ジョー・ダンテ『MANT!』と『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』はB級映画大好き青春映画

2022年12月22日 | 映画

 『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』を観る。

 ジョーダンテ監督。1960年代のアメリカ、フロリダ州の田舎町を舞台にした青春ラブコメディーだ。

 子供たちのういういしい恋愛感情に、世界を震撼させた「キューバ危機」をめぐる混乱と、監督自身の映画へのをまぶした、なかなかいい感じの佳作に仕上がっているが、やはりこの映画の最大のポイントは、オープニングで紹介されるアレ

 主人公たちがのドタバタを披露するのは、街にある映画館(と、その地下にある核シェルター)なんだけど、そこでかかる映画というのがイカしている。

 忍び寄る突然変異体、逃げまどう群衆、絹を切り裂くような美女の悲鳴……。

 そう、それこそが蟻と人間の合体した「アリ人間」が人を襲う恐怖映画、『MANT!』なのだ!

 『MANT!』。

 

 

 

 

 これを見せられた時点で、みんな思いますよね。

 あ、これ絶対オモロイ映画やん、と。

 オープニング・クレジットのバックに予告編が流れるんだけど、これがやたらと演出がおどろおどろしいとか、悲鳴がやかましいとか、役者の演技が微妙とか。

 でも、アリ人間の着ぐるみだけやけに出来がいいとか(笑)、いやもう、

 

 「ジョー、わかってるやん!」

 

 という内容。タイトルもすばらしい!

 

 

 

 

 

 開始数分で「勝ったも同然」と思わせる出だしだが、さらにピュウと口笛でも吹きたくなるのが、『MANT!』の監督であるローレンスウールジー

 

 

 

 

 アルフレッドヒッチコックのバッタもんのようだが(劇中間違えられて不機嫌になるシーンもある)、モデルはオーソンウェルズとか、ウィリアムキャッスルとか、エドウッドとか、ロジャーコーマンとか、そのへんの「ハッタリ」系の天才映画人が持つケレン味を詰めこんだ感じ。

 口八丁の手八丁、サービス精神旺盛で、映画が当たりさえすればどんなウソでも平気でつけるという、クリエイターというよりは興行師という呼び名の方が似合うタイプ。

 この人が実に味があって、「アトモビジョン」(もしかして「アトミック・ビジョン」?)なる、あからさまにうさんくさい「発明」を看板にあげながら、堂々と会場に乗りこんでくる。

 その正体は映画のアクションに合わせてが出たり、が立ち込めたり、スクリーンの向こうから本物(?)のアリ人間が飛び出してくるなど、今でいう「4DX」の走りのようなもので、これがなかなかのアイデア。

 実際、劇中の上映シーンでも観客は大喜びで、ストーリとともにそのドタバタもゴキゲンで楽しいのだ。

 そのB級感が、なんともいえない。「4DX」のような「流行の最新設備」ではなく、どちらかといえば移動遊園地の「見世物小屋」テイスト。

 マリトッツォやカヌレでなく、カルメラ焼きベビーカステラのお店。チープだけど、それがいい。楽しい

 本編の恋模様と、このやたらと大仰なスラップスティックのバランスがよく、実にうまくできている。

 いやあ、オレも、この映画館行きたいよ!

 ストーリー自体は正統派なラブコメで、中学のクラスメートであるジーンサンドラが、ひょんなことから地下の核シェルターに2人きりで閉じこめられて、もうドキドキ。

 そのうち『MANT!』が上映されると、その音や振動で2人は「第三次大戦」がはじまったとカン違いして、

 

 「どうせ死ぬんやったら……」

 

 顔が徐々に近づいて行って、いやもうこれキスするんちゃうか……。

 ……て、ワシらがアリ人間の映画観てるウラで、お前ら、そんなイチャイチャすな!(笑)

 そんな、とってもカワイイお話です。 

 バカっぽく見せかけてるけど、当時の風俗とか、「核戦争」「第三次大戦」の緊張感など、意外と幅広い見どころのある作品。

 上映時間も90分ちょっとと、コンパクトでサクッと見られるし、それこそ土曜日のデートにもいいかも。

 あと、この映画とかローレンス・ウールジーに魅せられた人は、ぜひセオドアローザックフリッカー、あるいは映画の魔』という小説もどうぞ。

 ちょっと長くてマニアックだけど、メチャクチャにおもしろいです。『このミス1位は伊達じゃない!
 

 

 ★おまけ ウールジーの傑作『MANT!』(ジョーはちゃんと全編撮っているのだ。エライ!)は→こちら

 

 

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アミール・カーン主演『チェイス!』は浪花節な特撮『プレステージ』

2022年07月23日 | 映画

 映画『チェイス!』を観る。

 名作『きっと、うまくいく』で有名な大スター、アミール・カーンを主演に据えたインド製アクション大作。

 シカゴのアコギな銀行に、家業のサーカス団をつぶされたどころか、そのせいで目の前で父親が自殺するという悲劇に直面するサーヒル少年。

 時は流れ、大人になったサーヒルはインド大サーカスを率いるスターに成長するが、その裏では復讐のため、自分たちをどん底に追いやった銀行に忍びこみ、金庫破りに血道をあげる。
 
 犯人に翻弄されるシカゴ警察は、現場に残された恣意行為的な証拠から、インド系の犯行と推測。

 ムンバイからジャイ刑事とアリー刑事に応援を頼むが、大胆不敵なサーヒルは自ら彼らの前にあらわれて……。

 開幕からここまでテンポよく進み、インド映画らしいノリの良い娯楽作な雰囲気が芬々。

 その間、アミール・カーンの大アクションや、ヒロインの華麗で激しいダンスあり、ジャイとアリーのゆかいな掛け合い(この映画の原題は『DHOOM3』で、この実はこの2人が主役のシリーズ第3作だそう)ありで、大いに期待が高まる。

 ストーリーとしては、プロのマジシャンで、アクロバットの達人であるサーヒルと、いかにもデコボココンビな刑事とのかけ引きや、サーヒルたちの「家族の」などが主な流れになるわけだが、やはり楽しいのはダンスアクション

 特にバイクを使ったカーチェイスは迫力満点なうえに、そのギミックが少年マンガ的なバカ発想(超ほめ言葉です)で大爆笑しながらもアツい!

 ピンチになると「ガチャ、ギー、ガチャ!」って変形しますねんで! これで燃えなきゃ、男の子やない!

 いやー、マジでどこの国の宇宙刑事やねん、と。

 スローモーション多用の演出も、そのあか抜けなさが、かえってともいえる。特撮魂やねえ。

 インド映画といえばのダンスも、もちろんのこと健在。

 オープニングタイトルのナンバーはタップ好きな私には応えられないし、オーディションシーンのカトリーナ・カイフによる大ダンスも妖艶ですばらしい。

 インド美人はいいなあ。

 あと、「人間消失」のトリックをテーマにした作品としては、ネタ的にモロ、クリストファー・ノーランの『プレステージ』と被るんだけど、そのトリックに対する接し方の違いを、くらべるのもおもしろい。

 「ノックスの十戒」を持ち出すまでもなく、もう、

 

 「このトリックにこの仕掛けを、なんのてらいもなく出してOK」

 

 という時代なんですね。

 むしろそれに対して演者が「どう対峙するか」がテーマになってくる。「アンフェア」とか、もう野暮なんだな、きっと。

 『プレステージ』は『空手バカ一代』。『チェイス!』はたぶん、われわれにも共感できる、もうちょっと浪花節なテイスト。

 全体的に見て面白い作品で、おススメなんですが、ひとつ気になったのが、最初に出てくる女刑事が全然活躍しないこと。

 わりと大事な役どころのように見えて、途中いないも同然だし、アリー刑事のツッコミ役にもなってなくて、どういうことだったんでしょう。

 うーん、最初は目立つ役だったけど、アミール・カーンともめて、途中から干されたのかな(笑)。

 

 

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妄想力と「少年の心」で、自分だけの『レディ・プレイヤー1』を脳内上映

2022年04月18日 | 映画

 「観たあと『オレ・プレイヤー1』考えるのが、ホンマの楽しみ方やろ!」。

  という友人ホンドウ君の提言で、


 「映画『レディ・プレイヤー1』のキャラクターを、すべて自分の好みで脳内変換する」


 という、遊びで先日盛り上がった(詳細は→こちら)、私とそのゆかいなボンクラ仲間たち(40代)。

 こんなもん、ただのオタクの妄想なんだから、そこだけの話で終わらすはずだったが、そこにいたベットウ君という男が、

 

 「せっかく盛り上がったんやから、ブログのネタにしてくださいよ!」

 

 そんなもん、だれが読むねんとは思ったが、まあこんなもん、別にだれが読んでるわけでもないので、そんなんでもええかと納得。

 ということで、今回は私とゆかいな仲間たちの『妄想プレイヤー1』をご紹介。

 全員、1970年代の生まれ。

 多分に、そのへんの記憶が放り込まれているということで、同年代くらいの「元少年」だけ笑ってください。

 

 

 

 1 あなたのアバターと、カーレースに参加する乗り物はなんですか?

 


 ベットウ「剛球超人イッキマンサイドマシン

 ホンドウ「サンソン大門軍団のスーパーマシン」

 ワカバヤシ「怪盗ジゴマローラースケート

 ドイガキ「サファイア王女ポケバイ

 カネダ「岸部シロー沙悟浄ジェットモグラ

 私「快獣ブースカ犬ホームズベンツ

 


 2 あなたが恋に落ちるヒロイン「アルテミス」のアバターは?

 


 ベットウ「雪子姫

 ホンドウ「真野妖子

 ワカバヤシ「日高のり子

 ドイガキ「バーバレラ

 カネダ「さびしんぼう

 私「森永奈緒美

 


 3 心ゆるせる相棒「エイチ」のアバターは?

