み物」といった絵柄だが、おそらくこれは当時の(1930年代!)「アニメ絵」のようなもので、子供の食いつきもよかったのだろう。

 これが、今だとこんな感じ。

 

 

 

 

 

 今の子が手に取るのは、こっちだなあ。実際、乱歩先生の作品は「怖い」という印象が強いから、それでスルーしちゃう子供もいるというし。

 同じく乱歩先生では、『屋根裏の散歩者』がこちら。

 

 

 

 

 

 「春陽堂書店」版ということで、ミステリ読みにはおなじみ。グレゴリ青山さんをはじめ、レトロ昭和ファンにはたまらん一品。

 それが今だと、こうなります。

 

 

 

 


 アニメ『乱歩奇譚』のものだけど、もう同じ内容の本とは思えません(笑)。

 てか、「青い鳥文庫」あたりで明智小五郎や小林少年にふれて、「もっと読みたい!」と目をキラキラさせている子供に、春陽堂書店のを見せたら、間違いなく泣くなあ。怖いよ!

 こういった変遷に関しては賛否両論で、お笑いコンビ「メイプル超合金」のカズレーザーさんのように、

 「表紙がアニメっぽいのが苦手なんですよ」

 という人もいれば、SF作家の山本弘さんのように、

 「ハヤカワのSFなどは、以前は挿絵がついているのが普通だった(カズさんはグレッグ・イーガンなど海外SFの大ファン)」。

 と反論される人もいて、たしかにジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの大傑作『たったひとつの冴えたやりかた』は川原由美子先生のイラストがイメージにピッタリで、その魅力も三倍増し、いやそれ以上のものになっている。

 これに関しては、どこまでいっても好みの問題だけど、私自身は中身は同じなわけだし、それだったらあまりに違和感のあるモノ(まあ、これも結構あるにはあるんですが)以外は、まあいいんでないかと。

 で、こういった流れを受けて、イラストレーターの北村ヂンさんが考えたのが冒頭の

 「ライトノベルの表紙をおじさん向けにしてみよう」(→こちら

 『涼宮ハルヒ』と『三姉妹探偵団』のコラボとか、いやもう同世代くらいの「元若者」には爆笑必至。

 岩波文庫版『エロマンガ先生』なんて、よく思いつくなあ。フランス書院版もいいね! いやあ、おもしろい。

 あとやっぱり、SFの世界で最強の「ジャケ買い」といえば、これでしょう。

 

 

 

 

 


 ジェイムズ・H・シュミッツ『惑星カレスの魔女』。

 表紙を描いたのは、もちろんのこと宮崎駿大師匠。これが平積みになってたら、とにもかくにも買うことになってしまう。

 中身の方は、「まあ、そこそこおもしろいスペースオペラかな」くらいだから、この表紙による魅力の「かさ増し」感はなかなかのもの。

 でも、やっぱり買って損はさせない、すばらしい絵ではないか。積読にするだけでも価値がある。

 ちなみに、原書はコレ。

 

 

 

 

 

 アメリカンだなあ。これまた、同じ作品とは思えませんねえ。
 

 

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この盤外戦術がすごい! 大山康晴vs二上達也 1983年 第41期A級順位戦

2020年06月22日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 大山康晴十五世名人といえば、盤外戦術である。 

 『大山康晴の晩節』を書いた河口俊彦八段をはじめ、



 「大山は盤上でも盤外でも、ライバルを徹底的に叩いて、その才能の芽をつぶしてきた」



 そう語る人は多いが、たしかに大山はときに不可解ともいえる勝ち方を披露し、対戦相手や観戦者の心をざわつかせ、やりきれない「しこり」のようなものを残すのだ。

 前回は、若かりしころの加藤一二三九段との名人戦で見せた、「町人根性でいたぶ」るような、残酷な指しまわしを紹介したが(→こちら)、もうひとつ、かなり決定的な将棋がある。



 1983年、第41期A級順位戦

 大山康晴十五世名人と、二上達也九段の一戦。

 大山は二上のことをカモにしており、通算で116勝45敗

 タイトル戦でも20回戦って、18勝2敗という、とんでもない大差になっている。

 そのことをあらわすように、この将棋も大山が好きなように指して、中盤以降は大差になってしまった。

 実はこの一局、負けたほうが、ほぼ降級が決まるという裏の大一番だったが、こういう勝負将棋で、無類の強さを発揮するのが、大山康晴のすごさだ。

 そうしてむかえたのが、この場面。

 

 

 

 

 先手は美濃の堅陣がそのままで、すべての駒がさばけて、振り飛車の理想形。

 一方、後手は玉が、まるで追剥にでもあったように、裸にむかれているのにくわえ、取り残された△84棒銀が、あまりに悲しすぎる。

 ここで、先手に気持ちのいい一手がある。

 これはもう、おそらく羽生善治藤井聡太でも、駒の動かし方を覚えたばかりのアマ10級の人でも、指すのはまったく同じ手であろう。

 そう、深く考えるまでもなく、▲51飛成でおしまい。

 を作りながらの王手飛車取りで、気持ちいいことこの上ない。

 こんな手で勝てれば、最高の気分ではないか。

 

 

 ふつうなら、そこで投了である。

 間違いなく、二上もそのつもりで、この局面を選んだはずだ。

 ところが、ぶったまげたことに、大山はこの手を指さなかった

 自陣の飛車を成るところからの、王手飛車で投了。

 どう考えても、将棋にこれ以上のいい手などあるはずもないのだが、それでも大山は選ばなかった。

 代わりに見せたのが、驚愕の手だった。








 