 


 ベットウ「レンタヒーロー

 ホンドウ「ジェイガン

 ワカバヤシ「ノッポさん

 ドイガキ「野村義男

 カネダ「Aチームコング

 私「岸田森

 


 4 レースの邪魔をする2匹モンスターはなんですか?

 


 ベットウ「次藤洋早田誠

 ホンドウ「REX巨大松坂慶子

 ワカバヤシ「いじわるばあさん海原雄山

 ドイガキ「エド・ゲインアンソニー・パーキンス

 カネダ「トリフィドと『クレイジー・クライマー』のゴリラ」

 私「グエムルハングラー

 


 5 あなたが戦うノーラン・ソレントの正体は?

 


 ベットウ「坂本金八

 ホンドウ「桔梗屋利兵衛

 ワカバヤシ「宮脇健

 ドイガキ「ゲーリー・オールドマン

 カネダ「金子信雄

 私「ウルトラ・スーパー・デラックスマン

 


 6 ノーランを助ける凄腕女秘書フレーナは?


 ベットウ「志穂美悦子

 ホンドウ「24周目のシルビア

 ワカバヤシ「茂森あゆみ

 ドイガキ「デミ・ムーア

 カネダ「ドリュー・バリモア

 私「クロエ・モレッツ

 


 7 失恋相手にダンスを申し込む場面で舞台となる、映画と流れている音楽は?


ベットウ「『ロケッティア』とSSTバンド

ホンドウ「『シベリア超特急』と【閣下音頭】」

ワカバヤシ「『小さな恋のメロディ』と【シンドバッドのぼうけん】」

ドイガキ「『天井桟敷の人々』とセックス・ピストルズ

カネダ「『時計じかけのオレンジ』とワンダバ

私「『イントレランス』の古代バビロンミッシェル・ガン・エレファント

 


8 水晶の鍵ゲットのためにクリアしなければならないゲームは?


ベットウ『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー

ホンドウ『イーガー皇帝の逆襲

ワカバヤシ『ヘルメット

ドイガキ『バルーンファイト

カネダ『クルードバスター

私『アイドル八犬伝

 


 9 劇中で使われる、あなたにとっての「手榴弾」は?

 

 ベットウ「コルトパイソン.357マグナム

 ホンドウ「ストームブリンガー

 ワカバヤシ「ボタンパンチ

 ドイガキ「オルゴン・エネルギー

 カネダ「ライトンR30爆弾

 私「バリツ

 

 

 10 大ボス怪獣、あなたならなにを選ぶ?

 

 ベットウ「ミンスク仮面

 ホンドウ「ドルアーガ

 ワカバヤシ「ツチノコ

 ドイガキ「アンゴルモアの大王

 カネダ「クトゥルフ

 私「ジャンボキング

 


 11 それに対抗するあなたメカヒーローは? 


 ベットウ「ジェットアローン宇宙刑事ギャバン

 ホンドウ「プロジェクトグリズリーのスーツとPL時代清原和博

 ワカバヤシ「ゴルゴングオシシ仮面

 ドイガキ「ロボコンジャンボマックス

 カネダ「ロビー・ザ・ロボットユン・ピョウ

 私「ジェノバジャンボーグA

 

 

 

 12 あなたにミッションを課す「ハリデー」の正体は?

 

 ベットウ「宮内洋

 ホンドウ「松岡修造

 ワカバヤシ「マルクス・アウレリウス・アントニウス

 ドイガキ「中島らも

 カネダ「千石イエス

 私「安田均

 


 以上、12項目。

 あなたの答えと一致するところがあれは、友達になりましょう。

 

 

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オレ様専用『レディ・プレイヤー1』を妄想するのは国民の義務です

2022年04月12日 | 映画

 「観たあと『オレ・プレイヤー1』考えるのが、ホンマの楽しみ方やろ!」。

 オンラインの飲み会で、そんなことをほたえたのは、友人ホンドウ君であった。

 先日、ここで古いマンガ『プラモ狂四郎』を取り上げたところ(→こちら)、それを読んでくれたホンドウ君が、「なつかしいねー」と、すぐさま連絡をくれた。

 そこから、懐古趣味的オタク話で盛り上がっていると、

 「楽しそうなことやってるやん、オレもまぜてくれよ!」

 続いて、他のボンクラ仲間たちが集まってきたのだ。

 話はプラモやマンガを経て映画のことに飛び、『レディ・プレイヤー1』がおもしろいよな、という流れに。

 そこでワカバヤシ君という友(関東出身)が、

 

 「あそこでガンダムは熱いけど、ちょっとベタだよね」

 

 というと、別の友人カネダ先輩が、

 

 「あー、原作(アーネスト・クライン『ゲームウォーズ』)ではレオパルドンやねんから、もっと、自由なチョイスでよかったな」

 

 そう提言すると、ドイガキ君という男子が、

 

 「でも、レオパルドンに対抗できるメカも、なかなかないでしょ、いろんな意味で」

 

 そこに後輩であるベットウ君がすかさず、

 

 「まあ、レオパルドンはレオパルドンで、逆にワーキャーッスけどね。どっちにしても、あそこはガンダムより、もうちょっと、ありそうですもんねえ」

 

 そこから話は盛り上がり、

 

 「わかる、ガンダムって、実はそんなかっこよくないねん」

 「カッコ悪くはないけど、いかにも主人公メカって感じでなー。それやったら、ガンキャノンの方が魅力あるよ」

 「SFファンは、そう言いますよね。『宇宙の戦士』つながりで」

 「ちゅうか、あそこ別に、モビルスーツやなくてもええんスよね」

 「時代的には、ダグラムとかザブングルとか」

 「それも王道だなあ……」

 「いや、別にマイナーメカに、せなあかんてゆうルールはないから(笑)」

 「でも、あれって大喜利の要素もあるやん」

 「あー、あるねえ。ジェットジャガーとか、まさにそうや」

 「レオパルドンやったら、ウルトラマンのところも、80ザ・ウルトラマン

 「アンドロメロスとかね」

 「今の子、知らんやろなー。アーネストとスティーブンは知ってるやろけど」

 

 なんて盛り上がっていたところ、冒頭のようにホンドウ君が、

 

 「せやねん、結局そこにいきつくねん。【オレやったら、こうする!】てなるやん。だから今日はもう、みんなで『オレだけのレディ・プレイヤー1』決定版を作ろうぜ!」

 

 うーむ、なにやら、おもしろげなことに、なってきたではないか。

 あの映画は、見たらとにかく男子の中にある「少年の心」を、むやみにくすぐるところがある。

 ヤクザ映画を観たあと、やたらと風を切って歩き、音楽ライブの帰りは電車の中でエア楽器を奏でるように、オタク映画は観終わって、

 「オレなら、あそこはあのキャラを出す!」

 と妄想を働かせるものなのだ。

 じゃあやってみようとなったが、なんせみんな喋りたいもんだから、マイクの奪い合いで収集がつかない。

 もう、みんな40代で、家庭を持ってる奴も多いのに阿呆……もとい気持ちは若いが、そこで、手まめなワカバヤシ君が、

 「設問形式でまとめるから、それに答える形で行こう」

 ということで、以下、ワカバヤシ君がまとめてくれた質問箱。

 これに答えると、あなたも自分だけの『レディ・プレイヤー1』が脳内上映できます。

 

 1 あなたのアバターと、カーレースに参加する乗り物はなんですか?

 2 あなたが恋に落ちるヒロイン「アルテミス」のアバターは?

 3 心ゆるせる相棒「エイチ」のアバターは?

 4 レースの邪魔をする2匹のモンスターはなんですか?

 5 あなたが戦うノーラン・ソレントの正体は?

 6 ノーランを助ける凄腕女秘書フレーナは?

 7 ダンスを申し込む場面で舞台となる、映画と流れている音楽は?

 8 水晶の鍵ゲットのために、クリアしなければならないゲームは?

 9 劇中で使われる、あなたにとっての「手榴弾」は?

 10 大ボスの怪獣、なにを選ぶ?

 11 それに対抗するあなたメカヒーローは? どちらも答えてください

 12 あなたにミッションを課す「ハリデー」の正体は?

 

 他にも色々あるけど、キリないからこれくらいで。

 この遊び、いや、すんげぇ楽しかった。通話が終わったあとも、

 「さっきの3番やけど、やっぱ最初に言うてたやつに変えてもええ?」

 とかラインでやりとりしてるの。中学生昼休みか!

 それくらいアツくなる『オレ・プレイヤー1』(それぞれが何を選んだかは→こちら)。

 自分の中の「正解」が次の日には変わってるから、何度でもやり直せて、時間つぶしには最適。

 いや、メチャメチャ楽しいな、コレ!

 

 

 

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ルイ・マル監督『ビバ!マリア』はエレガントな美女西部劇

2021年12月13日 | 映画

 映画『ビバ!マリア』を観る。

 『死刑台のエレベーター』

 『地下鉄のザジ』

 『さよなら子供たち』

 などなど、お気に入りのルイ・マル監督といえば、これは手を出さないではいられません。

 主演が名女優ジャンヌ・モローに「BB(べべ)」ことブリジット・バルドーと豪華版だが、まさにそれにふさわしい、盛りだくさんな内容に仕上がっている。

 私は映画紹介に関しては「浜村淳スタイル」を採用しているので、ネタバレがイヤな方は、今回、全部飛ばしてください。

 

 

 

 オープニングは1889年のアイルランド

 イングランド軍が衛兵交代をしている隣の芝生で、小さな女の子が毬遊びをしている。

 かわいらしい光景で、なんとも牧歌的なはじまりかと思いきや、女の子のむかう先にいたパパが毬にをつけると、なんと衛兵たちのいる砦が大爆発

 続けて1884年のロンドン

 やはりかわいらしい少女が、雪の中でりんご売り。
 
 健気な彼女が、お届け物を警察署に。

 おまわりさんから、頭をなでられたりしながら、しばらくすると署がドッカン

 パパと少女が、逃げ込む先の建物には貼り紙があり、そこには「賞金首」の文字。

 もちろん、そこにあるのは2人の写真

 そう、なんとこの仲睦まじい父娘は、支配者であるイングランドに対抗する、アイルランドの爆弾テロリストだったのだ!

 そこからさらに時が過ぎ、すっかり大人になったブリジット・バルドーは相も変わらぬテロ生活

 ジブラルタルで、中央アメリカで、憎きイングランド軍をバッコンバッコン爆発させます。まさに爆弾娘。

 残念なことに、中央アメリカの仕事でパパは捕まり、最後の命令で泣く泣く橋とイングランド人もろともパパを吹っ飛ばしたべべは、ボードビル一団にまぎれむことに。

 そこで、なんとジャンヌ・モローと「マリアとマリア」というユニットを結成し旅芸人になる。

 そこから、急にミュージカルがはじまり、ジャンヌとべべが歌うわ踊るは、足や肩までチラリと見せるサービスぶりで、そこにロマンスもはさまって、楽しい歌劇と恋愛ものに。

 『地下鉄のザジ』を撮ったルイ・マルのことだから、スラップスティックな恋愛コメディーに走るのかと思いきや、ジャンヌが革命青年に恋して、物語はまさかの急展開

 死んだ恋人の意志を継ぎ、さすがは女芸人ということでシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』のセリフで民衆をアジってアジって、なんと気がつけば革命軍のリーダーに(!)。

 さっきまで機嫌よく、歌って踊ってしてたのに、

 「なんでそーなるの?」

 という話だが、最初は嫌がっでたべべも、女の友情と昔取った杵柄ということで、いつも間にやら爆弾片手に手助けするハメに。

 そこからは美女2人が、ライフル撃つはマシンガンぶっ放すは、当然のことながら爆弾もバンバンで、もう大変なことに。

 いつの間にか物語は南米風西部劇になり、アクションあり美女の危機ありのハラハラドキドキで、でもそこはルイ・マル監督だから、やたらとエレガント

 なにかもう、娯楽要素てんこ盛りで、まー観ていて楽しく、ただただゴキゲンだ。

 あと、この映画はエンタメの裏に、ひそかな風刺性もある。

 中南米といえば、とにかく「独裁」のイメージがあった時代背景もあり、しかも権力といえば資本家軍隊宗教がワンセットということで、時代や地域を問わず普遍性があることもわかる。

 今なら「メディア」も入ることだろうけど、

 「電気がある」

 ことが権力者の自慢なんだから、まだそういう時代ですらないのだろう。

 

 「ここは中世」

 

 ってセリフもあるしね。

 こういうのは、できたら「他人事」として楽しみたいけど、今の日本だとどうなんでしょう。

 そんなことも感じさせてくれる、ハチャメチャでゆかいな娯楽作『ビバ!マリア』は、女優の魅力もすばらしく、とってもオススメです。

 

 

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映画『ギャラクシー・クエスト』はオタク的にも、コメディとしても一級品

2021年02月26日 | 映画

 映画『ギャラクシー・クエスト』が、おもしろい。

 昨今ではオタク文化といえば「日本のお家芸」といったイメージがあるが、もちろんマニアックな趣味人の世界は、時代東西を問わず存在する。

 そんな「OTAKU」をあつかった物語といえば、日本だと

 

 『げんしけん』

 『トクサツガガガ』

 

 など枚挙に暇がないが、海外でも

 

 『宇宙人ポール』

 『暗黒太陽の浮気娘』

 

 などたくさんあり、この『ギャラクシー・クエスト』もまた、そのひとつなのである。

 主人公は人気SFテレビドラマ『ギャラクシー・クエスト』に出ていた俳優たち。

 すでに放送終了から20年も経っているのに、そのカルト的人気はおとろえず、今でも様々なイベントが開催されるほど。

 俳優たちは往年の衣装を着て、劇中の名セリフを朗読したりして喝采を浴びているのだ。

 ところが、彼ら(ひとりは女優)の現状はといえば正直、役者としてはサッパリ

 いわば『ギャラクシー・クエスト』での仕事は「一発屋の営業」というか、皆食うためにイヤイヤだったり、倦怠だったりして、完全に「お仕事」としてやっているわけなのだ。

 宇宙人のアレクサンダーは劇中の決めセリフを言うことを、かたくなに拒否し、ヒロインのグエンは演技より「オッパイのでかさ」しか語られないことに、ウンザリしている。

 かわいかった子役の黒人トニーも、今では「ふつうの大人」でしかないし、『プロテクター号』艦長のジェイソンは、ドラマの中と違いヘラヘラしてるが、ファンが自分のことを陰で、

 

 「過去の栄光にすがるイタイ奴」

 

 嘲笑しているのを知り、ショックを受ける。

 そんなパッとしない二流の役者たちが、ある日突然サーミアンという宇宙人の船に連れていかれることから、話が大きく動き出す。

 嘘をつくという概念がなく、すべての物事を「本当のこと」と受けとめるサーミアンたちは、なんと『ギャラクシー・クエスト』を「本物のドキュメンタリー映像」と解釈。

 クルーたちの、勇気あふれる戦いに感動し、

 「あの人たちの手を借りよう!」

 なんと悪の宇宙人サリスを、やっつけてくれと頼んでくるのだ!

 ムチャクチャな展開で、こんなアホ気な設定をどうやって進行させていくのかとあきれる思いだったが、この映画、それを見事な脚本でさばいていくのだ。

 まず、クルーたちが

 「オレたちは宇宙船の操縦なんて、できない!」

 とうったえると、

 「大丈夫、あなたたちが使いやすいように、映像のままの仕様に作ってある」

 つまり、役者たちがセットで演じたように、ボタンを押せばテレビでやってたままビームが出るし、「全速前進!」とレバーを上げれば宇宙船は操縦できる。

 その他、廊下の長さからトイレの位置まで、すべてドラマ通り。

 これなら、『ギャラクシー・クエスト』を見てたら、だれでも操縦できるやんけ!

 これには腹をかかえて爆笑するとともに、えらいこと感心してしまった。

 なーるほど、こりゃだいぶ、脚本練ってるやないかいな。

 とにかくこの映画、設定的な乱暴さを、すべてこういう手順で納得させていくのがお見事。

 SF的な「文明間の齟齬」が、巧みに設定リンクさせてるの。いやー、うまいですわ。

 さらには、そういう噛み合わなさと、オタク的発想がギャグとしても次々飛び出す。

 たとえば、ジェイソンとグエンが船内を冒険するときも、やたらと危険な障害物があれこれ出てきて、

 

 「なんでこんなものが船内にあるの?」

 「ストーリーを盛り上げるためだよ。意味なんてない」

 「その回の脚本を書いたヤツ、絶対殺してやる!」

 

 みたいな、やり取りがあったり。

 反炉心を停止させるボタンを押すが、何度やっても反応せず、すわ、お終いか!

 覚悟を決めたところ、「1秒」の表示でピッタリ止まったり、といった「お約束」とか。

 なんで自分が乗ってる船に、乗組員を殺そうとする罠があるのか、なぜあらゆる危険なボタンは、押してすぐ反応しないのか。

 もちろん、これらはストーリーを盛り上げるため、ドラマ本編で脚本家がいい加減に書いたものを、サーミアンが忠実再現してるのだ!

 なんという余計なお世話で、グエンがブチ切れるのも納得だが、もしそうでなかったらメンバーは宇宙船を操縦できなかったんだから、しょうがないよねえ。

 トドメに笑っちゃうのが、船内をリモートで案内するのが『ギャラクシー・クエスト』の大ファンである、イケてない青年ブランドンなこと。

 なぜ彼がナビをするのかと問うならば、オタクの彼はクルーたちのだれよりも『プロテクター号』のことにくわしいから。

 一方の出演者たちは、ファンほど自分たちのドラマに思い入れもないから、オンエアをまともに見ていないわけで、船内の構造なんて、なんの知識も興味もない!

 これまた洋の東西や時代を問わない

 「伝説の作品あるある

 であって、元ネタの『スター・トレック』にかぎらないわけだが、「わっかるわー」と、もう爆笑に次ぐ爆笑。

 それこそ、『ルパン三世』次元大介を演じておられた小林清志さんも、

 

 「ファンの方から、よく次元の思い出を聞かれるんですが、昔の仕事なんで、よく覚えてないんです」

 

 インタビューで困ったように答えられてましたが、たしかにわれわれは好きな作品を何回、ときには何十回と鑑賞したりするけど、むこうは

 「仕事で1回

 なんだから、そこに温度差が出るのは、やむを得ないのであるなあ。

 『ギャラクシー・クエスト』は、このようなファン心理やオタク心をくすぐるネタがてんこもりで、もう楽しい、楽しい。

 以前、『蟲師』などで知られるアニメ監督の長濱博史さんが、

 

 「『機動戦士ガンダム』を見たときの感動はね、あー、あのガンダムの胸のギザギザは排気口なんだ。あー、あの額の穴はバルカン砲で、横の出っ張りに弾が入ってるんだって。

 そうやって見た目の違和感を、次々と説明してくれることなんだ。冨野さんに言いくるめられる快感なんだよ!」

 