 ▲53桂成と、▲45を成ったのだ。

 まったくの意味不明である。

 前回の加藤戦での▲14銀はまだしも、ここで王手飛車が見えない、なんてことは絶対にありえない

 その代わりが、▲53桂成

 なんじゃこりゃ。

 わけがわからんというか、もし若手棋士や奨励会員が指したりしたら、「破門だ」とか、怒られるような手ではないか。

 この手に関しては『将棋世界』で連載されて本にもなり、増田康宏六段も愛読していたという真部一男九段の『将棋論考』(超名著です!)でも取り上げられている。

 以下、少し引用してみよう(改行引用者)。


 後手の悲愴な頑張りは続くが、形勢はいかんともしがたい。

 数手進んで9図(引用者注・△42同飛の局面のこと)となった。

 次の一手は誰の目にも明らかで、そこで終了と思われた。

 だが、しかし、大山の着手は信じられない一手であった。

 ▲5三桂成△9二飛▲6三成桂まで、89手で大山十五世名人の勝ち

  この局面、よほどのヘボでない限り、▲5一飛成と指すでしょう。

 あまりに単純な王手飛車で、そこで投了となるはずであった。二上もその覚悟で△4二同飛としたのであろう。

 ところが大山は、なんと▲5三桂成と指したのである。
首を差し出したのに足をノコギリで切っているようなものだ。

 これでは二上も投げるに投げられない。

 もう一手△9二飛と指したが、▲6三成桂を見て遂に駒を投じた。

  この負かされ方はキツイ、ありていに云って残酷ですらある。

 それが勝負と云ってしまえばそれまでだが、これまでにもこれほど極端ではないにせよ、大山は幾多の棋士にこういった勝ち方をして相手にコンプレックスを植えつけながら巨大な存在になっていったとは考えられないだろうか。




 真部九段のおっしゃっていることは、河口俊彦八段と同じだ。

 「わざといたぶって、相手を徹底的に侮辱する」

 ネット将棋などで嫌われるマナーの悪い人みたいだが、その屈辱感や痛手が、二上や加藤という「将棋に真摯」なタイプには、ことさら効くことを、大山は知りつくしていた。

 彼らが盤上に描こうとする「芸術作品」に落書きをし、せせら笑いながらホワイトで塗りつぶしていく。

 同じ将棋を指すものとして、その「残酷」さが、真部九段や河口八段には理解できるのだろう。

 真部は、よほどこの将棋のインパクトが強かったのか、別の場所でも語っていて、そこでは、


 ここは▲5一飛成で二上投了となる筈。ところが大山は何と▲5三桂成といたぶったのだ。

 これでは大山を好きになれという方が無理だ。



 かなり、きびしい言い方をしている。

 「好きになれという方が無理」。

 理想主義的で、将棋に美学を持っている真部九段(今で言えば郷田真隆九段行方尚史九段のようなイメージか)のような棋士にとって、



 「わざと正着を指さない」



 というのは将棋の神様に対する冒涜とさえ感じたかもしれない。

 ましてや、負けを認め、頭を下げる相手を嘲笑しながら足蹴にし「いたぶる」勝ち方など、論外なのだろう。

 実際、この局面をに並べてみてほしい。

 ▲51飛成をわかったうえで、スルーしてを成るというのは、ムチャクチャに違和感がある。

 いやホント、「拒否する」というくらい、指しにくい手なのだ。

 だって、返し技もなにもない、純粋な王手飛車なんだぜ!

 しかも、それで投了してくれるっていうのにさ……。

 だが、大山にとってはそんな声など「負け犬の遠吠え」くらいに感じていたのだろうか。

 むしろ、語られれば語られるほど「効く」ことに確信を持ったかもしれない。

 大山はまさに、その「嫌われている」ことや、人気者に対する嫉妬劣等感をパワーに転化できたタイプの棋士であった。

 時代が変わり、ネット中継も増えた今では、もうおそらくこういう手は指されないし、観戦者もゆるさないだろう。

 なにかこう、「昭和将棋の」というものを感じさせる深い闇があるが、もしかしたら本当に、王手飛車をウッカリしてただけだったりして。


 (66歳で挑戦者と挑戦者決定戦での追いこみ編に続く)

 

 

 

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この盤外戦術がすごい! 大山康晴vs加藤一二三 1960年 第19期名人戦 第5局

2020年06月19日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 「そう考えたら、ピンさんはすごかったんやなあ」

 

 そんな感嘆の念をもらしたのは、将棋ファンの友人ミナミ君であった。

 ことの発端は藤井聡太七段が、棋聖戦

 

 「史上最年少タイトル挑戦者」

 

 になったことに、おめでとうという話から、また第1局でも、最強の渡辺明三冠相手にとって、激戦の末に勝利

 これに関してはもう、「すごいもんだ」とあきれるしかないが、前回はそれを受けて、ぜひとも谷川浩司九段の持つ大記録

 

 「21歳で、史上最年少の名人獲得

 

 これも更新してほしいという話をしたが(「21歳」谷川浩司名人誕生の一局は→こちら)、そこにミナミ君は、

 

 「名人戦で史上最年少なら、実はもうひとつあるんやね」

 

 あー、そうであった。

 谷川の成し遂げたことは快挙だが、もうひとり名人戦まで、フルスピードでかけ上がった男がいたのだ。

 それは大山康晴でもなく、中原誠でもなく、もちろん谷川でもなく、森内俊之羽生善治ですらない。

 そう、今ではタレントとして、すっかりおなじみになった、あのレジェンドのこと。

 だが、おどろいたことに、この七番勝負の主役になったのは、その「天才」ではなかった。

 前代未聞の「20歳名人」あるかと沸き返ったシリーズは、実はその前途洋々だったはずの若者が

 「つぶされた」

 とされる、おそるべきが待っていて……。

 

 1960年に開催された、第19期名人戦七番勝負。

 大山康晴名人に挑むのは、今は「ひふみん」でおなじみの、加藤一二三八段だ。

 加藤一二三といえば「神武以来の天才」と呼ばれ、14歳でプロデビューしてからも、



 「18歳でA級八段」

 「20歳3ヶ月で名人挑戦」



 という破格のというか、ここまでのペースだけなら谷川浩司や、羽生善治以上の出世街道を驀進していた。

 ライバルである二上達也と並んで「打倒大山」の先陣を切って走り、堂々登場した名人戦でも、すでに「永世名人」を確保するだけでなく九段(今の竜王)と王将も保持する、絶対王者相手に第1局快勝

 これには「加藤名人あるか」と、世間は色めきだったというが、今の

 

 「藤井フィーバー」

 「史上最年少タイトルホルダーを期待」

 

 という空気感を知る身とすれば、その熱気は相当なものだったであろうと、推測はできる。

 ところが、ここから大山が力を発揮し出す。

 もともと大山は、番勝負の第1局を落とすことがよくあり、その内容もあっさりしたものなところから、



 「様子見のため、力を抜いているのではないか」

 「わざと負けているのではないか」

 なんて言われていたらしい。大山自身も

 

 「番勝負で大事なのは第2局などの偶数局」

 