 なんて『熱量と文字数』で熱く語ってましたけど、まさに言えて妙。

 私も『ギャラクシー・クエスト』のおもしろさは、この「つじつまを合わせる」楽しさ、「いいくるめられる」快感にあった。

 そんな風呂敷広げて、そうたたみますか、と。ピタゴラスイッチ的ニコニコ感、とでもいいますか。

 それはもうですね、やはり制作人による愛憎入り混じった「オタク愛」と、しっかり練られた脚本の力が大きい。

 しかも、クライマックス付近では、役者たちのトホホな人間性や、劣等感、ドラマのマヌケ設定が、すべて伏線回収で「感動」に転化されるのだからスバラシイ。

 観て思ったことは、日本のエンタメ映画の弱さは、まさにこの「構成力」の不足にあるのではないか。

 とりあえず演技のヘタな役者と、「説明セリフ」と「浪花節」に頼ったフニャフニャのストーリーはもうウンザリ。

 めんどうかもしれないけど、地道に脚本を練る作業を、もっと重視してほしいなあ。

 『カメラを止めるな!』が当たったのとか、まさにそこだと思うんですよ。

 


 

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柘植文『野田ともうします』に見る「おもしろく間違う」の好例 アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』のマグロのお刺身編

2021年02月12日 | 映画
 「おもしろく間違っている人」と話すのが楽しい。
 
 という話を先日したわけだが(→こちら)、小説や映画の感想をあれこれしゃべっていて、「正しい解釈」を語るよりも、
 
 「ズレていても、その人にしか思いつかない視点」
 
 これを見せてくれる人の方が、圧倒的に興味を惹かれるのだ。
 
 私も若いころはそうだったが、どうしても人間は自分のさかしらな知識を披露し、そのプライド自己顕示欲を満たすために、せっせと物語の「テーマ」「メッセージ性」などを探し、アピールすることに血道をあげてしまう。
 
 だが実際のところは、そんなもん聞かされても、退屈でめんどくさいことが多いし、中身もうすく、的外れなことがほとんどだ。
 
 そういうものは、玄人の映画評論家や書評家にまかせておいて、われわれはもっとフリーダムにやってもいいのでは。
 
 経験的に見ても
 
 「それ絶対に鑑賞ポイント間違ってるけど、オレには絶対に思いつかん発想やわ」
 
 という「間違った」意見の方がよっぽどか参考になるし、その人となりが伝わるものなのだ。
 
 その好例を、今回ここに紹介してみたい。
 
 ドラマ化もされた、柘植文先生『野田ともうします』の1シーンで、
 
 
 
 
 
 
 
 
 これですよ! これ、これ!
 
 この野田さんによる、読みどころのはずし方がすばらしい!
 
 あのヘミングウェイの名作といわれる『老人と海』を捕まえて、
 
 
 「マグロの刺身がうまそうじゃない」
 
 
 とは、独自が過ぎるではないか。
 
 しかも「主人公に共感できません……」とうなだれるとか。
 
 そんなに大事か、マグロの刺身
 
 さらに彼女が偉いところは、
 
 「巨大魚との戦いの過酷さ」
 
 という本質をしっかりと読み取ったうえで、「だとしても」と間違っていること。
 
 この「一回、知性が乗っかった」うえで、わざわざ「そっちかよ!」と意表をつきまくる。
 
 つまりは「頭のいい誤読」なのだ。
 
 もっと言えば、すべてが本気なのがいい。こういうところで、
 
 
 「オレはちょっと、ナナメの視点からモノを見れるセンス系の人間」
 
 
 というアピールをされると、冷めることはなはだしい。
 
 ウケねらいではダメなのだ。そこに「熱き魂」があってこその、おもしろい間違いである。
 
 その点、野田さんの解釈、エド・ウッド風に言えば「パーフェクト!」
 
 私もこれから海外文学に接するときは、
 
 
 「文学における和食的美味の視点」
 
 
 これを忘れずに、その妙味を味わってみたいと思う。
 
 
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映画や小説の「正しい解釈」と、「おもしろく間違う」ことについて その2

2021年02月03日 | 映画

 前回(→こちら)の続き。
 
 小説映画の感想を「間違っている」「的外れ」と言われても、昔と違って全然気にならなくなったのは、
 
 
 「独自的で、おもしろく間違っている人」
 
 
 の話を聞く方が、圧倒的に楽しいからだ。
 
 岡田斗司夫さん言うところの「トシオの妄想」というやつだ。 
 
 映画や小説には「正しい解釈」というか、それに近いものというのはたしかに存在する。
 
 
 「ゲーリー・クーパーとグレース・ケリーの『真昼の決闘』は、監督のフレッドジンネマンがハリウッドに蔓延する《赤狩り》を批判したもの」
 
 
 といったことは、評論家による解説や、監督のインタビューなどで語られてて、こういう
 
 
 「製作者の意図」
 
 「映画史における作品のポジション」
 
 「無意識に出てしまった監督の思想や欲望」
 
 
 などなどが、きっと定義的には「正解」となるのであろう。
 
 しかしまあ、こういうのはプロにまかせておけばいいのではないか。
 
 たとえば、中島らもさんはチャーリーチャップリンの名作『モダンタイムズ』を見て、怒りを覚えたという。
 
 激おこのシーンは、かの有名な、チャップリンが歯車の中で弁当を使うシーン。
 
 そこでチャーリーは機械によって、スープをにぶっかけられたり、トウモロコシで歯みがきをさせられたりするわけで、この場面の「正解」はもちろんのこと、
 
 
 「機械に支配されるかもしれない、ディストピア的未来を喜劇的手法で表現している」
 
 
 ということだろうが、らもさんは子供のころ、ここを観ながら、
 
 
 「チャーリー! おまえ、オレよりええもん食うてるやんけ!」
 
 
 機械に支配されてもいいから、あんな豪華ランチを食べたいんやと。
 
 これには文明批判のつもりのチャーリーも、スココーン! とズッコケることであろう。
 
 似たようなところで、『アパートの鍵貸します』でも、ジャックレモン冷凍食品の弁当で夕食をすますシーンがあって、もちろんこれも、
 
 
 「独身男のわびしい晩餐」
 
 
 を表しているのだが、和田誠さんと三谷幸喜さんは対談でこの映画を取り上げ、
 
 
 「みじめさを表現してるんでしょうけど、チキンとかあって、おいしそうなんですよね」
 
 
 これらの感想など、思いっきり制作サイドの思惑とを行っている「間違った」ものだけど、私としては「たしかに」と納得いくものであったし、
 
 
 「『貧しかった昭和日本』の経済や食事情」
 
 
 を理解させてくれるところもある。
 
 東野圭吾容疑者Xの献身』は本格推理というより、
 
 
 「モテない男の純愛小説」
 
 
 と読み解く作家の本田透さんや、ラジオで映画『プリティ・ウーマン』を、
 
 
 「主人公が男前じゃなかったら、とんでもなくゲスいストーリーや! その証拠にリチャード・ギアサモ・ハン・キンポーに入れ替えたら女性陣だれも観ませんよ!」
 
 
 そう喝破した、竹内義和アニキ。
 
 映画評論家の町山智浩さんなど、『ポセイドンアドベンチャー』のことを、「WOWOW映画塾」ではダンテの『神曲』をベースにメチャクチャ格調高く語ってたのに、『ファビュラスバーカーボーイズの映画欠席裁判』では、
 
 
 太ももだよ! この映画は若いオネーチャンがホットパンツから健康的な太ももを見せるのところがポイントなんだよ! リメイク版でそれを入れなかったのは万死に値する!」
 
 
 いやもう、これには「ダンテはどこ行ってん!」と爆笑しながらも、大いに共感してしまったもの。
 
 私も友人ナニワ君と映画『アベンジャーズ』を一緒に見たとき、
 
 
 「スカーレット・ヨハンソンのがサイコーや!」
 
 
 しか言わなくて、昼下がりのファミレスで、周囲の家族連れや女子高生にイヤな顔をされたもの。 
 
 いや、『アベンジャーズ』の魅力はそこ(だけ)ちゃう!
 
 でも、いいんである。
 
 そう考えると、私がこうした「そことちゃう!」な話が好きなのも、だれかと映画の話をするときは、その映画がどうとかよりも、
 
 
 「その映画を見て、目の前の人がどう思ったか。自分とは違う、どんな独自の世界観を見せてくれるのか」
 
 
 これを期待しているのだ。 
 
 いわば人を見ているのであって、作品はその「触媒」のようなものかもしれない。
 
 その化学反応こそが興味深く、きっとそれは作品自体の生の魅力とは別個のもの。
 
 その両方があってこそ、「映画談義」は豊かなものになり、「正解」よりも主観にかたよっていればいるほど、おもしろい。
 
 だからそう、われわれは「正しい」に臆することなかれ。
 
 間違うために、映画館に行こう!
 
 
 (続く
 
 
 
 
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映画や小説の「正しい解釈」と、「おもしろく間違う」ことについて

2021年02月02日 | 映画
 「その映画の観方と解釈、間違ってますよ」。
 
 なんて指摘を受けることが、たまにある。
 
 映画が好きなので、おもしろい作品に出会うと、あれこれ語りたくなるのだが、それが相手の心にヒットしないなんてことはよくあるもの。
 
 間違っている。
 
 そう突きつけられると、若いころはビビったものだ。
 
 映画や小説についてドヤ顔でテーマや見どころを披露したのに、時に冷笑するように、時に怒りや、あわれな人を見るような目で、ドカンと爆弾を落とされる。
 
 根が小心者なので、そうなるとこちらは顔面蒼白。全身から冷や汗が噴き出し、や……やってもうた……と、言葉を失ってしまう。
 
 とりあえずその場は、「あ、そうなんすかー」と笑ってごまかすとして、すぐさま本屋図書館にダッシュ。
 
 「映画」コーナーに行くと、そこにある
 
 
 「世界名作講座」
 
 「名画の鑑賞法」
 
 「監督、自作を語る」
 
 
 みたいな本を、かたっぱしから手に取って熟読
 
 上下左右、様々な角度から、徹底的に「テーマ」「構成の妙」「監督の演出意図」などなどを付け焼刃的に頭に放りこみ、理論武装に血道をあげることとなる。
 
 でもって、そこで仕入れた知識を他の場所で、あたかも自分だけの解釈のように披露し、
 
 
 「どうや、オレは映画にくわしいやろ! 教養もあるやろ! 難解なテーマも見逃せへんぜ!」
 
  
 懸命にを雪ごうとしたものだ。
 
 今思えば若かったというか、まあ映画や読書好きというのは一度はというか、星の数ほどこういうトホホな時代を経験し赤面することになる。
 
 まあこれはこれで、「聞くは一時の恥」みたいに勉強にもなる面もあるわけで、あながち悪いことだけでも、ないかもしれなけど。
 
 では、ナウなヤングでなくなった現在ではどうなのかといえば、これが「間違ってる」とか言われても、全然平気になってしまったなあ。
 
 日常会話とか、あとこのブログでも、たまに映画や小説を取り上げると、
 
 
 「それ違うよ」
 
 「的外れな感想でガッカリしました」
 
 
 なんてコメントをいただいてしまうこともあるけど、
 
 「ま、それもまたよし」。
 
 と思うくらいで、昔みたいに、あわてることもなくなってしまった。
 
 その理由としては、まずそんな
 
 「間違ってるかどうか」
 
 なんて、どうでもいいやん、ということ。
 
 映画でも小説でもお芝居でも、一番大事なのは
 
 
 「自分にとっておもしろいかどうか」
 
 
 であって、そんな
 
 
 「この作品はどういうテーマで作られているのか」
 
 「このシーンはどういう意味があるのか」
 
 
 なんてことを発見するために見るわけでもない
 
 いや、もちろん「テーマ」や「意味」も大事だけど、それはわかったらいいし、わからなければ後で人に訊くとか評論家の本でも読めばいい。
 
 でもそれは
 
 
 「わかると、作品をより楽しむことができる」
 
 
 からするものであって、別にそのことをドヤ顔で語って、頭のよさや映画知識の豊富さを競ったり、まして他者に優越感を感じたり、「正しい」のお墨付きをもらうためであるなら、
 
 「まあ、それはどっちでもいいなあ」
 
 という気になってしまうのだ。
 
 たとえば、私は町山智浩さんのファンで、著作や『WOWOW映画塾』を楽しんでいるけど、町山さんの
 
 
 「取材力」
 
 「教養」
 
 「洞察力」
 
 
 といったものは大いに学んで、吸収させてもらっている一方で(名著『映画の見方がわかる本』は今もバイブルです)、ことこれが「解釈」になると意見が違ってても、なんとも思わない
 
 だって、映画や小説の解釈には「正解」があって、それ以外の鑑賞法や感想を「ダメ」というのなら、そんなものテストでも受けさせられているようなもんで、楽しくもなんともない。
 
 そんなことに、1800円2時間という時を払いたくないよなあ、と。
 
 もちろん、若いときはそれが「教養」に結びつくし、知識を競い合うオタク的会話も基本的には大好きだけど、それよりなにより、心から笑ったり泣いたり心震わせたりして、
 
 「ええもん見たなあ」
 
 と満腹するのが、あえてこの言葉を使えば「正しい」鑑賞法だろう。
 
 そこで感じたことを「間違い」と言われたら、「そっすかね、恥かきましたか」とか頭をかきながら、でも心の中では、
 
 「ま、でもそれはそれで、ネ」
 
 としかならないのだ。今となっては。 
 
 さらにいえば、これは個人的嗜好かもしれないけど、これまで映画や小説の話をしてきた経験上「正しい解釈」を語る人よりも、
 
 
 「おもしろく間違っている人」
 
 
 この話を聞く方が、圧倒的におもしろいということに、気づいたからでもあるのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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「カニエ・ウェストこそが真の男である!」と独眼鉄先輩は言った

2021年01月02日 | 映画

 カニエ・ウェストこそは、男の中の男と呼ぶのにふさわしいのではないか。

 私はここ数年、新年に目標とするべき「アニキ」や「師匠」を表明してきた。

 2017年度は杉作J太郎さん、2018年度はチャーリー・シーン、2019年度は平山夢明先生などをリスペクトする文を書いてきたが、今年度は人気ラッパーのカニエ・ウェストでキマリである。

 映画評論家の町山智浩さんは『週刊文春』のコラムなどで、よくカニエのアニキが大暴れしている様をネタにしているが、もう何度読んでも笑ってしまうのだ。

 『トランプがローリングストーンズでやってきた』でネタにしていたのは、「Kanyeing」(カニエる)というスラングで、これは

 「邪魔なやつが、しゃしゃり出てくること」

 日本語でいえば「空気読めない」「ウザい」ってことだけど、まあ端から見ているとメチャクチャでおもしろい。

 たとえば、「Kanyeing」が流行ったそもそもの発端は、2009年のMTVビデオ大賞で、最優秀女性アーティスト賞をもらったテイラー・スウィフトがスピーチしようとしたのを邪魔したところから。

 いったんは和解しおさまったと思いきや、次に出した新曲で、

 
 「俺、テイラー・スウィフトとセックスできそうな気がするんだ。なぜって、あのビッチを有名にしてやったのが俺だから」


 これ以上底がないという、サイテーなうえにも最低な歌詞をつけたのだが、アニキの暴走はこんなものではすまない。

 その語録はイカしたものばかりで、


 「俺の人生で一番つらいことは、カニエ・ウェストの生演奏が観れないことさ」

 「ライバルが誰かと考えると、思い浮かぶのは過去の人ばかりだね。ミケランジェロとかピカソ、あとピラミッドだな」

 「俺はウォルト・ディズニーだ。ハワード・ヒューズだ。スティーブ・ジョブズだ。俺と並べて、彼らも光栄だろう」

 「俺はアンディ・ウォーホールだ。同時代でもっとも影響力があるアーティストだから。俺はシェイクスピアだ。ナイキだ。グーグルだ」

 
 昔、ある作家だったか、マンガ家だったかが、「宇宙に行ってみたい」という理由に、

 

 「オレがいない地球を一度見てみたい」

 

 と答えたそうだが、それを彷彿とさせるオレ様ぶりだ。ピラミッドとかグーグルとか、もはや人ですらない

 カニエ・ウェスト対王の墓。今年の年末は、このカードで決まりであろう。

 内田樹先生はその著書の中で、

 「あなたの師を探しなさい」

 再三述べておられるが、私の師はまさに、このお方しかあり得ない。

 というわけで、私の今年の目標は

 「カニエ・ウェストのようなスターになる」。

 まずはその前段階として、形から入るタイプの私は、

 「新年会で、これまで自分とケンカした女の子を、ビッチ呼ばわりする歌を歌う」

 ことからはじめてみたいと思う(←絶対ダメだろ)。

 2021年も、よろしくお願いします。

 

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映画『ブラックブック』 ポール・バーホーベンはいつもガチ 

2020年11月30日 | 映画

 映画『ブラックブック』を観る。

 

 『ロボコップ』

 『インビジブル』

 『スターシップ・トゥルーパーズ』

 

 などなど、気ちが……作家性の強い作品で名を成すポールバーホーベン監督の歴史サスペンス。

 そのアクの強い作風ゆえ、ハリウッドを追い出され、

 

 「じゃあ、もうコッチで好きにやらせてもらいまっせ!」

 

 居直って地元オランダに帰ったバーホーベンが、ナチスものを作るとなったら、そらなかなか一筋縄ではいきませんわな。

 ストーリーの骨格としては、ナチに家族を殺されたユダヤ人女性がレジスタンスに加わって復讐を試みるが、お約束の裏切り者や、敵の卑劣な策などもあり逆にドイツへの協力者に仕立て上げられ……。

 といった、わりかし、わかりやすいといえば、わかりやすいもの。

 それこそ古くは、アルフレッドヒッチコックあたりが撮れば、スリルあり、ロマンスあり、シャレたセリフもあったりしてハラハラドキドキのエンタメに仕上がりそうだが、これがバーホーベンにかかると、そんな期待など、ものの見事に裏切ってくれます。

 とにかくこの映画、ナチスものでよくある

 

 「ドイツ人=悪」

 「連合軍やレジスタンス=善」

 

 といった、それこそポールが最後までなじめなかった、ハリウッド的な二元論を徹底的に否定する。

 家族の仇で、どうしようもない悪党ギュンターフランケンは音楽を愛し、ピアノと歌の才能にも恵まれている「芸術家」という設定。

 ルートヴィヒムンツェ大尉は「ナチなのに立派」と描写されているけど、もちろん直接見せないだけで、SSである彼のせいで多くの人が殺されている。

 レジスタンスにも裏切り者や、差別意識を見せる者、家族への想いゆえに理性的行動を取れなかったり、きわめて人間臭い。

 「被害者」であるオランダ人やユダヤ人だって、いったん「勝者」側につけば、正義の名のもとに「ナチよりひどい」蛮行におよぶ。

 こういった、ポールによる徹底的にペシミスティックで、諦観に満ちたというか、お茶でも飲みながら

 

 「人って、そういうもんやろ

 

 とでも言いたげなクールが過ぎる描写に、観ている方は本当にカロリーを使う。

 さらにはそこに、陰毛脱色、足をトイレにつっこんで洗う、血みどろに糞尿まみれ。

 まさに「バーホーベン節」ともいえるエログロが炸裂しまくって、なんかもう、とにかくポール絶好調

 特にキツイのが、戦争が終わったあと、対独協力者にオランダの「善良な市民」がリンチをかけるシーン。

 もう、これでもかというテンションの高さで描写される「魔女狩り」は正直、正視に耐えない。

 こんな明るい醜さ、よう描けるもんだ。
 
 昔、第二次大戦のドキュメンタリー映像で、「パリ解放」のシーンを見たときのことを思い出す。

 そこではパリ市民が、ドイツ人と仲の良かった女を、これ以上ない満面の笑みで丸刈りにし、「私はナチのメスブタです」と書かれたプラカードを下げさせ、顔にハーケンクロイツを落書きし、市中を引き回す。