 そう述べていたことからも、さすがに、わざと負けはしないものの、「初回から全力投球」というスタイルで、なかったのは確かだろう。

 実際、加藤相手の名人戦でも、緒戦を落としてからは一気の3連勝で、若き挑戦者を、あっという間にカド番に追いこんでしまった。

 どうもこのころ、大名人と加藤の間はまだ差があったようで、『大山康晴の晩節』という著書もあり、このシリーズで記録係もつとめた河口俊彦八段によると、

 


 「ほとんど問題にせず、子供あつかいにして四連勝した」


 

 また、鈴木宏彦さんの記事によると、第1局に敗れた大山は、盟友である丸田祐三九段にこう言ったという。

 


 「加藤は攻めが強いというけど、たいしたことないね。もう負けないよ」


 

 こうして、大山が名人防衛に王手をかけたが、問題なのは第5局

 ここでも大山は地力を発揮し、加藤を寄せつけず終盤は勝勢になる。

 むかえたこの局面が、「事件」の起こった場所だ。

 

 

 盤面は、先手の大山が圧倒しており、ふつうに指せば、次の一手で投了となるところだ。

 そう、▲14銀と打つのが「玉はつつむように寄せよ」の格言通りな筋のいい手。

 

 

 ▲68にいるのレーザービームがすさまじく、後手玉はまったく身動きが取れない。

 加藤の△51飛は、そのきれいな形で投げるべく「首を差し出した」手で、たしかに名人戦の収束にふさわしい、美しい図だ。

 ところがここで、大山は違う手を指した。






 

 ▲62馬と入ったのが、今でも論議を呼ぶ手。

 この手のなにに、そんな語るべきところがあるのかと問うならば、大山がこれを

 

 「わざと指したのではないか」

 

 という疑惑があるからだ。

 ここで▲14銀は、さしてむずかしくないどころか、プロなら一目で見える手だ。

 それを大山が、見逃すはずがない。

 では、なぜ指さなかったのかと問うならば、多くの人が推測するに、



 「次以降の対戦にそなえて、加藤により大きなダメージをあたえる負かし方をする」



 1手で終わるところを、わざと遠回りな攻めで、手数を長引かせる。

 「次につなげる」ための、気持ちの整理や、きれいな「形作り」をさせない。

 テニスでいえば、マッチポイントで力なく上がったロビングを、スマッシュせず軽く返す。

 そこから、さらに延々と打ち合いを続け、相手が疲れ切り、観客の嘲笑同情の目が最高潮に達し、

 

 「頼むから、もう試合を終わらせてくれ!」

 

 そう懇願されてもかまわず、ぶっ倒れるまで無意味なラリーを続けさせるようなものだ。 

 一言でいえば「なぶり殺し」「公開処刑」であり、名人戦という大舞台で加藤は

 

 「投了させてもらえない」

 

 という辱めをあたえられた。

 この将棋の観戦記を担当した作家の五味康祐氏は、この場面についてこう書いている(改行引用者)。

 


 

 名人はもたれて指すと書いたが、指される方にしてみればこんな残酷な攻めはないと思う。

 九分九厘勝ち目のない将棋だ。深手を受けたにひとしい。それを寸だめし、五分だめしで、じりじり切りさいなまれる。

 急所にとどめを刺してくれないのだから断末魔の苦しみがいたずらに続くわけだ。

 武士の情けという言葉があって、古来、日本人は散りぎわを尊重する。

 節目のある試合なら必ず止めを刺す。止めも刺してやらないのは、相手が町人ふぜいの場合に限る。

 つまり大山と指して負ける棋士は、大山に町人根性でいたぶられるわけになろう。




 大山は、いさぎよく散ることもできず、血まみれの盤上で、のたうち回るしかない加藤を冷たく見下ろすことによって、



 「おまえなど、とどめを刺してやる価値もない」



 そんな烙印を捺してしまったのだ。

 敬意など、はらうわけもない。格下風情は、皆の前でみじめな醜態をさらせばいい。

 おれにとって、おまえは、その程度の存在なんだぞ、と。

 河口八段をはじめ、多くの棋士やファンが、



 「加藤はこれにより、コンプレックスを植えつけられ、大山に勝てなくなった」



 事実、加藤は初タイトルまで、デビューから14年、名人獲得にいたってはこの初挑戦から20年近い歳月を必要とした(「加藤名人」誕生については→こちら)。

 一方の大山は、この手について、

 


 「単に▲14銀が見えなかっただけで、ふだんから、勝ち将棋は危険をおかさず安全勝ちをねらう、という信念があるから▲62馬と指した」


 

 とコメントしており、実際のことろはどうなのか、どこまでも推測の域は出ない。

 たしかに河口八段の論はかなり主観的で、ファクトよりも「おもしろさ」「伝説性」、ときに「願望」を重視する書き手。

 また、五味康祐氏は大山のことを嫌い、ライバルだった升田幸三をひいきしていたから、そこになんらかのバイアスがあった可能性は十分ある。

 ただ、加藤のライバルである中原誠十六世名人や、内藤國雄九段などは、


 「加藤さんは若いころ、もっとふつうの人だったが、大山先生に負かされすぎて、だんだん変わっていった」



 といった内容の証言をしており、特に奨励会時代の加藤を知る内藤など、そのさわやかさから、

 


 「天才は汗をかかない」


 

 という言葉を残したほど。

 どうも、われわれの知るホットな「加藤伝説」の数々とは、不釣り合いな評であるようにも思える。

 事実、大山に嫌われていた内藤は、盤外戦術をモロに受けて疲弊させられたし、逆に中原は大山の「カマシ」をすべて強気ではねつけ、

 


 「そうしなければ、大山先生には勝てなかった」


 

 『将棋世界』のインタビュー記事などで、おっしゃられていた。

 一方の加藤は、

 



 「盤外戦術なんてなかった」

 「大山先生には、むしろかわいがっていただいた」


 

 基本的にはその説を否定しており、ファンの感心するように

 

 「さすが、ひふみんは天然だ」

 

 ということなのかもしれないが、ことはそんな単純な話でもないような、ドロリとしたものも感じる。

 大山を取り上げた本や雑誌記事には、駒の交換が起こったとき、加藤が取った駒を駒台に置くに、直接に手から荒っぽくむしり取ったりしてたそうだから(まるでケンカだ)、相当に対抗意識はあったようだし。

 そのあたりは、これからもオールドファンの間で議論の肴にされていくのだろうが、まさに映画『羅生門』のごとく、すべては「藪の中」。

 ちなみに、私自身は大山が▲14銀をスルーしたことについては、

 「これ、やってんな」

 と思わされることが、その他にもけっこうあったりしたので、次回はそのひとつを紹介してみたい。


 (続く→こちら

 