 子供も大人も、さわやかすぎる残酷さで彼女らを足蹴にするのだが、とにかく、メチャクチャ楽しそう

 それを見て、本気で吐き気をおぼえたけど、それをポールは見事に再現しているんだ、コレが。

 もちろん、それに私が嫌悪をもよおすのは

 

 「自分にも、そういう【正義をバックにつけて、思う存分に暴力をふるいたい】という願望があるから」

 

 にほかならず、いわば近親憎悪なのだが、だからこそ、それをむき出しにされるとキビシイ。

 ポールから「突きつけられてる」気がするからだ。

 

 「オレもオマエも、しょせんは、こんなもんやで」と。

 

 作中、ヒロインがあまりの試練に耐えかねて、

 

 「苦しみに終わりはないの?」

 

 そう叫び、嗚咽するシーンが見せ場だが、観ているこっちも

 「もう勘弁してください

 音を上げそうになる。まだ終わらんのかい、と。

 登場人物は、ドイツ人もオランダ人もユダヤ人も、それぞれにインパクトを残すが、もっとも印象的なのはやはり、主人公ラヘルの「友人」ロニーであろう。

 この女というのが、いわゆる尻軽で、ドイツがブイブイ言わしていたときはその愛人になり(相手はラヘルの家族を惨殺したフランケン)。

 ナチスが追い出されたら、いつの間にか連合軍兵士の彼氏を引き連れ、なんのかのと楽しく生きて、最後まで幸せになっている。

 この人をどう見るかは、

 

 「強い」「したたか」「クソ女」「天然」「ビッチ」「いい人」

 

 など人それぞれのようだが、ポールはあまり、否定的に描いているようには見えない。
 
 なぜ腰の定まらないロニーが、「天罰」のようなものを受けないのか。

 たぶんそれは彼女だけが、この救いのない物語の中で、唯一「憤怒の罪」をまぬがれているからではあるまいか。

 そこに「意思」があるかに違いはあるけど、ブラッド・ピット主演の『フューリー』(「憤怒」の意だ)における、最後にアメリカ兵を助けたドイツ兵のように。

 その意味で彼女は、徹底して戯画化されたリアリズム(というのも変な表現だけど)の中でファンタジー的存在。

 「天使」のようでもあり、他者の不幸の上に幸福を築く、無邪気な「悪鬼」のようにも見える。

 なんて見どころはタップリなんですが、なんせとにかく、全編

 

 「ポール・バーホーベンのガチ」

 

 を見せつけられて、そこがもう大変でした。

 鑑賞しながら、しみじみ思いましたね。

 そういや、この人って、こんなんやったなあ、と。

 傑作なのは間違いないけど、ここから5年くらいポールの映画お休みしてもええわ、とグッタリ。

 おススメですけど、すすめはしません。

 いやもう、とにかく疲れましたわ(苦笑)。

 

 

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「業の肯定」とフランス落語 カトリーヌ・ドヌーブ主演『しあわせの雨傘』

2020年10月30日 | 映画

 映画『しあわせの雨傘』を観る。

 あらすじは作品紹介によると、

 

 スザンヌは、朝のジョギングを日課とする優雅なブルジョア主婦。

 夫のロベールは雨傘工場の経営者で、「妻は美しく着飾って夫の言うことを聞いていればいい」という完全な亭主関白だ。
 
 ところがある日、ロベールが倒れ、なんとスザンヌが工場を運営することに。

 明るい性格と、ブルジョワ主婦ならではの感性で、傾きかけていた工場はたちまち大盛況! だが、新しい人生を謳歌する彼女のもとに、退院した夫が帰ってきた

 

 主演はカトリーヌドヌーブ

 といっても、この映画の彼女は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』のような、若くてコケティッシュな姿ではなく、もすでにいるというおばあちゃん役。

 ただ、そこはなんといってもフランスの名女優のこと。

 その存在感と華やかさはなかなかのもので、演技はもとより、ダンスと大はりきりと、その魅力をふんだんに振りまきまくって、まずそこを観ているだけでも楽しい映画。

 では肝心のストーリーはどうかといえば、これがまた実に良かった(以下、ネタバレあります)。

 物語のキーワードは

 

 「みんな間違ってるよなあ」

 

 家庭にしばりつけられた主婦が、ひょんなきっかけから社会に出ることになり、そこで自己実現のきっかけをつかんでいく、というのはストーリーとしては、さほど目新しいものではない。

 どっこい、これがフランス喜劇となると、そう一筋縄ではいかない。

 最初の45分くらいまでは、亭主関白の旦那がまくしたてるようにイバリ散らすため、この人が「悪役」として配置されているのかと思いきや、ことはそう単純ではないのだ。

 とにかく、この映画に出てくる登場人物は間違いまくりである。

 エラそうな旦那はもとより、カトリーヌ・ドヌーブも邪気のないおばあさんと思いきや、過去にはがいる身でガンガン男に抱かれてる。

 母親が横暴な父親の言いなりなのを、やや上から目線ながらも歯がゆく思っていたは、土壇場で裏切って、カトリーヌを社長の座から引きずり降ろし、

 

 「アンタ、家にしばりつけられてるウチのこと《飾り壺》やって、バカにしてたやないの」

 

 そう行動の矛盾をつっこまれると、

 

 「うん。ゴメンね。でも、パパと離婚はせんといて」

 

 的外れかつ、勝手なことを言う。

 なんといってもすばらしいのが、ジェラールドパルデュー演ずる左翼市長

 立派で高潔な彼はかつて一夜を共にしたカトリーヌと再会できて、やれうれしや、結婚しよう。

 さらには彼女の息子が、自分の隠し子だとカン違いして浮かれたあげく、彼女の放埓な一面を知ると、

 

 「ボクはブルジョアのメス豚にのぼせあがっとったんか……」

 

 突然、スゴイことを言い出す(笑)。

 あげくには、カトリーヌの息子が自分の落とし種でない(ついでにいえば夫の子でもない!)ことを知るや、家まで5キロもある郊外の湖に置き去りに。

 

 「ちょっと! ウチ、ハイヒールやのに、どうやって帰るのん?」

 

 という訴えにも、ガン無視で車を出してしまうところなど、ジェラール最低! でもって最高

 なんてちっちゃい男なんや、おまえはホンマと、もう大爆笑なのである。

 なんて書くと、なんだかこの映画の登場人物がみなそろいもそろって、愚か者エゴイストのような印象をあたえそうだが、そこはそうでもない

 たしかに彼ら彼女らは、たくさんの間違いを犯す。

 それも、なかなかに人としてヒドかったり、状況として最悪だったりと、観ていて「なにやってんのよ」と笑いっぱなし。

 でもねえ、これがフランス喜劇の底力なのか。

 そこがあんまり、怒ったり呆れたりといった感じにならないというか、むしろ、しみじみさせられるというか。

 なんか、人ってこういうバカなこと、言ったりやったりするよなあと。

 私も大人になって思うようになったことは、

 

 「人間って、そんなに賢くないよなあ」

 

 これは別に、「人類は愚かだ」みたいな、

 「どの目線でしゃべってるねん!」

 そう突っこみたくなるような文化人発言ではなく、なんかねえ、人ってそんないつもいつも賢明にはふるまえないじゃん、みたいな。

 

 「ここで、それやるか」

 「そこで、それ言うか」

 

 学校で、家庭で、仕事で、友人家族恋人に、そんなことばかりしてるのがというものだ。

 それらの多くは、あとで冷静に考えたら

 

 「なんであんなことを……」

 

 バカバカしくなったり、頭をかかえたりすることばかり。

 けど、そのときは感情がおさえられなかったり、それが最善だと思ってやってたりする。

 阿呆やなあとボヤきたくなるが、カートヴォネガット風にいえば、「そういうもの」ではあるまいか。

 それこそ、の立場からすると、ジェラールがカトリーヌをメス豚(何度聞いてもいい語感だ)呼ばわりしたあげく置き去りにするとか。

 下手すると「人間のクズ」というくらいヒドいんだけど、なんかわかる、とはいわないけど、自分だったらどうだろう。

 結構、似たようなことしちゃうんじゃないかなあ、少なくとも紳士的にふるまう自信はないよなあ……。

 なーんて苦笑してしまうというか。それは同じくカトリーヌやその娘の間違いも、それぞれの立場に共感できる人が見たら、

 

 「ヒドイ! でもなんか、わからんでもないわ……」

 

 そうなるんではあるまいか。その演出のさじ加減が絶妙なんスよ。

 この作品を見て思い出したのは、立川談志師匠のこんな言葉。

 

 「落語は人間の業を肯定する芸である」

 

 人間というのは完璧ではなく、間違いは犯すし、でもそれこそが人間であり、そこを笑って慈しむのが落語であると。
  
 もうひとつ、作家の池澤夏樹さんがギリシャ神話について語ったとき、こう言ってもいる。


 「神話というのは、人間の行動の基本パターンを物語化したものだと思う。

 人間は好色で、喧嘩好きで、すぐ裏切り、怒りに身を任せ、それでも崇高なものに憧れて、時には英雄的にふるまう」。

 

 ―――池澤夏樹『世界文学リミックス』 

 

 そう、この『しあわせの雨傘』はまさに「業の肯定」映画。

 「喧嘩好き」で、「すぐ裏切り」「怒りに身をまかせ」「時には英雄的にふるまう」。

 池澤先生の言うエッセンスが、すべて詰めこまれている。まさに「フランス落語」。

 それも日本の「人情喜劇」みたいに湿っぽくないのが良いというか、その理由に「間違い」に対する登場人物の反応もあるかもしれない。

 失敗失言に、もちろん怒ったりガッカリしたりはするし、それをゆるすというわけではないけど、そこでガッツリ傷ついたりしないというか。

 なんといっても、置き去りにされたカトリーヌは結局ヒッチハイクして帰るんだけど、そこで拾ってくれたたくましいトラック運転手とまんざらでもない雰囲気を出したりと(若き日のジェラール・ドパルデューもまた、かつてはしがないトラック運転手だった!)、メチャクチャこのあたりもカラッとしている。

 そこで泣きさけんだり、平手打ちしたりせず、このあっけらかんとしたところが、また良いのである。

 登場人物の愚かさに共感しつつも爆笑し、ついでに言ってしまえば、ラストでカトリーヌがとる行動が、またダイナミック

 アンタ、そこへ行きつきますか! パワフルやなあ。

 もうねえ、まいりましたよホント。なんて、かわいいおばちゃんなんや!

 フランス野郎がつくったから、しゃらくさいんだろとか思わず(のことです)、一度は見てください。

 ジェラール・ドパルデューとのダンスも最高。超オススメです。

 

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コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」にあふれた怪獣映画でしかない

2020年10月11日 | 映画

 コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」映画ではないか。

 私は「萌え」というのにうといタイプで、もともとアニメ美少女ゲームなどに縁があまりなかったせいか、そういった文化にピンとこないところがある。

 いや、もちろんキャラクターがかわいいというのは理解できるし、『ゆるキャン△』とかも好きだけど、それこそ『月刊熱量と文字数』のサンキュータツオさんや松崎君のような熱さでは語れないし、『艦これ』みたいな「擬人化」とかなってくると、もう置いてけぼりである。

 そんな「萌え」に関してはド素人の私が、「これがそうかも!」と感じるところがあったのが、映画『ノーカントリー』。

 傑作『ファーゴ』でヒットを飛ばしたコーエン兄弟によるバイオレンス映画で、専門家筋の評価も高いが、これが確かにおもしろかった。

 あらすじとしては、テキサスに住むベトナム帰還兵ジョシュ・ブローリンが狩りの最中に、死体が散乱しているのを発見する。

 どうも麻薬取引の際にトラブったギャングたちが、壮絶に撃ち合った後のようなのだが、相撃ちで全滅した後に、大金だけが残されてた。

 危険極まりない状況だが、ジョシュはその金を拝借することにする。

 だが唯一、瀕死ながらも生き残っていたギャングのことが気にかかり、「をくれ」と訴えていた彼のため現場に戻ったのが運の尽き。

 そこでギャングと鉢合わせしてしまい、命をねらわれるハメにおちいる。

 そこからジョシュはメキシコ系のギャングと謎の殺し屋、また彼を追う保安官賞金稼ぎなどもまじっての追跡劇に巻きこまれるのだが、ここでやはり、キモとなるのがハビエル・バルデム演ずるところの殺し屋シガーであろう。

 この人がですねえ、とにかく存在感が抜群。

 出てきた当初というか、オープニングはこの人からはじまるんだけど、とにかく何を考えているのかわからず、メチャクチャにアヤシイ雰囲気が芬々。

 自分を逮捕した保安官を殺すシーンとかは、まあ必然性があってわかるとして、その後も彼はとにかくバンバン人を殺しまくるんだけど、そのほとんどに大した理由がない

 いや、一応はウディ・ハレルソン演ずる賞金稼ぎが

 

 「ヤツなりの論理とルールで動いている」

 

 みたいなことを教えてはくれるんだけど、その内容の詳細はないし、そもそも気ちがいだろうから説明されても理解不能だろうしで、あたかもターミネーターのような、ただの殺人マシーンにしか見えないのだ。

 ハビエルのコワいのは、まず見た目

 これは演じた本人も

 

 「オレは見た目が変だから、こんな変な役がお似合いなんだよお」

 

 とボヤくように、たしかにそれだけでインパクト充分。

 

 

 

 

 

 

 一目、「オフってる状態の竹内義和アニキ」であろう。

 目や鼻など各種パーツが大きいため、そこが目を引くのに、それが劇中まったく動くことがないんだから、その能面のごとき冷たさが気になってしょうがない。

 とにかく、人を殺そうが、自分が撃たれようが、後ろでなにかが爆発しようが、ずーっと無表情

 思わずFUJWARAのフジモンのごとく、

 

 「顔デカいからや!」

 

 なんて、つっこみたくなる迫力なんである。

 さらにハビエルのコワいのは、その武器

 この手のバイオレンスといえば、やはり描写がおなじみだが、ハビエルの使っているのは、われわれの連想するバンバンというアレではない。
 
 ボンベを使った空気圧で弾を打ち出すという、なんでも家畜専門の安楽死アイテムらしく、その「プシュ」という乾いた音とともに、

 

 「人間を、家畜程度にしか呵責を感じず殺す」

 

 という空虚感も表現されていて、これまたすこぶるオソロシイ。

 なにかこう、「処理してます」感が満々なのだ。

 とどめは妙な粘着性。

 物語前半の、ガソリンスタンドにおけるおじさんとのやりとりなど、観ていてストレスがすごい。

 善良そうなおじさん相手のなにげない無駄話に「なにがおかしい?」「どう関係あるんだ?」とネチネチからみまくり、

 

 「ちょっと、ヤバイ客やん……」

 

 テンション下がりまくりのおじさんに、

 

 「いつ寝るんだ?」

 「おまえの家は裏にあるあれか?」

 「その時刻に会いに行く」

 

 とか、あまつさえ突然コインを取り出して、

 

 「表か裏か賭けろ」

 

 なんて言い出して、「何を賭けるんだ?」と訊いてもまったく応えてくれなくて、たぶん外すと殺されちゃうんだけど、その殺人に動機とかもなくて……。

 いやわかるよ。ここでなんの理由もなく殺されても、
 
 
 「この世界は生も死も、不条理に与えられたり奪われたりする」
 
 「運命などといったところで、それがどうなるかに必然性などない」
 
 
 みたいな、虚無を表現してるとか、そういうのんなんだろうけど、それよりなにより、理屈抜きでこんなヤツに生殺与奪の権を握られたくないよ! 

 観ているだけで心がザワザワして、耐えられません。もう、東京03の飯塚さんのごとく、

 

 「こえーよー!」

 

 絶叫したくなるようなシーンが延々と続くのだ。

 そう、この『ノーカントリー』はラストの終わり方とか(コーエン兄弟によると「だって、原作がそうだからしゃーないやん」とのことらしいけど)、おびただしい数の殺人とか、イェーツの詩とかトミー・リー・ジョーンズのの話とか、それこそコインに象徴されるハビエルの思わせぶりな「悪魔的」行動とかで、

 

 「形而上学的で難解」

 

 と解釈する人もいるみたいだけど、私からすればこれはもう、

 

 「ハビエル・バルデム大暴れ映画」

 

 ということで、いいんでないかと思うわけだ。「怪獣映画」ですよ。

 いやーなんか、ストーリーとかどうでもよくて、

 

 「《無垢なる暴力》としての象徴」

 「人の運命は不条理で残酷なもの」

 「欲と悪にまみれた人間の悲劇」

 

 とかなんとか、そういうのはとりあえずに置いておいて、それ以上にやはりキャラクターとしての勝利ではないかと。

 なんかねえ、月影先生とか、黒い天使の松田さんとか、男岩鬼みたいに、

 

 「出ているだけでオモロイ」

 

 そういうことなんじゃないだろうか。

 で、そこでポンと手を叩いたわけだ。

 「これって、【萌え】っていうんじゃね?」

 つまりだ、「萌え」の定義は数あれど、そのなかのいくつに、

 

 「なにも事件など起こらなくても成立してしまう」

 「存在することが、もうかわいい」

 「見ているだけで癒される」

 

 こういうものがあるとすれば、まさにこの映画のハビエル・バルデムが当てはまる。

 以前、『けいおん!』を観たとき、なんとなく退屈で1話でやめてしまい、アニメファンの友人に、

 

 「その、なにも起らん感じがええのになあ」

 

 と諭されたことがあったが、たしかにあの作品の唯ちゃん律ちゃんをハビエルに変換すれば、今なら言いたいことはわかる。

 それなら絶対におもしろいし、観る。それこそ、まさにキャラクターの魅力であり、「萌え」ではないのか。

 ということで、早速『けいおん!』をすすめてくれた本人である友人イズミ君に問うてみたところ、

 

 「いや、違うと思うけど……」

 

 私の萌えへの道は2020年も遠そうである。

 

 

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ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』が好き好き大嫌い!