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深く、静かに抵抗せよ 沼野充義最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人  村上春樹、大江健三郎からサンギまで」

2020年06月16日 | 

 沼野充義最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人  村上春樹、大江健三郎からサンギまで」を観る(→こちら)。

 沼野先生といえば東京大学の教授であり、スラブ文学の第一人者。

 専攻のロシア・ポーランド文学のみならず、スタニスワフ・レムの翻訳や同人活動など、東欧SFの分野でも活躍。

 また、綿矢りささんやリービ英雄さんという現代日本文学作家との対談なども精力的に行い、「亡命文学」や語学・文学エッセイなどにもたずさわる。

 「世界文学」と接する者は足を向けて寝られない、それはそれは偉い人なのである。

 沼野先生とのファーストコンタクトは、学生時代に読んだ白水Uブックス『屋根の上のバイリンガル』。

 多民族国家アメリカで生きるロシア語や、イディッシュ語とドイツ語の関係性など、様々な言語について軽妙洒脱に語る良質なエッセイ。

 私も学生時代ドイツ語ドイツ文学を専攻していたため、語学エッセイを読むのが好きなのだが、この『屋根の上のバイリンガル』は稲垣美晴さんの『フィンランド語は猫の言葉』や、千野栄一先生の『外国語上達法』などと並んで、もう本がボロボロになるほど読み返したものだった。

 講義の内容は、ドミトリー・コヴァレーニン氏(ロシアにおける村上春樹人気に火をつけた日本文学翻訳家)とのフェイスブックでのやり取りからはじまって、前半は主に村上春樹さんの話。

 『国文学解釈と教材の研究』という雑誌で、中上健次さんと対談した村上さんが、フォークナーを祖とする中上さんに、自身のベースであるフィッツジェラルドでは弱いと、トルストイドストエフスキーを持ち出して対抗したとか。

 そこに諏訪部浩一氏と若島正さんが、パーティで将棋のはなしをしていたとかいう、楽しい脱線(これはすぐれた講義に必須である)も交えて、興味深い話題が盛りだくさん。

 なんだか、学生時代にロシア文学もそこそこ読んだけど、チェーホフって全然ピンとこなかったなーという、ボンクラ元文学部生にはもったないボリュームで、これが東大生以外も無料で聴けるのだからゴキゲンではないか。

 2時間近い講義が、ちょっと長いなーという人は、沼野先生もおっしゃるように、ニヴフ人の作家サンギさんのインタビューだけでも聴いてほしい。

 こういうお話を聞くと、やはりいつも思うのは、「言葉」というのは多様であり、また「生き物」でもあるということ。

 日本の外国語教育は、ほとんど100英語に偏りがちだけど、たまにでいいから、


 「世界はそれだけではない。数え切れないほどの英語以外の言語や文化があり、その価値はすべて等価である」


 という、当たり前の上にも当たり前にもかかわらず、ときに信じられないほど軽視されがちな、この真理にふれてほしいと願うものだ。

 それともうひとつ、講義の最後に沼野先生が残された言葉。

 アーカイブの1時間23分くらいのところだが、このコロナによる危機に「不要不急」の文学に、なにができるかという、いわゆる

 

 「飢えた子供の前では文学は無力」


 
 という根源的な問いに、こう答えておられるのだ。



 「どんなにおそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと」



 
 先生は静かに続けて、

 


 「そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです」




 講義を終えて、さっそく積読になっていた先生『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』とスタニスワフ・レム『ソラリス』を読もうとページを開いたのだが、これがはかどらなくて困っている。

 それは、この最後の言葉以来、があふれてきて、ぬぐってもぬぐっても止めることができないからだ。

 なにかの作品や、だれか言葉にふれて「泣いた」という話は、そもそも恥ずかしいものだ。

 それは単に泣き顔がみっともないとか、「感受性の豊かな人」アピールと取られるのではないかというものと同時に、


 「心打たれて涙する」


 というのは、自分の心の中にある、もっともやわらかい部分を無防備にさらけだしてしまうせいだ。

 私にとってそれはきっと、「同調圧力への不同意」の姿勢と、「文学」、いやもっといえば小説映画演劇マンガ

 絵画お笑いライトノベルゲーム評論エッセイなど、ありとあらゆる「表現者」の仕事が持つ、


 抵抗者にあたえる勇気の力」


 これを信じていることだろう。

 たとえどんなに無力でも、そのことによって多数派が占める「心地よいグループ」に入れないとしても。

 暴力抑圧差別搾取を笑って肯定するような場に、「そっと不同意」の姿勢だけは示し続けていきたいと願っている。

 そんな私の微力なたましいを、沼野先生の言葉は静かに肯定してくれた。

 きっと、そんな気がしたからだ。

 

 

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「21歳名人」誕生 谷川浩司vs加藤一二三 1983年 第41期名人戦 第6局

2020年06月13日 | 将棋・名局

 前回(→こちら)の続き。

 1982年の名人戦挑戦者決定リーグ戦(今のA級順位戦)で7勝2敗の好成績をおさめ、中原誠十段とのプレーオフ制し挑戦権を獲得した、まだ20歳谷川浩司八段

 挑戦者の勢いは七番勝負でもおとろえず、また加藤一二三名人が前期の名人獲得から長く調子が上がってこないこともあって、一気の3連勝と早くも名人奪取に王手をかける。

 あとひとつ勝てば名人戦史上最年少「21歳の名人」(谷川の誕生日は4月なのでシリーズ開幕直前に21歳になった)。

 日本列島を巻きこんだ「谷川フィーバー」も、ここピークをむかえたのだった。

 ただ大記録を前に、さすがの谷川も平静ではいられなかったか、第4局第5局と加藤名人の逆襲をゆるしてしまう。

 それでもまだ3勝2敗と有利だが、気持ち的にはそうは思えまい。

 後年、やはり初の名人戦で米長邦雄名人相手に3連勝スタートを切った羽生善治四冠も、ちょっとしたゆるみから第4局を落とし、第5局では完敗を喫すると、そこから

 

 「将棋界初(当時)の3連勝から4連敗の大逆転」

 

 を喰らってしまうのかと、かなり追いつめられたそうだが、やはり谷川浩司もまた人の子であり、「まさか」の妄念にさいなまれることになる。

 先手番ということもあって「決め所」ともいえる第6局。谷川はタテ歩取りからの、ひねり飛車にすべてをたくす。

 今ではあまり見なくなったが、このころは居飛車の主力戦法であって、

 

 「先手必勝の戦型が実現するとすれば、それはひねり飛車ではないか」

 

 という意見もあったほどなのだ。

 谷川が6筋から仕掛け、飛車交換になって、むかえたこの局面。

 

 

 先手が▲55歩と突いたところ。

 自陣のをさばこうという、自然な駒運びに見えるが、ここが危険な局面だった。

 ここで後手から、△68と、という手があった。

 

 

 ▲54歩と金を取ると、△58と、▲同金に△66角と金を取って、▲同角に△26飛が王手角取り。

 

 

 

 △68と、に▲同角と取るのも、やはり△26飛と王手金取り。

 ▲27歩△66飛▲57角の切り返しに△55角と出るのが、金取り解除しながら飛車ヒモをつけてピッタリで、どちらにしても先手の銀損が必至なのだ。

 

 

 谷川にとって幸運だったのは、加藤もまた、なぜかこの順が見えておらず、素直に△55同金と取ってくれたこと。

 これなら▲84飛の十字飛車で、攻めがつながる。

 一瞬のエアポケットだが、加藤がどう応じてくるか、まさに寿命が削られるような時間だったろう。

 大ピンチを切り抜けた谷川だが、やはりここからは、プレッシャーと戦わなければならない。

 その苦悶は手順にあらわれていて、この▲32角という手がいまひとつだ。

 

 

 王手飛車がきびしそうだが、ここでは▲32桂成という軽妙手があった。

 

 

 

 △同玉と取らせて、▲21角とここから王手飛車に打てば、△22玉▲54角成から▲21飛の2枚飛車で終了だった。

 ▲32桂成▲32角をくらべると、「玉は下段に落とせ」の格言通り、前者の方が感触がいいのは一目瞭然。

 谷川自身も、なぜこれが見えなかったかと後にいぶかしんだが、こんな簡単な手(谷川レベルなら)が指せないという、苦しい時間帯だったのだ。

 ▲32角に△44玉と逃げて、「中段玉寄せにくし」で嫌な形。飛車を奪ってせまるも、△71底歩も強力だ。

 少し手こずっている感もあるが、このあたりから落ち着きを取り戻したか、徐々に「らしい」手が出てくるようになる。

 

 

 

 △43角を殺されているのにかまわず、▲64歩と突き出すのが「前進流」の踏みこみ。

 △52銀▲72竜右と金を取って、△同歩に一転▲78金を殺して、大駒ゲットのお返し。

 やや強引だが、角が入れば、▲77角▲62角のような手で中段玉が照準に入ってくる。

 加藤も△57角成と食いちぎって、▲同歩に△89飛と攻め合う。これが、なにげに▲81もにらんでいて、油断のならない形。

 谷川は▲56歩と突いて、▲77角や▲66角をねらう。

 加藤は△55歩でそれを防ぎ、横腹が開いたのを見て先手も▲84竜と活用するが、そこで△73銀が、先の△89飛と連動して「勝負!」という受け。

 

 

 

 ▲同桂成なら、△84竜で先手のカナメ駒であるが抜ける。

 かといって、▲81竜のような手では、なにをやってるのかわからない。ここで谷川も気合負けしないとばかりに、▲同桂成と特攻。

 △84竜と取られても、▲63成桂とくっついて、攻めがつながっているという読みだ。このあたり、双方力の入った大熱戦である。

 

 

 

 

 クライマックスはこの局面だった。

 二転三転の戦いは、ここへきて、まだ難解という声が多かったそう。

 検討していた中原誠十段や、谷川をライバルと噛みつく田中寅彦六段なども、先手が勝ちそうだが、決め手が見つからないと頭を悩ませている。

 だが谷川は、少ない時間と激烈なプレッシャーの中、見事に正解を見つけるのだ。

 

 

 

 

 ▲71飛と打つのが、濃い霧をつらぬいて道を示す、一筋の光だった。

 次に▲72飛成とすれば、▲73馬からの詰めろで、ほとんど受けなしだが、かといってそれを止めるピッタリした手がない。

 検討陣も発見できなかった、これが「光速の寄せ」だ。

 加藤名人は△49と、と取り、▲72飛成△78飛と攻防に打ちおろすが、冷静に▲76歩と止められて逃げられない。

 

 

 

 ここで△62金が最後の抵抗だが、同時に形作りでもある。

 後手玉に詰みがあるからだ。

 

 

 

 ▲73馬と切って、△同金。ここまではよかった。が、ここで事件が起こる。

 谷川が次の手を指さないのだ。

 すでに将棋は終わっているのに、これはどういうわけか。

 信じられないことに、なんと谷川はここでもまだ、後手玉の詰みを発見できていなかった

 手の流れから、自分が勝ちであることはわかっている。

 でも、どうすればそこにたどり着けるのか、霧はまだ完全に晴れてはいなかった。

 手順にすれば、たったの9手詰

 寄せの問題として出されれば、落ち着いて考えればアマ初段クラスでも解けるレベル。

 ましてや、詰将棋に定評のある谷川浩司なら0、01秒で仕留められるはずなのだ。

 なのに、それがわからない。「光速の寄せ」の、まさかの大迷走

 このときの谷川は▲75銀、△55玉、▲66金まではわかっていたが、その次の手が見えず▲65金を取って、△43玉でハッキリしないと読んでいたそう。

 思考が堂々めぐりになり、あせりと重圧で苦しみに苦しみぬいたところで、ようやっと、今度こそ、最後の試練をクリアできた。

 詰みを発見したのだ。▲75銀、△55玉、▲66金、△54玉に▲44金と打ったところで加藤が投了。

 

 

 

 △同銀、▲52竜、△53合、▲43銀まで。

 谷川はこの▲44金が、盲点になっていたのだ。

 この瞬間、名人位が「苦節22年」43歳の加藤一二三から、まだ21歳の青年の元に移った。

 伝説が生まれる瞬間の様子を、直木賞作家である江國香織さんのお父様、江國滋氏が書いている(改行引用者)。

 