2020年08月16日 | 映画
 「オレは『グランドブダペストホテル』という映画が好き好き大嫌いやあああああ!!!!!」。
 
 週末の夜に、そんな岡崎京子さんのマンガのような声がこだましたのは、友人アクタガワ君のこんな言葉からだった。
 
 
 「これ、君が好きそうな映画やから見たら?」
 
 
 そうして渡されたDVDが、『グランド・ブダペスト・ホテル』であった。
 
 『ロイヤルテネンバウムズ』『ダージリン急行』など、非常に洗練された作風で鳴らす、ウェスアンダーソンが監督をつとめた作品。
 
 ライムスター宇多丸さんをはじめ、評論筋からも非常な高評価を得た良作だ。
 
 舞台は1932年、東ヨーロッパにあり、おそらくはハプスブルク家が治めるオーストリア=ハンガリー帝国の一部だったであろう小国ズブロフカ共和国
 
 グランド・ブダペスト・ホテルはズブロフカ随一の高級ホテルであり、そこのコンシェルジュであるグスタフと、難民からこのホテルに拾われたベルボーイゼロを主人公に、殺人事件や名画をめぐる冒険を描いた、ミステリ調の喜劇である。
 
 で、これがおもしろかったのかといえば、たしかに評判通り、いい出来であった。
 
 ストーリーはテンポよく進み飽きさせないし、かわいいミニチュアに、色合いから画面構成、セリフ回しのさなど、実に巧みでオシャレである。
 
 玄人の映画ファンから、デートムービーで行くカップルまで、幅広い層にも楽しまれそうなところもすばらしい。
 
 そしてなにより、友がニヤニヤしながら「いかにも」といった要素が、こちらのツボをくすぐりまくる。
 
 学生時代ドイツ語とドイツ文学を学び、今でも池内紀先生の本を愛読している身からすると、もう舞台設定からして、どストライク。
 
 ストーリーや空気感も、エルンストルビッチからビリーワイルダーの師弟ラインや、ハワードホークスプレストンスタージェスといった流れにバンバンに乗っかっており、これまた大好物。
 
 とどめに、シュテファンツヴァイクの名前まで出てきた日には、もう笑うしかない。
 
 『マリーアントワネット』や『ジョゼフフーシェ』はもう、学生時代何度も読み直したものだ。『マゼラン』『人類の星の時間』とか。
 
 そんな、全編「オレ様の大好物」でできているような映画でありまして、そらアクタガワ君がすすめるのもしかり。
 
 いやあ、ようできた映画ですわ。次はぜひ、ヨーゼフロート『聖なる酔っ払いの伝説』か、シュニッツラーの『輪舞』を撮ってくれないかしらん。
 
 カレルチャペック『長い長いお医者さんの話』でもいいなあ……。
 
 なんて感想を思いつくままに語ってみると、
 
 
 「なんだおまえは、ふつうに楽しんでいるではないか。それなのに、さっきは《大嫌い》といっていたが、それはどういうことなのだ」
 
 
 なんて、いぶかしく思う向きもおられるかもしれないが、そうなんです。
 
 やっぱオレ、この映画が好きになれないなあ。
 
 理由は、ひとことで言えば「近親憎悪」。
 
 よくあるじゃないですか、オタクマニアと呼ばれる人が、同じ趣味志向の人を見ると、同志愛をおぼえると同時に複雑な感じになることが。
 
 「アイツはわかってない」と議論になったり、なぜか「一緒にしないでくれ」と否定して周囲から「一緒や」と苦笑されたり。
 
 そういう、めんどくさい感情にとらわれるのが、同族嫌悪と言うやつなのだ。
 
 冒険企画局の『それでもRPGが好き』という本の中で、
 
 
 奈那内「近藤さんは、エンデが嫌いでしたよね」
 
 近藤「冗談じゃない。嫌いなものか」
 
 (中略)
 
 奈那内「でも、なんかエンデの本について話しだすと、近藤さんトゲトゲしいですよ」
 
 近藤「だって、あの人理屈っぽいんだもの。自分の作品について、作者のくせにいろいろ理論を語っちゃうし」
 
 奈那内「同じですよ、近藤さんと……。あ、そうか。だから議論になっちゃうんだ」
 
 
 こんなやりとりがあったんだけど、近藤功司さんの気持ちはスゲエわかる!
 
 ましてや、同じ世紀末ウィーンの話をしても、ウェスはラジオ番組「たまむすび」で赤江珠緒さんに「かわいい」って言われるのに、私だと、
 
 
 「なにがウィーンだ。テメーは『ゴジラ対メガロ』の話でもしてろ!」
 
 
 ……てなるのは目に見えてるんだもんなあ。
 
 シュテファン・ツヴァイクを取り上げても、将棋の佐藤天彦九段なら「貴族」だけど、私だと
 
 
 「乞食が、なんかいうとるで」
 
 
 てあつかいですやん、きっと。
 
 まあ、その不公平感といいますか。「同類」やのに、なんでオマエだけモテてるねん! 
 
 ……なんか、言葉にすると、すげえ情けないですが、まあそういうこと。
 
 ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』はとってもおもしろかったので、私以外の方には超オススメです。
 
 
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平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 『桐島、部活やめるってよ』の松岡茉優編

2020年01月24日 | 映画
 「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 
 
 そんなことを言ったのは、後輩ハナタグチ君であった。
 
 彼は映画やマンガが好きなのだが、最近そこで出てくる悪者に不満があり、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 「弱者による世界への復讐」
 
 
 のような、人生哲学感情移入を誘発するヤツはアカンと。
 
 
 「もっとシンプルに、平松伸二先生の『ブラックエンジェルズ』に出てくるような、心の底からブチ殺したくなる、わかりやすい悪がええんです」
 
 
 というのが彼の望みなのだ。
 
 
 
 
 
声に出して読みたい松田さんの名セリフ。
「いや、ネットリンチとかって、そういうノリから……」とは、とてもつっこめません。
 
 
 
 
 
 前回『シカゴ』のヒロイン(→こちら)などを紹介したが、続けて「やな女」部門から。
 
 映画版『桐島部活やめるってよ』の野崎沙奈
 
 
 
 
 
 
 
 
 もともと『桐島』は、観たあとかならず自分の青春時代を良かれ悪しかれ振り返り、そのさまざまな記憶の奔流に、
 
 
 「ああ!! あああああ!!!!」
 
 
 頭をかかえて悶絶させられるという、デヴィッドフィンチャーゴーンガール』のような、
 
 
 「絶対見るべきだが、決しておススメではない」
 
 
 といったタイプの映画だが、とにかく鑑賞中ずっとザワザワしっぱなしで、居心地が悪いのなんの。
 
 そもそもこの映画は、学校という閉鎖空間の息苦しさを見事に表現した、ある種の「収容所もの」でもあるわけだが、これはもうオープニングでの女子4人の会話から、これでもかとそれを感じさせる。
 
 なんかあの女子たちの、
 
 
 「顔がかわいいもの同士なんとなくつるんでいて、別にそこに熱いものはないけど、そこを軸に周囲を見下す態度を取ることに、やぶさかでない」
 
 
 という、イヤーな連帯感を見せられる。もうこの時点で、
 
 「あ、これはアカンやつや」
 
 という気にさせられますよねえ。
 
 部活のことで悩んでるバドミントン部の子に、
 
 
 「あたしだって、別に本気でやってるわけとかじゃないし」
 
 
 みたいなことを言わせる同調圧力とか、ヒドイなあ。
 
 監督の演出が巧みすぎて、ちょっと正視できない感じなのだ。
 
 でだ、立場的には明らかに文化系地味男子の私からすれば、あのパーマとか桐島の彼女とか言いたいことあるヤツはいっぱいいるわけだけど、中でもダントツに「仮想敵国」になるのが、松岡茉優さん演ずるところの野崎沙奈。
 
 いやもう、この女がねえ、すごく、すーんごく、やな女なんですよ。
 
 うーん、これじゃあ言い足りなあ。ちょっとここは一発いかしてください。
 
 松岡茉優ちゃん演ずるところの、野崎沙奈。これがもう、すごく、すごーくヤな女で、もう観ている間中ムカムカしまくりで、死ねこのクソ女とスクリーンに叫びまくりやあああああ!!!!
 
 ぜいぜい……ちょっと興奮してしまったけど、とにかくそういうこと。
 
 もう、無茶苦茶に、ムーッチャクチャにイヤな女なのだ。
 
 このふだんはボーっとした私が、連呼してしまったものねえ。
 
 死ね、死ねこの女、今すぐ死刑
 
 嗚呼、腹立つぜ。
 
 これは私だけでなく、映画評論家の町山智浩さんをはじめとして、この映画を観た男子が同じように、
 
 
 「やな女なんだよー(苦笑)」
 
 
 と語っているから、本当にそうなんだろう。
 
 具体的にどう嫌なのかは映画を観てもらうとして、彼女のすごいのは個々の言動とか言うよりも雰囲気というか、とにかく全身から「イヤな女子高生」オーラが噴き出ているところ。
 
 なにがどうということはないけど、わかるのだ。コイツとは絶対に仲良くなれないよ、と。
 
 いや、これねえ。もちろん、ほめ言葉なんです。
 
 つまるところ、セリフとかうんぬんじゃなくて彼女自身が
 
 「ヤな女にしか見えない」
 
 ということは、演じている松岡茉優さんが、すんごく演技上手ということなんですよ。
 
 彼女はNHKのドラマ『あまちゃん』で、
 
 「明るくがんばり屋で、それでいてちょっと抜けているところがあって、皆から慕われるリーダー」
 
 ていう、まさに正反対の役をやってるから、よけいにその達者さが際立つ。
 
 すごいなあ、この子。今の邦画やテレビドラマの大きな弱点
 
 
 「役者がそろいもそろって演技が下手すぎる」
 
 
 ということだから(なので『シンゴジラ』は「演技をさせない」ため、あんな編集になってるんですね)、よけいにそれが際立つというもの。
 
 この作品は群像劇であり、あえていえば神木隆之介君と東出昌大君が主人公になるんだろうけど、物語の芯を支えている裏MVPは、間違いなく松岡茉優さんであろう。
 
 もう、出てくるたびに、
 
 「この女、オレ様が成敗してくれる!」
 
 て気になるのだ。まあ、どう「成敗」するかは、ご想像におまかせしますが(←絶対エロいこと考えてるだろ)。
 
 いやあ、いいなあ松岡さん。最高ですやん、この子。
 
 というと、なんだかさんざ語っておいて「最高」とはどういうことだとつっこまれそうだけど、前回も言ったように、
 
 「女のド外道は魅力的でもなければならない」
 
 わけで、その定義からいっても、松岡茉優さん演じるあの女は、もう腹立って、ぶん殴りたくなって、「でも……」という気分にさせられる、「最高にいいクソ女」なのである。
 
 つまるところ、結論としては、
 
 
 「ゴミみたいなあつかい受けてもいいから、死ぬほど根性の曲がった松岡茉優さんとつきあいたい」
 
 
 ということであり、マジで惚れますわホンマ。
 
 
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