 ああ、という押し殺したような声とともに、挑戦者が不意に喘ぎはじめた。

 息苦しそうに顔を左右にはげしく動かし、手さぐりでひろいあげた純白のハンカチを急いで口元に押し当てながら、肩で大きな呼吸をくり返した。

 どう見ても嘔吐をこらえているとしか思えない苦悶の表情だった。

 荒い息づかいのまま、ハンカチを捨て、お茶をひと口すすり、メガネをはずし、おしぼりをぎゅっと両目に押し当てた。ああ、という声がおしぼりの陰から聞こえた。

 『最後の最後まで詰みが見つからなかった』(局後の第一声)という、その7五銀を見つけた瞬間の、これが谷川浩司新名人の反応だった。


 

 

 (加藤一二三「20歳の名人挑戦者」編に続く→こちら

 (「加藤一二三名人」誕生のシリーズは→こちら

 

 

 

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コロナ日記 タイのハヌマーンと『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』

2020年06月10日 | おもしろ映像

 いろいろ大変なときは「バカ映像」にかぎる。

 昨今のコロナ危機で、不便な思いを強いられているが、こういうときはマヌケ動画を観て笑うのが一番リラックスできる。

 前回はプロレスラーが家をバンバン破壊しまくる狂った映像や、伝説のカルトゲーム『アイドル八犬伝』をおススメしたが(→こちら)、今回は『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』(→こちら)。

 タイで制作されたという、ちょっと変わり種のウルトラマン映画だが、これが昭和の特撮ファンにはおなじみの怪作

 私も子供のころ見たが、いわくいいがたいインパクトを残す、ヘンな作品であった。

 オープニング、宇宙の異変で、太陽が接近しはじめ、地球は干ばつにみまわれている、という説明からはじまる。

 このままでは、地球は滅亡してしまうかもしれない。

 続いて、場面はロケット基地に。

 ここでは水不足に悩む人類のため、降雨ロケットで、人工的に雨を降らせる実験をやっているのだ。

 白衣を着た博士が、科学の力で世界を救うのだと力説したところ、助手の女性から、こんなアドバイスを受ける。

 

 「仏様の力を忘れてしまっては、いけないと思うわ」

 

 日本の感覚だと、怪しい新興宗教のセリフみたいだが、タイは敬虔な仏教国なので、実は全然おかしなものではない。

 実際、博士も「仏ってなんやねん!」みたいなツッコミを入れず、「そうだな」と素直に納得している。

 このあたり、宗教アバウト国家である、日本の感覚ではピンとこないところだ。
 
 そう、この映画のなんかヘンなところは、映画自体の出来もさることながら、この

 

 「日本とタイのカルチャーギャップ」

 

 からくることが多いのだ。

 その最たるが、猿神ハヌマーンが、仏像泥棒を成敗するところ。

 そもそも、このハヌマーンというヒーローも、ビジュアルからしてアレなうえに、元がおさん。

 なもんだから、ピョンピョン飛び跳ねたり、クネクネとタイ舞踊を舞ったりして、ちっとも落ち着きがない。

 

 

 

 

 ハヌマーン先生の飛行シーン。もちろん笑うところではありません。

 

 

 そんな妙にポップなヤツが、いざ殺人犯の仏像泥棒を巨大化して追いかけた日には、

 

 「逃げてもムダだ」

 「生かしてはおけぬ」

 

 なにやら不穏なセリフが。

 しかも、捕まえて罰をあたえるとか、警察に突き出すとかという順も踏まず、いきなり足でプチッと踏みつぶす。

 おいおい、いきなり処刑すなよ、それも勝手な自分の判断で、とつっこみたくなるが、ハヌマーン先生はますます絶好調で、

 

 「ほーら悪党め、どうした」

 「逃げてもムダだあ」

 「観念するんだホラァ!」

 「おまえたちを殺してやるゥ!」

 

 殺してやるゥ

 なんだか、正義の味方というより、ただの快楽殺人犯のようでステキであり、一時期流行った言葉でいえば、に出して読みたい日本語というやつだ。

 アジアの灼熱プラス気候変動で、汗みずくになり必死で逃げる泥棒に、

 

 「逃げられると思っているのか?」

 「ほーら逃げろ逃げろ」

 「仏様を大切にしろ!」

 「しないヤツは死ぬべきなんだ!」

 

 

 

 

「殺してやるゥ!」

 

 たしかに歴代ウルトラマンも、愛や友情や布団を干すことの大切さを語ってきたけど、別にそれをしなかったとて「死ぬべき」とまでは言わなかったはず。

 ほーら逃げろ逃げろとか、もはや釈明の余地なく弱者をいたぶることを楽しんでます。

 まあ、根が子供やからなあ……。

 なんだか、一時期流行った、ドナルドの「ランランルー」を彷彿させるコワさである。

 このあたり、やはり日本とタイの文化の違いで、殺人もさることながらタイでは仏像を盗むというのは、とんでもない大罪

 なんで、「それくらいされても、文句は言えん」くらいのもんだそうなのだ。

 子供のころ読んだ、江戸川乱歩大先生の『怪人二十面相』シリーズで、賊はよく仏像を盗んでいるけど、タイであれをやると巨大猿に足の裏でプチッ

 まさに、ところ変われば品変わる。

 ただの泥棒でも「万死に値する」行為なんですな。アンドレマルローは反省するように。

 きわめつけが、これは特撮ファンには有名な「ゴモラ虐殺事件」。

 ハヌマーンとウルトラ6兄弟が協力して、首尾よく怪獣を撃破した後、最後に残ったゴモラをボッコボコにするシーンだ。

 7人1匹を囲んで、殴る蹴るのやりたい放題。

 みじめに転がるゴモラを、で踏む、バット(実際は剣だが鈍器に見える)を振り下ろす、尻尾を持って引きずり回す。

 しまいにゃエースタロウが肩を押さえて、背後からバットで何度も強打。どう見ても、ヒーローの所業には見えません。

 

 

 

エースとタロウに押さえさせ、楽しそうにゴモラを金属バットで殴り続けるハヌマーン先生

 

 

 今なら「イジメ行為につながる」と炎上しそうというか、当時からすでに

 

 「ウルトラマンたち、ヒドイ!」

 「またハヌマーンが楽しそうに暴力をふるうんや」

 

 などと爆笑……大いに心を痛めたものであった。

 バットをくるんと返すところが、またイジメっぽさを助長させる。

 他にも、子役のまわりで容赦なく火薬を爆発させまくるわ(子供のにも仕掛けてないか?)。

 ロケット基地のエリートパイロットが死ぬほど馬鹿面だわ(だからZATの制服が似合う)、なんで『ミラーマン』の怪獣やねんとか、とにかく全編つっこみどころだらけ。

 まさに、「歴史のほとんどの時期が黒歴史」といわれる円谷プロの、まごうことなく本物の黒歴史

 のちのタイとのもめごとなども鑑みると、まさに「ガチ中のガチ」ともいえる存在。

 みんなで観て笑って、この難局を乗り切る一助となれば幸いである。

 

 

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「史上最年少名人」への道 谷川浩司vs中原誠 1983年 第41期名人挑戦プレーオフ その2

2020年06月07日 | 将棋・名局
 前回(→こちら)の続き。
 
 藤井聡太七段が第91期棋聖戦で「史上最年少タイトル挑戦者」になった。
 
 これを受けて『りゅうおうのおしごと!』の著者である白鳥士郎さんは
 
 
 「28連勝」
 
 「史上最年少タイトル挑戦者」
 
 
 この二つを「絶対に破られない」記録として設定したのに……と呆然とされておられたが、ならついでに、この記録はどうだと挑んでもらいたいものが、谷川浩司のこれであろう。
 
 1983年、第41期名人戦の挑戦者決定プレーオフ
 
 前期の名人である中原誠十段と谷川浩司八段の決戦は、谷川先手で相矢倉に。
 
 
 
 
 
 ▲46角△64歩に、谷川の次の手が「マジか」とおどろく強手だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲75歩と打ったのが、ケンカ上等のすごい手。
 
 △同銀とされて、前進させてしまうが、続けて▲76歩
 
 後手は△86歩と突いて、▲同歩、△同銀、▲同銀、△同飛、▲87歩、△82飛
 
 
 
 
 
 この局面を見ると、先手の▲75歩はお手伝いのように見える。
 
 わざわざ一歩わたしたうえに、ゼロ手を進出させ、さらには飛車先銀交換もゆるし、その間、先手は有効な手を指していないどころか、歩切れにおちいっている。
 
 後手の棒銀を見事にさばかせてしまって、私がやれば「雑魚認定」の手順だが、もちろん谷川には、深い読みの裏づけがあってとのこと。
 
 強引に手にしたを、どう使うかだが……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲51銀と打つのが、ねらいの1手。
 
 △53角▲13桂成や、▲14歩、△同歩、▲同香一歩手に入れて、▲54歩と打つ。
 
 
 
 
 △71角▲64角王手飛車取り
 
 いきなり▲53同飛成、△同金に▲71角の強襲もありそうで、これも谷川の攻めが炸裂しそうだ。
 
 
 
 
 
 大技が決まったようだが、中原は△53銀と打ち、▲42銀成に、△同金寄として、駒損だが先手も歩切れとあって、存外むずかしい。
 
 
 
 
 
 
 このあたりの、中原のの深さもさすがである。
 
 谷川は▲65歩と突いて攻撃を継続。そこから激戦に突入。
 
 終盤、双方に勝ちの局面があったようだが、おたがいに逃す感じで、むかえたこの局面。
 
 
 
 
 
 先手は飛車が封じられ、▲24角と取るようでは、△23銀と味よく拠点を払われていけない。
 
 先手難局と思われたが、ここで谷川は中原をはじめ、だれも気がつかなかった妙手を披露し「フィーバー」を継続させるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ▲73銀と打つのが、すばらしい着眼点。
 
 パッと見、効いてるかどうかはかりかねるが、ねらいはすぐわかる。△92飛▲64銀成とし、△同金▲同角
 
 △35銀タダで取られるが、そこで▲66飛(!)がファンファーレの鳴りひびく活用劇。
 
 
 
 
 
 
 端に隠遁し、まったく活躍のめどが立っていなかった飛車が、一気に主役に躍り出た。
 
 ▲64が玉にねらいをつけ、▲23の存在もすさまじく、後手にまったく受ける形がない。
 
 まさに「景色が変わる」とはこのことではないか。
 
 こんな大一番で、歴史に残る名手を指せる谷川は、まさにスターだった。
 
 この若き谷川の進撃が、どれほどの衝撃だったかは、中原のその後の指し手を見れば伝わってくる。
 
 直撃弾を喰らってボロボロになりながらも、中原はひたすらに指し続ける。
 
 それはクソねばりにすらならない、ただ「投げきれない」という希望のない延命措置にすぎないが、名人9連覇(当時)や「五冠王」の実績のある大棋士が、そんなみじめな局面でも投げないところに、この将棋の重みがある。
 
 王者中原誠が、はじめて「下から追ってきた者」に抜かれる瞬間だからだ。
 
 河口俊彦八段の『対局日誌』によると、中原の宿命のライバルであり、名人位を取れず苦しんでいた米長邦雄王将棋王はこう言ったそうだ。
 
 

 「谷川くんが名人になったら、ワシャ気が狂うだろうね」
 
 
 祭は華やかだが、その舞台裏にも見えないドラマがある。
 
 棋聖戦で敗れた佐藤天彦永瀬拓矢は、ライバルと称されている佐々木勇気増田康宏は、いったいどんな気持ちだったのだろうか。
 
 そんな「神の子」谷川浩司の姿を見て、全国の少年たちが「名人」にあこがれ、奨励会に入ってくる。
 
 その中に、羽生善治をはじめ佐藤康光森内俊之村山聖郷田真隆といった面々がいて、またもうひとつのフィーバーを生み出すのだが、それはまだ少しばかり先の話である。
 
 
 (「谷川浩司名人」誕生の一局編に続く→こちら
 
 
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「史上最年少名人」への道 谷川浩司vs中原誠 1983年 第41期名人挑戦プレーオフ

2020年06月06日 | 将棋・名局
 ついに「史上最年少タイトル挑戦者」の記録がぬりかえられることとなった。
 
 前回は昭和の豪傑「マキ割り流」佐藤大五郎九段の将棋を紹介したが(→こちら)、今回は最新のホットなニュースから。
 
 先日行われた第91期棋聖戦の挑戦者決定戦で、藤井聡太七段永瀬拓矢叡王王座を熱戦の末に破って、待ち望まれたタイトル戦への登場を決める。
 
 これにより、ここまでの最年少記録だった屋敷伸之四段17歳9か月24日1989年後期の第55期棋聖戦)を「4日」上回っての記録更新。
 
 これがいかにすごいことかといえば、将棋小説『りゅうおうのおしごと!』の作者である白鳥士郎さんのツイートを借りれば、
 
 
 私が『りゅうおうのおしごと!』を書き始めた頃、将棋界には「絶対に破られない」とされる記録が2つありました。
 
 1つは神谷先生の28連勝。
 
 もう1つが屋敷先生のタイトル挑戦最年少記録。
 
 ラノベなのでそのうちの1つを破らせた設定にしたんですが、現実さんは1人の少年に2つとも破らせちゃうとか…
 
 
 まだ28連勝の方は羽生善治九段の22連勝、丸山忠久九段の24連勝、山崎隆之八段の22連勝など
 
 「これ、ワンチャンあんじゃね?」
 
 なことも、ちょいちょいあったものだが、この「おばけ屋敷」(屋敷が当時呼ばれたのニックネーム)の記録だけは30年近く破られる気配もなく、ビクともしなかったのだから、今回の藤井七段の快挙が、いかに「はなれわざ」だったか、わかろうといものではないか。
 
 もちろん、次のねらいは「史上最年少タイトルホルダー」。
 
 相手が充実著しい渡辺明三冠となれば、そんな簡単ではないが、今の勢いなら期待は充分。
 
 私など気が早いタイプだから、こうなったらどこまで記録を塗り替えられるか早速、とらたぬで皮算用をしてみたくなる。
 
 「八冠王」「タイトル100期」「通算2000勝」
 
 は究極の目標として、やはり目立つところでは、1967年中原誠十六世名人による年間最高勝率(8割5分4厘)と、羽生善治九段が「いっぱい将棋を指したな、と」と振り返る年間最多対局(2000年の89局)かな。
 
 なんて楽しくデータベースをめぐっていたのだが、ここにひとつまた「絶対に破られない」とされる記録があることに思い至った。
 
 うーん、これもその時期が来れば、相当話題を呼びそうだ。
 
 それはまだ時代が昭和だったころ、ある天才棋士が「フィーバー」を起こした話で……。
 
 
 1982年、将棋界はかつていない「フィーバー」が巻き起こっていた。
 
 今の将棋ファンにとって「フィーバー」といえば言うまでもなく「藤井フィーバー」だし、われわれ世代だと羽生善治九段「七冠フィーバー」というのがあったが、その前となると、谷川浩司が起こした大旋風のことになる。
 
 1982年から83年にかけての第41期名人戦挑戦者決定リーグ戦(今のA級順位戦)で、谷川八段は7勝2敗の好成績をおさめ、プレーオフへと進出。
 
 ここで前名人である中原誠十段に勝って挑戦権を獲得し、加藤一二三名人を破れば名人戦史上最年少の「21歳名人」という、大記録を達成することになるのだ。
 
 将棋界のシステムでは、他の棋戦では原則デビュー1年目からタイトルホルダーになれる可能性があるが、こと名人戦だけは順位戦という制度があるため、挑戦者になるには最低でも5年かかってしまう。
 
 つまり、「21歳名人」になるには、デビューからほとんどノンストップで階段を駆けあがっていかなければならない。
 
 ましてやそれを越えようと試みるものなら、まず14歳の「中学生棋士」になったとしても、順位戦でC2からA級まですべて1期抜け」でクリアしなければならないことに(谷川はC2で1度足止めを喰らっている)。
 
 名人15期中原誠十六世名人の初戴冠が24歳、十九世名人の資格を持つ羽生善治九段(獲得9期)ですら23歳なのだから、まさに「光速」を凌駕するタキオンのパワーが必要となるのだ。
 
 制度的に、勢いやまぐれだけでは絶対に不可能な、まさに神業的快挙ではないか。
 
 私はこのとき、まだ将棋に興味を持ってなかったので、リアルタイムで体感してないが、この「谷川フィーバー」も、またすごかったという話はよく聞く。
 
 たしかに当時の写真などを見ると、対局室は報道陣でごったがえしており、テレビ中継も入っていたりして、その熱気は充分伝わってくるものがある。
 
 このあたりのことは私も何度も読み返した、中平邦彦さんの『名人 谷川浩司』という本にまとめられているので、ぜひ一読していただきたい。
 
 マスコミでごった返す中行われた名人挑戦プレーオフは、谷川先手で相矢倉に。
 
 
 
 
 
 ▲46角と出た手に、中原が△64歩ととめたところ。
 
 ここで「前進流」の激しい手が飛び出す。
 
 これが、いかにも谷川らしい強気、かつ強情な手で思わず笑みがこぼれるのだ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
 
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コロナ日記 プロレスラーvs家屋 『アイドル八犬伝』と「キミはホエホエむすめ」

2020年06月03日 | おもしろ映像

 いろいろ大変なときは「バカ映像」にかぎる。

 昨今のコロナ危機で、不便な思いを強いられているが、私のストレス解消法はマヌケな動画を観ること。

 前回オススメしたのは『ウルトラマンレオ』の第1話と2話で流れた日本沈没のシーンや、意外とスゴイ戦前のハリウッド特撮などだが(→こちら)、今回もすぐれた破壊を見てみたい。

 

 特撮ドラマの破壊は、主に天災怪獣によるものだが、「人力」での破壊もときにはいい。

 昔、プロレスファンの友人に見せてもらって、めたくそに笑った動画(→こちら)。

 橋本真也獣神サンダーライガーといった、プロレス素人の私でも知ってる有名レスラーが、家屋と戦う。

 もう、なんのこっちゃという話だが、そういうことなのである。とにかくパワフルである。

 で、阿呆だ。もちろん、ほめ言葉

 リピートかけてくり返し見てたら、もうむやみにテンションが上がって、元気が出ること間違いなし。

 

 ラストはキュートなアイドルの映像で締め。

 西園寺エリカの名曲「キミはホエホエむすめ」(原曲は→こちら。カバーは→こちら)。

 ファミコン世代の私に、当時の推しゲーを3つ挙げろと言われれば、1位は『ファイアーエムブレム』だが、3位の『キャプテン翼2』を押しのけて2位に入るのが『アイドル八犬伝』。

 なによりこのゲームを伝説にしたのが、ハチャメチャなストーリーやキャラにくわえて、『地球防衛少女イコちゃん』の河崎実が作詞を手掛けた、メインテーマの「キミはホエホエむすめ」。

 この電波ソングに10代だったころ、やられてしまった。「オチャメなムスメ ベルマーク」って、完全に気ちがいの仕事だ。

 私がアイドルというものに、いまひとつハマれないのは、もしかしたら人生が「西園寺エリカ」一択になっているからかもしれない。ありがトーワチキ。MDMAはやらないでね。

 

 (『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』編は→こちら

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